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お化け 幽霊

菅原道真は学問の神様ではなく怨霊?

皆さん、菅原道真という人物をご存じでしょうか。多くの方は学問の神様として大宰府に祀られているということは多くの方が知っていると思いますが、同時に日本三大怨霊としても人々から恐れられていることをご存じでしょうか。一体なぜ学問の神様である菅原道真が怨霊として恐れられているのでしょうか。今回はそんな菅原道真について紹介していきます。

菅原道真とはどんな人物

菅原道真は非凡な学問の才能を持ち、幼少期から「神童」と呼ばれるほどでした。5歳で和歌を詠むなど、特に詩の才能に秀でており、特に梅に関する詩を多く残しています。政治家としても活躍し、18歳で「文章生」に合格した後、「文章得業生」に選ばれ、33歳で家系を通じて受け継がれた文才を生かして「文章博士」に任命されました。遣唐使制度に関わり、894年には遣唐大使に任命されましたが、唐の衰退と航海の危険を理由に遣唐使の停止を提案し、これが実現しました。宇多天皇および醍醐天皇のもとで実績を認められ、政治の中心で活躍し、最終的には右大臣まで昇進しました。このように、菅原道真は学問と政治の両面で類まれなる才能を発揮し、日本の政治をさらに革新的に進めていくことに大きな功績を残したのです。

菅原道真が大宰府へ左遷されてしまう

菅原道真の運命は、彼の優れた才能と政治的昇進が引き起こした嫉妬により、悲劇的な転換を遂げました。醍醐天皇の側近として右大臣にまで昇進した道真は、多くの人々から尊敬を集めていましたが、その成功は同時に多くの嫉妬を呼び起こしていました。特に左大臣であった藤原時平は、道真の影響力を危険視し、彼に対する陰謀を企てます。

藤原時平は、醍醐天皇に対して、菅原道真が天皇に代わって斉世親王を即位させようとしているという根拠のない中傷を行いました。この虚偽の告発は、醍醐天皇によって真に受けられ、結果として、道真は無実の罪を着せられることになります。天皇の信頼を失った道真は、京都から遥かに離れた九州の大宰府へと左遷されることとなりました。

大宰府での生活は極めて厳しく、菅原道真は衣食にも事欠く劣悪な環境の中で生活を送ることを余儀なくされました。身の潔白を証明する機会もなく、道真は左遷からわずか2年後にこの世を去ります。彼の死は、優れた学問と政治への貢献にもかかわらず、政治的陰謀と嫉妬の犠牲となった悲劇的な結末を象徴しています。

菅原道真の死後に祟りが相次ぐ

菅原道真の祟りは、彼が不当に左遷された後に起こった一連の不吉な出来事と関連付けられています。道真の左遷から数年後、彼の弟子でありながら失脚に加担した藤原菅根が雷に打たれて死亡するという出来事が起こりました。これを皮切りに、道真を政治的ライバルと見なし、彼を不幸に追い込んだ藤原時平も39歳という若さで急死します。

その後、日本は自然災害や伝染病などの異変に見舞われるようになり、これらの出来事が毎年のように続くことで、人々の間では道真が怨霊となり、祟りを行っているのではないかという噂が広まります。この連続する不幸な出来事は、醍醐天皇の皇太子であった保明親王が21歳で亡くなるという悲劇にまで及びました。保明親王は藤原時平の妹の子であり、幼い頃に皇太子に指名されながらも、即位することなく亡くなります。

これらの出来事に深く懊悩した醍醐天皇は、道真の祟りを鎮めるための措置を講じることになります。天皇は道真を左遷した勅書を破棄し、彼の地位を右大臣に戻し、正二位を追贈するという異例の措置を取りました。しかしながら、この措置が取られた後も、悲劇は続きます。新たに皇太子となった保明の子である慶頼王もわずか5歳で夭折し、これにより醍醐天皇の落胆はさらに深まりました。

最終的には930年、御所の清涼殿に雷が落ち、醍醐天皇の側近であった藤原清貫と平希世が亡くなるという事件が発生します。この衝撃的な出来事により、醍醐天皇は体調を崩し、寛明親王に皇位を譲り、その年のうちに崩御しました。

祟りを鎮めるために菅原道真が神として祀られることに

このように道真の死後、彼に関わった人々の間で相次ぐ怪死や天災、疫病などの不幸な出来事が発生しました。これらの事件は次第に菅原道真の怨霊が原因ではないかという噂に繋がり、朝廷や民衆の間で彼の祟りを恐れる空気が広がります。このような状況の中で、道真の怨霊を鎮め、祟りを解くための措置が講じられることになりました。

その結果、京都に北野天満宮が創建され、菅原道真は天満天神として祀られるようになります。北野天満宮は、道真を祀る天神信仰の中心となり、彼の学問への貢献と神への尊敬を象徴する場所として重要な役割を果たすようになりました。

さらに、道真を天満天神として祀る神社は、北野天満宮の創建に続き、全国各地に建立されていきます。これらの神社は、学問の神様として、または怨霊を鎮める神としての道真を祀り、多くの人々が学業成就や災害除けのために参拝する場となりました。

なぜ菅原道真は学問の神様になれたのか

菅原道真が学問の神様として崇められるようになったのは、彼の死後に起こった一連の出来事に起因します。942年(天慶5年)、京都の右京七条二坊十三町に住む多治比文子に道真の霊が乗り移り、自分を祀るよう強く要求しました。この時期、平安京では平将門の乱や藤原純友の乱などが発生し、貴族たちは不安に駆られていました。この社会的背景の中、朝廷は道真を祀るために平安京内の右近馬場に北野天満宮を創建し、菅原一族が管理することを決定しました。朝廷の保護を受け、北野天満宮は勅祭の社として繁栄しました。

道真は生前、学問に優れた人物として知られており、その死後、雷神という怨霊から学問と詩文の神として意識されるように変化しました。鎌倉時代や室町時代には、北野天満宮で歌合わせや連歌の会などの文化的行事が開催されるようになり、人々は学問や芸能の進展を願ってこの社に詣でました。このようにして道真は、学問の神として広く崇められるようになったのです。

日本全国には道真を祀る神社が約1万2000社存在し、その中でも北野天満宮をはじめ、太宰府天満宮や大阪天満宮などが特に有名です。これらの神社は、学問や芸能の発展を願う人々にとって重要な拠点となっています。

まとめ

いかがでしたでしょうか。学問の神様である菅原道真がなぜ怨霊として恐れられているのか紹介していきました。優秀過ぎると周りから妬まれてしまうのです。そんな妬みから起きた大宰府への左遷が彼の未練や後悔を生み、その後の祟りへとつながっていったのです。

本サイトは菅原道真以外にも様々な日本の歴史や文化を紹介しています。興味ある方はぜひ他の記事も読んでいただけると嬉しいです!

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