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平将門の祟り?平将門の首塚と神田明神

平将門という人物を知っていますか?縁切り神社で有名な安井金毘羅で祀られている崇徳天皇と学問の神様として祀られている菅原道真と並び日本三大怨霊として恐れられている3人のうちの一人なのです。そんな平将門はあの有名な東京都千代田区の神田明神で祀られています。また東京都の大手町には有名企業のオフィスビルが多数立ち並ぶ中、平将門の首が埋葬されているという首塚が存在しています。なぜオフィス街のど真ん中に首塚があるのでしょうか。今回はそんな日本三大怨霊として有名な平将門について紹介していきます!

平将門とは?

(画像引用: Wikipedia)

平将門は、平安時代中期の武将であり、940年頃に関東地方で反乱を起こしたことで知られています。彼は現在の茨城県あたりを拠点とし、なんと自らを「新皇」と称して独立勢力を築き、朝廷に歯向かう姿勢を見せたのです。この反乱は「将門の乱」として知られており、日本史上顕著な武装反乱の一つです。

平将門の祖父が上総国の国司として赴任し、任期後も権力を握り続けたことが、平氏一族の勢力基盤を固める一因となりました。将門の父が亡くなると、相続を巡る争いが勃発し、権力を握ろうと考えていた将門は叔父を殺害するという極端な行動に出ます。さらに、平貞盛の引き渡しを拒否した常陸国府を攻撃し、この勢いで関東の複数の国府に対しても攻撃を開始しました。

将門の軍事力は、当時としては革新的で、騎馬隊を駆使した機動力や乗馬しながらでも使いやすい反りを持った日本刀を初めて先頭に持ち込んだりしていたことが特徴でした。これにより、将門は関東八ヶ国の国府を次々と攻め落とし、各地の国司を追放しました。最終的には、自ら「新皇」と称し、朝廷に対しても明確に反旗を翻しました。

朝廷はこの反乱を重大な脅威と捉え、諸社諸寺に将門退治のための祈祷を命じ、藤原忠文を征東大将軍に任命して反乱の鎮圧を図りました。しかし、朝廷の討伐軍が到着する前に、地元の武士団の一員である藤原秀郷らによって将門は討たれました。

平将門の首塚

(画像引用: 武将人物情報・史跡情報「歴史観」)

平将門の首塚は、平安時代の武将である平将門の伝説に由来する歴史的な場所です。将門の乱と呼ばれる反乱を起こした平将門は、戦いに敗れた後、身体は現在の茨城県坂東市にある延命院に埋葬されました。しかし、彼の首は別途、平安京に運ばれ、都大路の河原にさらされるという屈辱的な運命を辿りました。ちなみに平将門が日本の歴史上初めてのさらし首でした。

首は腐ることなく、目を見開いたまま、「胴体と首をつないで再び戦おう」と夜ごとに叫ぶという恐ろしい伝説が生まれました。そして、その首は3日目の夜に、切断された自身の胴体を求めて空に舞い上がり、故郷の東国へと飛んでいったと言われています。この首が落ちたとされる場所が、東京都千代田区大手町にある「将門の首塚」です。首が現在の首塚の場所に置いた途端になんと大地が振動し始め太陽光が消え失せるという異常現象が起き、人々は恐怖に畏れ慄いたと言います。そこで慌てて首塚を建て、さらに近くにあった神田明神にその首塚、つまり平将門を祀ったところようやく祟りは収まったそうです。こうして人々は平将門の祟りを恐れ、首塚を作って丁寧に供養したのです。

平将門の祟り

平将門の祟りは近代になって突如発生しました。平将門の首塚は、東京都千代田区にあり、その怨念が原因で起こるとされる不可思議な現象が多数報告されています。最も有名な事件は、関東大震災後に首塚を破壊し仮庁舎を建設した際、大蔵大臣を含む関係者14名が亡くなり、多数の怪我人や病人が出たことです。その結果、仮庁舎は取り壊されました。

また戦後、アメリカGHQによる首塚の取り壊し作業中に重機が横転し、運転手が死亡する事故が発生し、工事が中止されました。また、昭和の高度成長期には、首塚の土地の一部が売却され、そこに建設された日本長期信用銀行の行員が相次いで病気になり、お祓いを行う事態に至りました。

現在も、首塚に隣接するビルでは、首塚に対する敬意を示すために特別な配慮がなされています。例えば、ビルのフロアレイアウトは首塚に尻を向けないようにされ、首塚を見下ろす窓は設けられていません。これらの措置は、首塚の怨念を恐れ、その力を避けるためとされています。

首塚の脇には蛙の置物があり、これは将門が蛙を操る力を持っていたという伝説に基づいています。願いが叶った人々が感謝の意を込めて置物を奉納する習慣があり、その中でも特に大きな蛙は、誘拐された後に解放された三井物産のマニラ支店長が奉納したものです。隣接する三井物産は、首塚の街灯の電気代を長年にわたって負担しているとも言われています。

こうした祟りが背景にあり、日本の大企業の高層ビルが立ち並ぶ大手町で首塚はひときわ異様な存在感を示してます。

平将門と神田明神

(画像引用: 東京十社めぐり)

先ほど平将門の首が落ちたときに地面が揺れ太陽光が消える異常現象が起きた際に人々が首塚を立ててさらに近くの神田明神で祀ったと紹介しました。つまり昔の神田明神は今の大手町のあたりにあったのです。現在の神田明神は江戸時代に今の場所に移転したのです。

徳川家康が江戸に入府し、江戸城の整備に取り掛かった際、神田明神が城の近くにあることが問題となりました。その結果、神田明神は一度神田台へと移され、さらに1616年には現在の神田明神の位置へと再移転されました。この新しい位置は、江戸城から見て鬼門(北東の方向)にあたり、古来から「鬼の去来する方角」として避けられてきました。徳川家康は、この方角から来る災いに対抗するため、祟り神とされる平将門を守り神として祀るという発想で神社を設置しました。これは、祟り神を守り神へと位置づけるという逆転の発想に基づいています。ただし、首塚自体は祟りを恐れその場所から移すことができず、場所を移すことはしなかったのです。

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回は平将門と首塚、その祟りと神田明神の関係について紹介してきました。日本で一番最初の首さらしだった平将門の祟りは恐ろしく、それが理由で今でもオフィス街の大手町に首塚が存在しているんです。

本サイトでは平将門以外にも様々な日本の歴史や文化を紹介しています。興味ある方はぜひ他の記事も読んでみてください!

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