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織田信長は何した人か簡単な年表、死因や性格やエピソードを紹介!

日本人であれば必ず一度は聞いたことがある織田信長ですが、一体どんなことをしたのかのかご存じでしょうか。当時からすれば常識はずれな先進的な考えを持ち圧倒的なカリスマ性とリーダーシップで日本を統一の寸前まで迫った織田信長。常識にとらわれない破天荒な一面も持ちつつ冷徹な性格でもあったということで様々なエピソードが残っています。桶狭間の戦いや本能寺の変といった教科書に載っているような出来事から、意外と知らない性格やエピソードまで、今回は織田信長について徹底紹介していきます。

織田信長は何した人?

織田信長は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した戦国武将です。織田信長が生きていた時代は戦国時代と言って日本各地の大名が日本統一を目指し争っていた戦乱の時代でした。尾張国(現在の愛知県西部)の出身で、織田信秀の嫡男として生まれました織田信長は家督争いを収めた後、若くして武将として台頭し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り尾張の国の大名となり、急速に勢力を拡大しました。

信長は足利義昭を奉じて上洛し、後には義昭を追放することで、畿内を中心に織田政権を確立しました。これにより、彼は日本全国に影響力を持つようになり、日本統一が目の前まで迫っていました。しかし1582年に家臣の明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で命を終えました。

その後、織田信長の意思を継いだ豊臣秀吉、徳川家康により日本統一は成し遂げられるのですが、織田信長の圧倒的なカリスマ性に革新的な戦術と政治手腕から日本の歴史において重要な役割を果たした人物として知られています。

織田信長の簡単な年表

(画像引用: 中日スポーツ)

それでは織田信長が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。

出来事
1534年尾張の守護代「織田弾正忠家」に誕生
1560年桶狭間の戦いで今川義元を破る
1568年上洛
1571年比叡山焼き討ち
1573年室町幕府滅亡
1575年長篠の戦い
1577年楽市・楽座の導入
1582年本能寺の変で自害

1560年 桶狭間の戦い

(画像引用: 刀剣ワールド 浮世絵)

桶狭間の戦いは、1560年6月12日に起こり、織田信長が大名今川義元を破った歴史的な戦いです。今川義元は、駿河国、遠江国、三河国(現在の静岡県中部と愛知県東部)を支配下に置き、当時「海道一の弓取り」として知られ、天下を取る最有力候補とされていました。

今川義元が尾張国(現在の愛知県西部)に侵攻した際、信長はわずか2,000の兵で応戦しました。今川軍の兵力は2万5千と圧倒的に多かったにも関わらず、信長はこの戦いで見事に勝利を収め、義元を討ち取りました。この戦いは信長の軍略と勇気を象徴し、彼の名を天下に轟かせる結果となりました。

桶狭間の戦いの結果、今川義元が討たれたことで政治的なバランスが大きく変わりました。この戦いは徳川家康の独立を助け、武田信玄が駿河国への侵攻を開始する契機となるなど、その後の戦国時代の動向に深い影響を与えました。

1568年 上洛

織田信長の上洛は、1568年に行われた重要な軍事行動で、京都に入城し、足利義昭を室町幕府の15代将軍に就任させる目的がありました。この時期、室町幕府は永禄の変により将軍が暗殺された後の混乱が続いており、後継者を巡る争いが発生していました。

信長は美濃国(現在の岐阜県)を掌握した後、足利義昭を支持し、彼を京都まで護送しました。将軍は朝廷から正式に任命されるため、足利義昭は京都に行く必要がありましたが、他国の領地を通過する際には安全が保障されていなかったため、信長の軍事的な支援が不可欠でした。

この上洛によって信長は義昭を擁立し、室町幕府内での権力を握ることに成功しました。この行動は、織田信長が全国統一へ向けて重要な地位を確立する契機となったのです。

1571年 比叡山焼き討ち

比叡山延暦寺の焼き討ちは、1571年9月12日に織田信長が行った大規模な軍事行動です。この事件は、信長と対立していた浅井氏と朝倉氏が比叡山の延暦寺に逃れたことが発端となりました。信長は延暦寺に対し、敵対勢力の支援をやめるよう忠告しましたが、寺側がこれを無視したため、信長は寺全体を焼き払う決断をしました。

