皆さん、渋沢栄一をご存じでしょうか?2024年7月に新たに1万円札の顔になるということで話題になっている渋沢栄一ですが、一体どんな人物か詳しい人は少ないと思います。渋沢栄一は歴史の教科書にはあまり詳しくは登場しませんが、日本で初めての銀行の設立に始まり生涯で約500もの企業の立ち上げに携わった「日本資本主義の父」なのです。今回は意外と知られていない渋沢栄一について紹介していきたいと思います。
渋沢栄一は何した人?
渋沢栄一は「近代日本経済の父」と呼ばれる実業家でした。1840年に武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)で農家の家庭に生まれ、幼少期から家業の藍玉製造や養蚕を手伝いながら、父親から学問の基礎を学びました。7歳頃からは従兄の尾高惇忠のもとで、「論語」などの四書五経を学びました。
1863年に渋沢は幕府の階級制度や外交施策に対する不満から、尊王攘夷思想に影響を受け、高崎城乗っ取りや横浜の外国人商館焼き討ちを計画しましたが、直前で断念しました。幕府から逃れるために故郷を離れた渋沢は、一橋家に仕えることになり、財政改善などの手腕を発揮し、その才能が認められていきました。徳川慶喜の弟・昭武の欧州視察に随行し、先進技術や産業、近代的な社会制度を学んだことが、渋沢の人生に大きな影響を与えました。
帰国後、静岡で商法会所を設立し地域振興に尽力していましたが、明治政府に招かれ、新しい国づくりに参加しました。その一環として、世界遺産である富岡製糸場の設立にも関わりました。1873年に官僚を辞職した後は、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の総監役(後に頭取)となり、民間人として近代的な国づくりを目指しました。渋沢は生涯にわたり約500の企業の設立・育成に関わり、約600の社会公共事業や教育機関を支援し、民間外交にも尽力しました。
渋沢栄一は単に利益を追求するだけでなく、公共の利益を追求し、皆が幸せになることで国が豊かになるという考えを実践した実業家でした。日本の経済の近代化を推し進めただけでなく、あるべき姿を体現していったのです。
渋沢栄一の簡単な年表
それでは渋沢栄一が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。
年 | 出来事 |
1840年 | 現在の埼玉県深谷市血洗島(ちあらいじま)に生まれる。 |
1847年 | 従兄の尾高惇忠から漢籍を学ぶ。 |
1863年 | 高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが、計画を中止し京都に出奔。 |
1864年 | 一橋慶喜(後の徳川幕府第15代将軍徳川慶喜)に仕える。 |
1867年 | 徳川昭武とともにフランスへ出立(パリ万博使節団)。 |
1868年 | 明治維新によりフランスより帰国、静岡で慶喜に面会。 |
1873年 | 大蔵省を辞める。第一国立銀行開業・総監役。 |
1875年 | 第一国立銀行頭取を務める。 |
1876年 | 東京会議所会頭、東京府養育院事務長を務める(後に院長)。 |
1885年 | 日本郵船会社創立(後に取締役)する。また東京養育院院長も務める。 |
1901年 | 日本女子大学校開校・会計監督(後に校長)。東京・飛鳥山邸を本邸とする。 |
1916年 | 第一銀行の頭取などを辞職して実業界を引退する。 |
1926年 | 東京・大阪・名古屋の3つの放送局が合併し、新たに日本放送協会が設立され顧問に就任。 |
1931年 | 大腸狭窄症により死去 |
勉学に励み商才の片鱗を見せた幼少期
渋沢栄一は幼名を市三郎(または栄治郎)といい、1840年2月13日に、岡部藩2万250石安部家の領地である武蔵国榛沢郡(現埼玉県深谷市)の血洗島村で生まれました。父は渋沢市郎右衛門、母はお栄で、市三郎こと栄一は三男として生まれましたが、兄ふたりが早世したため、実質的に長男として育てられました。
