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聖徳太子の伝説エピソードを簡単に紹介!謎に包まれた死因の解説

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1万円札にも載っている聖徳太子は実に様々なエピソードを持っています。遣隋使や冠位十二階の制定など様々な政治的偉業を成し遂げただけではなく、一人で10人もの話を理解したり、実はイエスキリストと同じように馬小屋で生まれたり、また正確な死因は不明となっているなど様々な伝説やエピソードが満載です。今回はそんな聖徳太子の様々な伝説やエピソードや死因を紹介していきます!

聖徳太子とはどんな人物

それではまず最初に聖徳太子がどんな人物か紹介していきます。聖徳太子は574年に用明天皇の皇子として生まれました。彼の本名は厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれ、聖徳太子という名前は死後に与えられた名前なのです。彼の家系は蘇我氏と非常に密接で、彼の曽祖父は蘇我稲目であり、大叔父には蘇我馬子がいます。

聖徳太子は若い頃からその輝かしい才能で目立っていたため政治に関わることになりました。587年の丁未の乱では蘇我氏の側で参戦しました。実際の戦闘での活躍は少なかったものの、四天王像を彫ることで蘇我氏の勝利を祈願したとされています。593年に推古天皇が即位すると、聖徳太子は摂政に任命され、蘇我馬子と協力して天皇中心の中央集権国家の構築を目指しました。彼の政治は急進的であり、その統治下で日本の政治体制に大きな変化をもたらしていきました。その後622年に48歳で生涯を終えることになりました。

このように若い時から才能を活かして政治の舞台で輝き、摂政になるとより本格的な改革を実施し日本を推進してきた人物なのです。

聖徳太子が成し遂げた政治的功績

それでは続いて聖徳太子が政治面で成し遂げた功績も見ていきましょう。聖徳太子の才能が日本の政治で輝いた出来事を見ていきます。

冠位十二階の制定

(画像引用: ホトカミ)

聖徳太子は冠位十二階という革新的な人材政策を日本へ導入しました。この制度は、官僚の位を「徳」「仁」「礼」「信」「義」「智」という六つの道徳的価値観に基づいて分類し、それぞれを「大」または「小」の二つの等級に分けて、合計十二階に制定しました。冠位の区別は色と濃淡によって行われたとされていますが、その詳細は現在も不明です。

冠位十二階制度の最大の特徴は、序列を血統や身分ではなく、個々の能力や徳に基づいて決定した点にあります。これにより、能力と道徳性を重視することで、より賢明な人材を朝廷に登用することが可能となりました。

また、この制度は古代の朝鮮半島に存在した国々、特に百済や高句麗の官位制度から影響を受けているとされています。これにより、聖徳太子は東アジアの先進的な政治体制を取り入れ、日本の国家運営をさらに洗練させることを目指しました。

冠位十二階の導入は、日本古代政治の中で重要なマイルストーンであり、その後の朝廷の人材政策に大きな影響を与えたと考えられています。聖徳太子のこの斬新なアプローチは、日本の統治機構を強化し、より効果的な政治運営を実現する基盤を築きました。

十七条の憲法の制定

十七条の憲法は、聖徳太子が導入した古代日本の道徳的なガイドラインであり、現代の「日本国憲法」とは異なり、官僚の心構えや行動規範を定めたものです。この憲法は、一般の人々に直接適用されるものではなく、主に朝廷内の公務員や貴族を対象としていました。

十七条の憲法は、特に儒教と仏教の教えを反映しており、日本の社会と政治における倫理的な行動基準を確立しました。第一条である「和を以て貴しと為す」は、協調性を持つことの重要性を強調しており、これは共同体内の調和を最も尊ぶ価値とされています。第二条では「篤く三宝を敬へ」とあり、これは仏教の三宝(仏・法・僧)を深く敬うことを命じています。これにより、官僚たちに対して精神性の高さと倫理的な生活を促しているのです。

さらに、第三条では天皇の命令に対する忠実な従順を求める「詔を承けては必ず謹め」と定められています。これは、天皇を中心とした統治構造の強化と、天皇の指導に対する絶対的な服従を確立することを意図していました。

遣隋使の派遣

聖徳太子は当時の中国である隋に対し、対等な外交を結び優れた政策や文化を導入するために隋に使節団を派遣する遣隋使の実施を始めました。遣隋使の最初の派遣は607年に行われ、使節団には小野妹子が選ばれました。

煬帝に送られた国書には、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という一節が含まれており、これは「太陽が昇る国の王より、太陽が沈む国の王へ」と現代語に訳されます。この文言は、日本を独立し主権を持つ国として位置づけ、隋に対しても対等な立場で接することを意図していました。しかしながら、隋からしたら今まで下に見ていた日本からこのような表現を受け煬帝の怒りを買うことになったエピソードは有名です。