この攻撃により、延暦寺は3日間にわたって燃焼し、僧侶や逃げ遅れた庶民も容赦なく斬り捨てられました。この行為は比叡山に大きな破壊をもたらし、多くの重要な文化財も失われました。比叡山焼き討ちは、信長の残虐性を象徴する出来事として記憶され、その後の彼の政治的な立場にも影響を及ぼし、多くの大名を敵に回すことになりました。

1573年 室町幕府滅亡

織田信長による室町幕府の滅亡は、1573年に起こりました。信長と将軍足利義昭との間に意見の対立が生じた後、義昭は信長を倒すために全国の大名を集めて「信長包囲網」を形成しました。この計画には武田信玄も加わりましたが、信玄が進軍途中で急死したことで、信長の危機は回避されました。

信長はこの機会を利用し、足利義昭を京都から追放し、230年以上続いた室町幕府を終焉させました。この行動により、信長は織田政権を樹立し、日本における自らの支配を確固たるものとしました。

1575年 長篠の戦い

(画像引用: Nippon.com)

長篠の戦いは、1575年6月29日に発生し、織田信長の指揮する軍が武田信玄の騎馬隊を破った決定的な戦いでした。この戦いは、織田軍が大量の鉄砲を使用し、革新的な戦術を展開したことで特に知られています。

鉄砲の装填や発火には時間がかかるため、通常の戦闘では劣位に立つ可能性がありましたが、信長は鉄砲隊を三つに分けて交代で射撃するという戦術を採用しました。これにより、連続して火力を維持することが可能となり、敵の動きを効果的に封じることができました。

さらに、武田軍の騎馬隊の突撃力に対抗するため、馬防柵を設置し、その内側から3000挺の鉄砲で一斉射撃を行いました。この戦略は、動きが素早く強力な武田騎馬隊を完全に食い止め、大勝利を収める結果となりました。長篠の戦いでの織田軍の勝利は、戦国時代の戦術における大きな転換点となり、鉄砲の効果的な使用法を示す事例として日本全国に影響を与えました。

1577年 楽市・楽座の導入

楽市・楽座は、織田信長が1577年に実施した革新的な経済政策で、城下町の商業発展を促進する目的で導入されました。この政策は、従来の商業組合である「座」の特権を廃止し、「楽座」として誰でも自由に商売ができる環境を作り出しました。さらに、「楽市」として城下町での商売に対する課税を免除し、商人たちの利益を増やすことを可能にしました。

この政策は、商業の自由化を推進し、商人たちに大きな恩恵をもたらすと同時に、経済活動を活発化させました。また、楽市・楽座によって公家や寺院が従来得ていた商業組合からの徴収利益が削がれることで、これらの勢力を弱体化させる効果もありました。信長のこの政策は、戦国時代の経済構造を変革し、後の市場経済の発展に大きく寄与したとされています。

織田信長の死因

織田信長の死因は本能寺の変での自害です。本能寺の変は、1582年6月21日に織田信長が自らの信頼していた家臣、明智光秀によって襲撃され、最終的に自害した事件です。信長は京都の本能寺で宿泊中に、突如として転戦した光秀の軍勢に包囲されました。光秀は元々、中国地方への出兵を命じられていましたが、軍を本能寺に向け、信長を奇襲しました。この時、信長はわずか約200人の警備兵しかいなかったため、対応が間に合わず自害に追い込まれました。

本能寺の変の後、光秀は京都を制圧し、政権樹立に向けて動きましたが、この事件を知った豊臣秀吉は中国侵攻を中断し、毛利氏と急速に講和を結び、急ぎ京都に戻りました。そして、本能寺の変からわずか11日後には、山崎の戦いで秀吉に討たれました。

この事件は、豊臣秀吉の台頭を助け、戦国時代の終焉へと導く重要な転機となりました。本能寺の変は、織田信長の突然の死という形で戦国時代の一大事件として記録され、その後の日本の歴史に大きな影響を与えたのです。

織田信長の性格

このように様々な歴史的出来事を引き起こしてきた織田信長ですが、どんな性格だったのでしょうか。長篠の戦いや楽市・楽座の導入に見られるように常識に縛られることなく先進的かつ合理的な考えが徹底されていたと言われています。様々な戦いでの勝利が目立ちますが、合理的であるがゆえにそもそも勝てそうにない戦いはしないという慎重さも兼ね備えていたとも言われています。また当時日本統一へ近かった今川義元を桶狭間の戦いで返り討ちにしたり、室町幕府の権力を握り滅亡させたように行動力と活力に溢れるタイプでもありました。