栄一は6歳の頃から『大学』や『中庸』、『論語』などの儒教の経典を父から学び、7、8歳になると、7、8町離れた手許村の10歳年上の従兄、尾高惇忠に入門しました。惇忠からは『小学』や『蒙求』、『文選』、『左伝』、『史記』、『漢書』、『十八史略』、『天明史略』、『国史略』、『日本外史』などの中国古典を学びました。さらに、11、2歳頃からは『通俗三国志』や『里見八犬伝』、『俊寛島物語』などの娯楽的な読物にも親しみました。
父の命令で、栄一は次第に農業と商売に関わるようになり、特に藍の買い入れに才能を発揮しました。藍は自家生産だけでなく、他家で作ったものも買い入れ、藍玉に加工して信州や上州などの紺屋に販売していました。16、7歳の時、栄一は祖父の敬林とともに藍の買い出しを始め、選定の腕前を磨いていきました。栄一は21軒もの藍を一度に買い上げるという大胆な決断をし、その手際を父に称賛されましたが、あまりの大胆さから父に厳しく叱られることもありました。
安政元年(1854年)、栄一は叔父とともに江戸へ出かけ、代金1両2分で桐製の書籍箱と硯箱を購入して帰宅しました。しかし、父はこれらの品が華美であることを懸念し、百姓の家としての堅実さが失われることを恐れました。この出来事からもわかるように、栄一の才能と野心は早くから顕在化しており、彼が農民として終わる人間ではないことは明らかでした。
高崎城乗っ取り、横浜焼き討ち計画を中止し京都へ
渋沢栄一は、江戸での志士たちとの交流や水戸学への傾倒を通じて、徳川幕府に対して攘夷思想を抱くようになりました。従兄弟の渋沢喜作とともに、攘夷蜂起を目指す同志を組織し、1863年11月12日に高崎城を乗っ取って武器や弾薬を奪い、鎌倉街道を南下して横浜を焼き討ちし、外国人を排除する計画を立てました。
しかし、同年10月29日に行われた主だった同志との会合で、渋沢の従兄弟であり妻の兄でもある尾高長七郎が、天誅組の大和挙兵の失敗を例に挙げて計画の実行に反対しました。渋沢は計画の決行を主張し、議論は平行線をたどりましたが、幕府もこの計画を察知して動き出していました。そのため、渋沢は京都へ逃れ、計画は実行されませんでした。
一橋慶喜へ使え倒幕から幕臣へ
1864年、渋沢栄一は京都に到着しましたが、生計の見通しが立っていませんでした。そんな中、以前から親交のあった一橋家の重臣、平岡円四郎の勧めで、一橋慶喜(後の第15代将軍徳川慶喜)に仕えることになりました。これにより、栄一は農民から武士へと身分を変えました。
栄一は平岡の助けを借りて、一橋慶喜に謁見を求めました。そして、土下座をしながらも率直に意見を述べました。「徳川家と一橋家が共倒れしないためには、幕府を倒そうとしている者たちを一橋家に集め、力を結集させるべきです。そうすれば、いずれ天下を治めることができるでしょう」と提案しました。驚くことに、慶喜はこの提案に賛成しました。
慶喜の信頼を得た栄一は、江戸や一橋家の領地内を回り、歩兵の増強のために募兵活動を行い、成果を上げました。また、一橋家の財政危機を改革するため、酒屋に年貢米を酒米として大量に売りさばき、多くの利益を得ることに成功しました。さらに、白木綿や火薬の原料である硝酸の販売など、新しい事業を展開し、一橋家の財政再建に大きく貢献しました。
こうして栄一が一橋家での地位を確固たるものにしていく中、1866年、一橋慶喜が第15代将軍に就任しました。その結果、栄一は幕臣に取り立てられ、陸軍奉行支配調役という陸軍奉行の書記官の役職を与えられました。こうして、栄一は倒幕の志士から幕府の重臣へと転身したのです。
ヨーロッパへ
1867年、渋沢栄一は第15代将軍徳川慶喜の弟、徳川昭武(14歳)に随行して、ナポレオン3世が主催するフランス・パリの世界大博覧会を見学しました。このヨーロッパ滞在中、栄一はちょんまげを切り落とし、洋装に改めました。そして、議会、取引所、銀行、会社、織物工場や機械工場、病院、上下水道、ガス灯、鉄道や海運業など、多岐にわたる施設やインフラを見学しました。進んだヨーロッパ文明とそれを支える資本主義システムに驚嘆し、身分差のない平等な社会に感銘を受けました。