隋から日本へ帰るとき、遣隋使だった小野妹子は煬帝からの返事の文書を泥棒に盗まれたと言っています。しかしこれはおそらく小野妹子の嘘であるとも言われています。煬帝の怒りが書き込まれた文書を持って帰ると聖徳太子に恥をかかせてしまうと判断した小野妹子は、煬帝からの返事の文書をどこかへやってしまったのです。

「国記」「天皇記」の編纂

(画像引用: 東洋経済オンライン)

聖徳太子は、日本の政治や文化に多大な影響を与えた人物として知られていますが、彼の業績の中でも特に重要なのが、日本の歴史と天皇の系譜をまとめた「国記」と「天皇記」の編纂です。これらの文書は620年に完成し、日本の歴史編纂の先駆けとなりました。

当時の外交において、国の正当性と天皇の権威を証明することが極めて重要であったため、聖徳太子と蘇我馬子はこれらの文書を通じて、日本の独自性と正統性を内外に示すことを目的としていました。この取り組みは、外交的な認知を得ると同時に、国内での政治的な統一感を強化する狙いも持っていました。

仏教の普及に尽力

(画像引用: OSAKAINFO)

聖徳太子は、古代日本において仏教の普及に尽力したことで広く知られています。彼の取り組みは、当時の日本社会における宗教的および文化的な変革を促すものでした。聖徳太子の仏教推進策は、主に以下の三つの重要な方面で展開されました。

まず、聖徳太子は仏教の教えを広めるために、大規模な寺院の建設を推進しました。これらの寺院は、仏教の教えを学び、修行する場所としてのみならず、地域社会における精神的な中心地として機能しました。例えば、飛鳥寺や四天王寺などがその代表例です。これらの寺院は、後の時代にも多大な影響を与えることとなり、日本の寺院建築や仏教美術の発展に寄与しました。

次に、聖徳太子は仏教の教えをより深く理解しやすくするために、学問所を設立しました。これらの学問所では、経典の研究や討論が行われ、仏教知識の普及と深化が図られたのです。これにより、僧侶だけでなく、一般の人々にも仏教の教えが広がる基盤が作られました。

さらに、聖徳太子は「三経義疏」を編集しました。これは仏教経典の注釈書であり、仏教の基本的な教義をより分かりやすく解説したものです。この文献によって、当時の日本人が仏教の深い教えに触れることができるようになり、その理解が一層促進されました。

聖徳太子の伝説エピソード

それでは聖徳太子の伝説エピソードへ移っていきましょう。先ほど紹介した政治的功績も有名ですが、こちらもかなり有名なエピソードがあるので、じっくり見ていきましょう!

いっぺんに10人の話を理解することができた

数あるエピソードの中でも最も有名なのが、いっぺんに10人の話を理解することができたという聖徳太子の驚異的な聴解能力に関するものです。あるとき、聖徳太子は人々の願いや意見を聞く場を設けました。その際、10人の人々が同時に話し始めたとされていますが、聖徳太子はそれぞれの話を正確に聞き分け、適切な答えを与えたと伝えられています。

この能力は、「上宮聖徳法王帝説」などの聖徳太子の伝記にも記されており、彼が8人の話を一度に聞き分けたという記録も存在します。このような逸話が示すのは、聖徳太子が持っていたとされる卓越した知性と、多方面からの情報を同時に処理する類稀なる能力です。

馬小屋で生まれた

聖徳太子は馬小屋で生まれたことご存じでしょうか?聖徳太子の母、穴穂部皇女は、夢の中で金色の僧侶を見ました。この僧は救世観音菩薩の化身とされ、彼女の口に飛び込むことで妊娠したとされています。この超自然的な出来事の後、聖徳太子は馬小屋で生まれました。もともと本名が厩戸皇子(うまやどのおうじ)とあるように「うま」小屋で生まれたのです

ここで聖徳太子の生まれ方と生まれた場所がイエスキリストと酷似しているのではないかと興味を持つ方もいるかもしれません。イエス・キリストの誕生もまた、超自然的な出来事によって告げられました。処女マリアに天使ガブリエルが現れ、神の子を懐妊することを告げます。この告知の後、イエスは旅先のベツレヘムで、やはり馬小屋で生まれました。

日本とキリスト教を代表する二人が同じような生まれ方で同じような場所で生まれたのは好奇心をくすぐりますね。このような面白いアナロジーに遭遇することも歴史を紐解いていく魅力の一つです。