また自分に自信があるためか人の助言はあまり聞かないワンマン気質で、実力主義や成功にこだわる性格であったため家来には厳しい要求をしたり、逆に自分が上手く世渡りするために上の人にあえてへつらうプライドを捨てる柔軟さも持ち合わせていました。

一方で残虐かつ冷酷でここまでするのかというような一面も垣間見れます。比叡山延暦寺の焼き討ちはその一例でその他にも長島一向一揆殲滅、越前一向一揆殲滅、天正伊賀の乱の鎮圧などで反乱を起こしてきた側の人間を容赦なく殺害し、集落や寺院はことごとく焼かれてしまいました。この残虐性は他の戦国大名と比較しても群を抜いており、織田信長の勝利への徹底した合理性が表れているのかもしれません。

織田信長の性格が反映されている名言もたくさんあります。織田信長の名言に興味ある方はこちらの記事を読んでみてください!

織田信長のエピソード

そんな織田信長ですが、実は様々なエピソードがあります。今回は織田信長のエピソードをいくつか紹介していきます。

子供の時は大バカと呼ばれていた

織田信長は、戦国時代の一大勢力として名を馳せる前、非常にユニークな少年時代を送っていました。1546年(天文15年)、わずか13歳で成人と見なされる元服を迎え、その翌年には初陣を飾るなど、早くから武将としての運命を歩み始めています。しかし、その頃の信長は奇抜なファッションや突飛な行動が目立ち、周囲からは「大うつけ」と呼ばれていました。

この呼び名は、彼が周囲の常識に捉われない自由奔放な振る舞いから来ており、家臣や同時代の人々には理解しがたい部分が多かったとされます。また、信長の父である信秀が美濃や駿河からの攻撃に苦しんでいる中でのこの行動は、家臣たちにとっては悩みの種となっていました。

そんな中、織田家に長く仕える家臣の政秀が間に入り、美濃の大名・斎藤道三との和睦を取り付けます。この和解の一環として、信長は斎藤道三の娘である帰蝶(後の濃姫)と結婚することとなり、16歳で婚姻が成立しました。この結婚は信長の政治的立場を強化するとともに、彼の評判を一新する契機となりました。

意外と正義感と慈悲がある?

織田信長は、しばしば「第六天魔王」と称されるほどの厳格なリーダーとして知られていますが、彼の人物像には正義感と慈悲の一面もありました。具体的なエピソードとして、信長が美濃と近江の国境近くの村に住む障害を持った男性、通称「山中の猿」に対して示した慈悲が挙げられます。この男性に対し、信長は木綿20反を与え、「これを金に換えて小屋を建て、毎年麦や米を施してくれ」と村人に指示しました。これは村人たちに感動を与え、涙を流させるほどの行動でした。

また、秀吉の妻、ねねに対する対応も信長の慈悲深さを示しています。ねねが秀吉の浮気に憤った際、信長はねねの味方となり、彼女を励まし支える手紙を送りました。手紙の中で、信長はねねの美しさを称賛し、秀吉の行動を非難しさらに秀吉のことをあだ名であった猿ではなく禿ねずみと罵倒しつつ、ねねに対して堂々と振る舞うよう助言を送っています。

これらの行動から、信長がただの冷酷な武将ではなく、正義感と深い慈悲心を持った人物であったことが伺えます。これは、彼の多面的な人物像をより深く理解するための重要な側面と言えるでしょう。

茶が大好き

織田信長が茶の湯に非常に熱心だったことは、多くのエピソードからも明らかです。信長が上洛した後、茶人たちが高く評価していた茶入れ「つくもかみ」を始め、堺の商人で茶人の今井宗久からは「松嶋ノ壺」などの貴重な茶道具が進呈されました。これらの茶道具を受け取ったことがきっかけで、信長は茶の湯の世界に深くのめり込んでいきます。

信長の茶に対する情熱は、彼が三度の食事よりも茶の湯を好むほどであり、その熱意は食事を超えるほどだったとされています。また、信長は名物とされる高貴な茶道具を大名たちから献上させるなど、茶の湯を通じて自らの文化的な趣味と権威を示していました。このように、信長の茶の湯への深い愛好は、彼の個性や文化に対する洗練された感覚を反映しています。