栄一の心に特に強く残ったのは以下の三つの出来事でした。まず、ベルギー国王レオポルト2世に謁見した際、国王自身が日本にベルギーの鉄を使うよう提案し、商売に関与している姿勢に驚きました。次に、商工業者と軍人が尊卑や上下の感覚なく対等に接している様子に感銘を受けました。最後に、銀行の仕組みを学び、株式と公債を体験したことです。特に、証券取引所で政府公債と鉄道社債を購入し、栄一自身も鉄道社債で大金を得たことは大きな経験となりました。このヨーロッパ視察が、栄一の人生に大きな影響を与えることになりました。
パリから日本へ戻り静岡藩で経営の才能を発揮し、その後大蔵省へ
渋沢栄一がパリ滞在中に徳川幕府が崩壊し明治維新が起きました。渋沢栄一は日本へ戻り、徳川慶喜が引退し隠居していた静岡藩で経営の才を発揮し始めました。
当時徳川家は約400万石から70万石へと大幅に収入が減り、旧幕臣たちは生活に困窮していました。そんな中、渋沢は1869年、駿河・遠江(現在の静岡県)の豪農商からの資金と明治政府からの借金を元手に商法会所を設立し、多岐にわたる営利事業を展開しました。藩内に米穀などの日用品を供給し、茶や漆器などを藩外で販売し、さらには商品を抵当にした金融業も行いました。
そんな経営の才能をいかんなく発揮していた渋沢栄一に明治政府への出仕を勧めたのは大隈重信でした。渋沢は旧敵である新政府への移籍に抵抗しましたが、優秀な人材を徳川家に抱えておくことが捲土重来の意図として疑われることを懸念しました。勝海舟らの仲介により、徳川家の軍事エキスパートや欧米法思想の専門家が新政府に転籍していく中、最終的に渋沢も大蔵省に移りました。渋沢は当時の最高権力者である大久保利通の財政方針に異議を唱え、対等に政策論議を行うほどの実力を持っていました。その後、渋沢は民間に転じ、多くの企業を設立し、今日まで続く基盤を築きました。
渋沢栄一の銀行・保険への功績
1873年、渋沢栄一は明治政府での直属の上司である井上馨や外交官のアレクサンダー・フォン・シーボルト、ハインリヒ・フォン・シーボルト兄弟の協力を得て、資本家として力をつけていた三井高福と小野善助、通称三井組と小野組を説得させ、「第一国立銀行」(後の「第一銀行」、「第一勧業銀行」、現在の「みずほ銀行」)の総監役に就任しました。
渋沢は、「三大メガバンク」と呼ばれる「三菱UFJ銀行」、「三井住友銀行」、「みずほ銀行」をはじめ、日本各地の地方銀行の前身となる銀行の設立に数多く関わりました。また、保険分野でも「東京海上日動火災保険」や「ニッセイ同和損害保険」など、大手保険会社の設立にも貢献しました。
渋沢が関与した銀行や保険会社は47社にも上り、その時価総額は29兆1,600億円に達すると言われています。この銀行の立ち上げを機に本格的な実業家への道を進み始めた渋沢栄一は生涯で約500社の立ち上げに関わることになります。
渋沢栄一の福祉・医療に関する功績
東京都板橋区には、高齢者を中心に高度医療を提供する大規模総合病院「東京都健康長寿医療センター」があります。このセンターの前身である「養育院」の運営にも渋沢栄一は深く関わっていました。
養育院は、生活困窮者、病人、孤児、老人、障がい者など社会的弱者を保護するために設立された施設です。江戸時代の無料医療施設「小石川養生所」を基にして作られました。渋沢栄一は、開設当初、「七分積金」(町費節約で生じた7割を積立て、貧民救済などに充てる政策)の管理を担当していました。
その後、渋沢は養育院の運営にも関与し、1876年(明治9年)には養育院事務長に就任しました。財政難に陥っていた養育院を立て直すために奔走し、その努力が実り、1890年(明治23年)には養育院が東京市営の施設となり、渋沢は院長に就任しました。
以降、渋沢栄一は亡くなるまで養育院の院長として活動し続けました。現在も東京都健康長寿医療センターの敷地内には、渋沢栄一の銅像が建てられています。