初めて富士山に登頂した

聖徳太子は日本で初めて富士山を登頂した人物としても知られています。しかも一般的な山登りとは異なり、超自然的な要素が色濃く表れています。

一説によると、聖徳太子は馬に乗り、奈良の都から空を飛び立ち、富士山へと降り立ったとされます。この物語は「甲斐の黒駒伝説」として知られ、聖徳太子が空を飛ぶ様子を描いた絵が全国の様々な場所に残されています。この伝説によれば、聖徳太子が富士山に降り立ったのは8合目とされており、その地点は「駒ヶ岳」と呼ばれています。

富士山の8合目には、聖徳太子が休憩したとされる「太子館」という山小屋があると伝えられています。この場所は、聖徳太子が富士山登頂の際に利用したとされる地点であり、聖徳太子にちなんだ名称がつけられていることからも、その伝説の影響力が窺えます。

黒船来航の予言を的中させている

(画像引用: Nippon.com)

聖徳太子は予言が死後に的中にしていることでも有名です。聖徳太子は京都に都が移されることや承久の乱や朝廷の敗北、武家政権の到来することも予言してすべて的中しています。さらに「一千年たてば黒龍が来るため都は東へ移される」と残し、そこから約700年後の出来事である黒船到来と京都から東京へ都が遷ることも予言し的中させています。

ここで終わりかと思いきや「黒船来航から200年後の2052年頃には、精神支配をする黒い悪魔がやってきて都を7つに分断する」との残しています。2052年はまだやってきていません。この黒い悪魔とは富士山噴火による火山灰なのではないかとも噂されています。これまでの予言的中ぶりを見ると2052年にも何かが都、つまり東京で起きる可能性が高く緊張してしまいますね。

愛犬まで優秀だった

日本の古代史において聖徳太子は多くの偉業で知られていますが、彼の身近な愛犬「雪丸」にまつわる逸話もまた、非常に興味深いものです。雪丸は、その賢さと特異な能力で知られており、聖徳太子との特別な関係が語り継がれています。

雪丸はただの犬ではなく、人の言葉を理解し、聖徳太子と会話することができたとされています。この特性は、彼を単なるペット以上の存在にしていることを示しており、聖徳太子との深い絆を感じさせます。雪丸の知性と感受性は、彼がただの動物ではなく、一種の精神的な伴侶であったことを物語っています。

雪丸の物語にはさらに驚くべき展開があります。彼は生前、中国に禅宗の基礎を築いた達磨大師を深く敬愛しており、自身の死後は達磨寺に埋葬されることを望んでいたと言い伝えられています。この願いは実現し、達磨寺の1号墳が雪丸の墓とされています。また、本堂の南西には彼の像が祀られ、訪れる人々に彼の物語を伝えています。

温泉が好きだった

(画像引用: 道後温泉)

古くから日本人は温泉が大好きでしたが、聖徳太子も大好きであったようです。聖徳太子が温泉を非常に愛好していたことは、多くの記録に残されています。特に四国地方の名湯である道後温泉(現在の愛媛県松山市)を訪れ、その素晴らしさを褒め称えたという記録が存在します。

聖徳太子の死因

そんな数々の偉業を成し遂げてきた聖徳太子ですが、622年48歳の時に天然痘で亡くなったと言われています。彼の最後の日々については法隆寺の釈迦三尊像光背銘に詳細が記録されています。聖徳太子の母、穴穂部間人皇女は推古29年(621年)12月に亡くなりました。その後、聖徳太子は推古30年(622年)正月22日に病にかかり、彼の妃である菩岐々美郎女も病に倒れました。その後、妃は2月21日に亡くなり、翌日の2月22日に聖徳太子も亡くなったとされています。続けざまに親族が亡くなり、妃が亡くなった翌日に聖徳太子も亡くなるということで天然痘のような伝染病だったのではないかと推測されているのです。

しかし一方で翌日に亡くなるのは不自然だということで暗殺説も囁かれています。聖徳太子を暗殺した候補としては政敵であった蘇我馬子と蘇我馬子の娘・刀自古郎女です。蘇我馬子は政治で地震を陰へ追いやった聖徳太子への復讐心から、蘇我馬子の娘・刀自古郎女は実は聖徳太子の4人の妻のうちの一人であり、女性の嫉妬心からと言われています。ただこれらの説も推測でしかなく、聖徳太子の死因は天然痘が最も有力となっています。

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回聖徳太子の伝説エピソードや謎に包まれている死因について紹介していきました。日本の歴史を勉強すると必ず目にする聖徳太子ですが、政治的偉業だけでなく10人の話を聞いたり富士山へ登頂したりとエピソード盛りだくさんでした。創作が加わっている可能性もありますが、タイムスリップして実際にどんな人物だったのか見てみたいですね!

本サイトでは聖徳太子以外にも面白い日本の歴史や文化を紹介しています。興味ある方はぜひ他の記事も読んでいただけますと幸いです!

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