キリスト教に寛容であった織田信長

(画像引用: Nippon.com)

織田信長が生きていた時代は世界は大航海時代でスペイン人やポルトガル人が海を渡って日本へ到達し、様々な新しい文化や品をもたらしました。その中の一つがキリスト教です。当時の日本ではキリスト教は身分の低いものがキリストを信じ反乱を起こしてしまい領地を統治しにくくなるということでキリスト教弾圧の動きが主流でした。しかし織田信長はキリスト教を受け入れ、当時織田信長が権力を持っていた京都でキリスト教宣教師による布教と信仰の自由を認めました。

しかし織田信長自身、キリスト教信者であったわけではありませんでした。そして仏教徒でもありません。織田信長は合理主義者で神様を信じない性格であったため、特定の宗教を信仰するということはしなかったのです。特定の宗教を排除するというのが合理的ではないという観点からキリスト教を排除することはない、信仰の自由も禁止する合理的な理由がないと考えていたと言われています。

黒人の武将 弥助を登用

(画像引用: Newsphere)

織田信長は当時珍しかった黒人の武将 弥助を登用したことでも知られています。弥助は、1579年にイエズス会の巡察使ヴァリニャーノによってインドから日本に連れて来られたモザンビーク出身の黒人使用人(奴隷)でした。織田信長は日本で初めて黒人を目にしたことから、弥助に非常な興味を持ちました。最初はその黒い肌が墨で塗られたものかと疑い、体を洗わせたところ、その肌がいっそう黒光りしたことで信長は驚きました。

信長の好奇心から、弥助はヴァリニャーノから譲渡され、武士として信長の側に置かれました。織田信長は弥助が奴隷であったからと言って差別は一切せず、信長は弥助に邸宅と腰刀を与え、将来的には城持ちの地位に引き立てる計画もあったとされます。1582年、本能寺の変が起こると、弥助は信長と共に本能寺に宿泊しており、事件発生時には信長の嫡男・信忠に謀反の報を届けるために二条新御所に急行しました。彼は明智軍と交戦しましたが、捕らえられてしまいます。

明智光秀は弥助に対して、彼が動物のようなもので何も知らないとして処分を見送りました。その結果、弥助は命を助けられ、南蛮寺に送られました。

バナナと金平糖を初めて食べた日本人

織田信長が日本人で初めてバナナと金平糖を食べたとされる逸話は、戦国時代の日本と外国文化の交流を示す興味深いエピソードです。この話によると、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが信長にこれらの食品を献上したとされています。

バナナについては、正式な記録は残っていませんが、フロイスが献上した食品の中に含まれていたという伝承があります。また、金平糖に関しては、フロイスが透明なフラスコに入れた美しい砂糖菓子を信長に贈り、信長がこれを非常に喜んだと伝えられています。

さらに、宣教師たちはカステラや有平糖(ありへいとう)、ボーロといった他の南蛮菓子も日本に持ち込みました。これらの甘い菓子は、布教活動の一環として戦略的に利用されたようです。

このように、信長は外国文化に対して開かれた姿勢を持ち、日本初のバナナや金平糖を味わうという特別な経験をしたことが伝えられています。これは当時の日本における新しい食文化の導入と、信長の異文化受容の一端を示しています。

地球が丸いことを理解したはじめての日本人

合理的な織田信長が地球が球体であるという事実を理解し、受け入れたことも有名です。イエズス会の宣教師によって献上された地球儀を見た信長は、地球が球体であるという説明を受け、「理に適っている」と即座に理解したとされています。

この事実は、当時の日本人の多くが地面は方形だと考えていたという背景の中で特に注目されます。実際、江戸時代に入っても、朱子学者の林羅山などが地球球体説を否定していたことを考えると、信長のこの理解力は非常に進歩的であったと言えるでしょう。

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回織田信長の年表や出来事、性格、エピソードについて紹介してきました。非常に合理的で行動力もあり圧倒的カリスマリーダーであった織田信長が戦国時代を駆け抜けた歴史には惹かれる方も多いのではないでしょうか。また織田信長の性格やエピソードも非常に面白いものばかりでした。こうした裏側も知れると歴史を勉強するときもまた違った側面から楽しめると思います。

本サイトでは織田信長以外にも日本の様々な面白い歴史や文化を紹介しています。もし興味ございましたら他の記事も読んでいただけると嬉しいです!

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