渋沢栄一の教育に関する功績
渋沢栄一は実業だけではなく生涯にわたり教育の普及にも尽力してきました。運営や設立に携わった教育機関が合計で164校に及びました。特に力を注いだのは「商業高校」と「女子教育」の強化でした。
当時、著名な国立大学を卒業した人物がエリートと見なされていましたが、渋沢は実際に企業を運営できる人材を育成する「商業教育」の重要性を強調しました。日本の未来を支える人材を育成するため、「東京商業学校」(現在の一橋大学)、「高千穂商業学校」(現在の高千穂大学)、「大倉商業学校」(現在の東京経済大学)、「名古屋商業学校」、「横浜商業学校」など、多くの商業教育機関の設立に尽力しました。
また、渋沢は女子教育にも力を注ぎました。当時、日本の女性の多くは高等教育を受けておらず、文字を読めない人も少なくありませんでした。渋沢は、女性にも教養を身につけさせることで、その子どもたちの教育レベルも向上させようと考えました。
彼は、「女性の社会進出」ではなく、「家庭を支える良妻賢母を増やしたい」という思いから、伊藤博文や勝海舟とともに「女子教育奨励会」を設立しました。初めは「良妻賢母の育成」を目指していましたが、後に女性が活躍できる社会を目指すようになり、「日本女子大学校」(現在の日本女子大学)や「東京女学館」などの名門女学校の創立にも関わりました。渋沢は晩年まで経営支援を続け、女子教育の発展に大きく貢献しました。
渋沢栄一の放送・通信に関する功績
渋沢栄一は実は「NHK」(日本放送協会)の歴史にも関与しています。NHKは現在、放送法に基づいて公共放送を行う特殊法人ですが、設立当初は「社団法人」として運営されていました。渋沢栄一はその設立当初から顧問に就任し、亡くなるまで放送業を支援し続けました。
また、渋沢は現在の日本最大手広告代理店である「株式会社電通」の前身「電報通信社」の創設にも貢献しています。1901年(明治34年)7月、電報通信社の創業者光永星郎が通信事業の資金調達を目的に「日本広告株式会社」を設立した際、渋沢栄一は賛助員として広告業を支援しました。その後、光永星郎は「電報通信社」を設立し、改組や合併が行われる中でも渋沢の支援は続きました。
さらに、渋沢栄一は対外通信社の支援にも尽力しました。渡米実業団の団長としてアメリカを訪れた際、日本に関する報道が少なく、悪意ある報道が多いことを目の当たりにした渋沢は、日本から積極的にニュースを発信する「国際通信社」の設立を決意しました。最終的にはロイターの影響力によりその目的は達成できませんでしたが、この「国際通信社」は後に「時事通信社」や「共同通信社」の起源となり、渋沢は日本の通信社の歴史にも深く関与することになりました。
渋沢栄一のライフラインや飲料メーカーへの貢献
渋沢栄一は、銀行・保険、放送・通信、医療・福祉・教育だけでなく、ライフラインや飲料メーカーの成長にも大きく貢献しました。
電力事業では、1883年(明治16年)に「東京電灯株式会社」(現在の東京電力株式会社の前身)の発起人として関わりました。また、ガス事業でも「東京瓦斯会社」(現在の東京ガス株式会社)や「名古屋瓦斯株式会社」(現在の東邦ガス株式会社)の設立に携わりました。
さらに、渋沢は日本を代表するビール会社「サッポロビール株式会社」と「アサヒビール株式会社」の設立にも関与しました。この二社の設立はほぼ同時期であり、渋沢はあえて同業者を同時期に育成することで、競争を促しビール業界の発展を目指しました。
渋沢栄一のこれらの貢献により、電気やガスといったライフラインが整備され、飲料メーカーが成長し、日本の産業基盤が強化されました。
渋沢栄一の死因
渋沢栄一は91歳で大腸狭窄症により亡くなりました。亡くなる1か月前の10月14日、腸閉塞のために開腹手術を受けた後、食欲不振に陥りました。この手術後、渋沢はベッドに横たわり、上半身を起こしながら、スープを毎食二口ほどしか食べられなくなりました。
最期の瞬間、渋沢栄一の片手を息子の渋沢篤二が、もう片手を孫の渋沢敬三が握っていました。両手を息子と孫に握られながら、渋沢栄一は静かに息を引き取りました。
亡くなる前、渋沢栄一は最期の言葉を残していました。
皆様、長い間お世話になりました。
私は100歳までも生きて働きたいと思っておりましたが、今度という今度は、もう立ち上がれそうもありません。
これは病気が悪いのであって、私が悪いのではありません。
死んだあとも、私は皆様のご事業やご健康をお守りするつもりでおりますので、どうか今後とも、他人行儀にはしてくださらないように、お願いいたします。
渋沢栄一の性格
渋沢栄一は生涯を通じて「道徳経済合一説」を追求しました。この思想は、企業が利潤を追求するだけでなく、その根底には道徳が必要であり、国や人類全体の繁栄に責任を持つべきだとするものです。渋沢は、社会貢献や人々の幸福を追求する「公益」(道徳)と、企業や事業の継続に不可欠な「利益」(経済)の両立を重視しました。この両立は容易ではありませんが、渋沢はそれを実現しました。
渋沢が道徳と経済を両立させることができた理由の一つは、彼の「先見の明」にあります。彼が関わった事業は、海外で既に始まっていたが日本ではまだ展開されていなかったインフラ事業や保険業など、人々の生活に欠かせないものでした。渋沢は、ヨーロッパ留学や多くの人々との交流を通じて、さまざまな情報を得ることで、人々の生活を豊かにしながら利益を得る事業を見つけることができました。
現代の日本はグローバル化が進み、新興国への支援も多く行われています。このような状況下で重要なのは、単に利益を追求するだけでなく、公益にもつながるかを考えることです。つまり、その国を豊かにするために、公益と利益の両方を重視する経営者が求められます。
渋沢は500以上の事業の設立に関わりましたが、その経営は他の人に任せました。彼は、自ら経営を行うのではなく、多くの人が「公益」を追求することを望んでいました。日本資本主義の父と称される渋沢栄一は、日本の経済近代化における最大の功労者であり、その数々の功績は現在でも高く評価されています。
渋沢栄一のエピソード
それでは最後に渋沢栄一のエピソードを見ていきましょう。渋沢栄一も様々なエピソードがあるので必見です!
書物に夢中になりドブに落ちる
12歳の正月に、渋沢栄一は年始廻りに出掛けた際、本を読みながら歩いていたため、うっかりドブに落ちてしまいました。その結果、晴れ着を汚してしまい、母親に叱られました。このエピソードは、彼が幼少期から勉学に非常に熱心であったことを物語っています。後年、栄一は『論語』の教えを自身の道徳規範とし、豊富な語彙力と表現力を駆使して『論語と算盤』などの著述を行うことができました。これらの能力は、幼少期の勉学の成果であるといえます。
大の女好き
他の歴史上の偉人がそうであるように渋沢栄一も例にもれず大の女好きでした。1863年、最初の妻との間に長女が生まれた年、渋沢栄一は父から100両をもらい、従兄弟の渋沢喜作とともに京都に向かいました。この時、初めて吉原を訪れた渋沢は、後に「たちまち24、5両の金がなくなってしまった」と語っています。当時、1両の価値はおよそ13万円であったため、渋沢は吉原で約325万円もの大金を使っていたことになります。
渋沢栄一は非常に女好きで、少なくとも20人の婚外子がいたとされています。しかし、これは当時の倫理感覚によるものであり、渋沢の周囲にも同様に女遊びを楽しんだ男性は少なくありませんでした。例えば、伊藤博文は渋沢よりも派手に女遊びをしていたと言われており、徳川慶喜は側室との間に10男11女をもうけています。
渋沢栄一の妻はこの状況にさぞ苦労したことでしょう。後妻の渋沢兼子は子どもたちに対して、「大人(渋沢栄一)は論語といううまいものを見つけなさった。あれが聖書なら絶対守れなかったろうに」と話していました。聖書には「汝、姦淫するなかれ」とありますが、論語は性道徳についてあまり触れられていなかったのです。
岩崎弥太郎と喧嘩別れ
渋沢栄一と同じ時代に活躍した実業家に、岩崎弥太郎がいます。彼は渋沢としばしば比較されていましたが、実はその考え方は正反対でした。
1878年、岩崎弥太郎は向島の船宿柏屋で渋沢栄一を呼び出し、酒を交わしながら「これからの実業はどうあるべきか」と問いかけました。岩崎は海運業の独占を目論んでおり、渋沢を仲間に引き入れようと考えていました。
しかし、渋沢栄一は自分の信じる合本主義を岩崎に説きました。岩崎はこれに異を唱え、激しい議論が展開されました。最終的に、二人の意見は平行線をたどり、渋沢栄一はその場を立ち去ることになりました。この出来事が原因で、二人の関係は険悪になったのです。
新しい1万円札に選ばれた理由
渋沢栄一が新しい1万円札の顔に選ばれた理由は、私利私欲に走ることなく数多くの企業の設立を後押しした「日本資本主義の父」としての功績にあります。彼が設立に関与した企業は約500社に及び、多くが現在の日本経済を牽引する大企業に成長しています。さらに、渋沢は約600件の社会公益事業や慈善活動にも貢献しました。
もし渋沢栄一がいなかったとしたら、日本の資本主義は欧米諸国よりも立ち遅れていたかもしれません。渋沢はその偉大な貢献にもかかわらず、自分の名を企業名に冠することはありませんでした。私利私欲に走らず、日本の資本主義を推進した渋沢栄一は、お札の顔としてふさわしい人物です。
1963年発行の1,000円札の最終候補に渋沢栄一が挙がったものの、伊藤博文が選ばれた背景には、偽造防止のために髭のある男性の肖像が好まれたことがあります。当時、緻密に描かれた髭は偽造防止に有効とされていました。
しかし、現在では偽造防止技術が進化し、髭のない男性や女性の肖像も使用されるようになりました。こうして、渋沢栄一が新しい1万円札に選ばれたのです。
明治時代にすでにお札の顔になっていた?
2024年に1万円札の顔になる渋沢栄一ですが、実は明治時代に既に渋沢栄一の肖像が海外の紙幣に使用されているのです。これはどういう経緯からなのでしょうか。
日本は1911年に大韓帝国を保護国とし、朝鮮統監府を設立して外交権を剥奪しました。そして大韓帝国の通貨「葉銭」「白銅貨」を回収し、日本の通貨「第一銀行券」を流通させました。
渋沢栄一は、1873年に日本で最初の銀行「第一国立銀行」を三井組、小野組と共に設立しました。1896年には「第一銀行」と改称し、上海、香港、大韓帝国など海外にも進出しました。このとき、大韓帝国で発行された第一銀行券には、当時頭取であった渋沢栄一の肖像が使用されていたのです。しかも渋沢の肖像が描かれた紙幣は、1円、5円、10円の3種類がありました。さすがは日本の銀行の父です。実はすでに100年以上も前に既にお札の顔になっていたのです。
高級感のある街 銀座も作った
現在の銀座はセレブが集う高級感あふれる街として世界的に知られていますが、実はこのイメージは渋沢栄一の尽力によって築かれたものです。
1872年の大火事で銀座は焼け野原となりましたが、渋沢栄一と井上馨は迅速に復興計画を立てました。彼らは経済の発展を見据え、人や物が円滑に移動できるようにこれまでよりも広い道を整備しました。
さらに、諸外国の助けを借りて西洋風の建築を増やし、近代的で高級感のある町並みへと銀座を変貌させました。こうして、銀座は渋沢栄一の手によって華やかな高級街へと生まれ変わったのです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は渋沢栄一について見ていきました。幼少期より勉学だけでなく、商売にも精通し、実業家になってからは様々な企業の立ち上げに関わりまさに日本の経済の成長に大きく貢献していました。とはいえ利益だけを追求するのではなく、利潤も道徳も追及していくべきという考え方であり、今の時代を生きる私たちも見習うべきものが多い考え方です。
本サイトでは渋沢栄一以外にも様々な日本の面白い歴史や文化を紹介しています。もし興味ございましたら、他の記事も読んでいただけたら嬉しいです!
コメント