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豊臣秀吉は何した人か簡単な年表、死因や性格やエピソードを紹介!

皆さん、豊臣秀吉のこと、どれくらいご存じでしょうか。貧しい身分出身ながら、「真冬の日にお尻で織田信長が履く草履を温めて待機していた」というエピソードに代表されるように生粋の人たらしさを武器に織田信長に気に入られてどんどん出世していきついには日本で初めて天下統一を果たした武将にまで駆け上がっていったのが豊臣秀吉です。

先ほどのような見事な人心掌握を物語るエピソードも数多くあります。しかし実は残虐な一面をあるという説もあります。また豊臣秀吉が一体どんなことをした人物なのかご存じでしょうか。そこで今回は意外と知らない豊臣秀吉について紹介していきます。

豊臣秀吉は何した人?

豊臣秀吉は、貧しい身分に生まれながらも日本の戦国時代で最終的に天下統一を成し遂げた武将です。彼は尾張の中村で生まれ、幼名を日吉丸といいました。若くして武士を志し、15歳で織田信長に仕え始めました。当初は木下藤吉郎と名乗っていましたが、その後の戦功により信長から重要な家来として重用され、羽柴姓を賜り近江の長浜城主となりました。

本能寺の変の際には、毛利氏攻めの先鋒として活躍中でしたが、信長の死を知り、急遽兵を返して明智光秀を山崎の合戦で破りました。その後、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで下し、大阪城の築城を行うなど、次第に権力を拡大していきました。1585年に関白に任じられ、翌年には太政大臣となり、豊臣の姓を賜りました。

彼の治世には四国討伐、九州征伐、小田原征伐といった軍事行動により天下統一を果たし、さらに奥州平定も成し遂げました。政治的には太閣検地や刀狩、京枡の制定を行い、土地と人民の管理を強化し、近世幕藩体制の基盤を築きました。

1591年には関白の地位を養子の秀次に譲り、その後は朝鮮および明国への侵攻を試みるも、これは成功には至りませんでした。豊臣秀吉は、その政治的業績とともに、豪華で華美な桃山文化を花開かせたことでも知られています。大阪城や聚楽第の建築はその代表例と言えるでしょう。彼の死後、様々な政策や文化的遺産は日本史に大きな影響を与え続けています。

豊臣秀吉の簡単な年表

(画像引用: President Online)

それでは豊臣秀吉が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。

1582年 山崎の戦い

(画像引用: Rakuten Travel)

1582年7月2日、山崎の戦いは日本史における重要な転換点となりました。この戦いで豊臣秀吉は、かつての盟友であり、織田信長の暗殺者である明智光秀を討ち取りました。信長は天下統一に近づきつつあったが、わずか11日前の本能寺の変で明智光秀の裏切りにより自害に追い込まれていました。

当時、秀吉は岡山県の備中国で毛利氏と戦っており、信長の訃報を受け取ると、毛利氏との戦いを中断して急速に京都へと向かいました。この素早い行動は「中国大返し」として後世に語り継がれています。京都に急ぎ戻った秀吉は、光秀との決戦に臨み、見事に勝利を収めました。

1582年 太閤検地

太閤検地は豊臣秀吉によって実施された日本の土地測量および評価の全国的なプロジェクトです。この検地は、田畑の面積と収穫量を正確に把握し、土地の生産性を石高制(米の量で土地の価値を測るシステム)で表すために行われました。

検地では、全国的に統一された枡(マス)のサイズを使用し、これまでの不統一な測量方法を改め、生産量の精確な計測を可能にしました。これにより、土地のランク付けが行われ、全国の生産量が可視化されました。その結果、年貢の公平な徴収が実現しました。

また、太閤検地により、一地一作人の制度が確立され、どの農民がどの土地に対して年貢を納めるかが明確にされました。このシステムは、奈良時代から続く荘園制度の消滅にも寄与しました。

1585年 関白就任

1585年7月、豊臣秀吉は日本の政界で非常に重要な地位である関白に就任しました。関白は天皇を補佐し、政務を執行する役職であり、この就任によって秀吉は日本で二番目に高い身分に昇り詰めました。関白としての地位は、通常、摂関家の血を引く者にのみ許されるものでしたが、秀吉は近衛前久の養子となることで、この伝統的な制約を乗り越え、職に就く資格を得ました。

関白になることで、秀吉は朝廷の権威を背景に、全国の戦国大名たちを支配下に置くことが可能となりました。彼に逆らう者は、朝廷の敵と見なされ、これが討伐する正当な理由とされました。また、秀吉は関白就任翌年に正親町天皇から「豊臣」の姓を授かり、これまでの「羽柴」の名を改めました。

1587年 バテレン追放

(画像引用: ニッポン城めぐり)

1587年7月24日、豊臣秀吉はキリスト教の布教を禁止する重要な法令であるバテレン追放令を発令しました。この法令は、日本におけるキリスト教の活動を制限し、多くの南蛮(ポルトガルやスペインなどヨーロッパ出身の)宣教師を国外に追放することを命じたものです。

当時、キリスト教は日本で急速に広がりを見せており、秀吉は当初この新しい宗教を容認していました。しかし、キリスト教徒が仏教の寺院を破壊する事件が発生したり、日本人が奴隷としてヨーロッパに売られる事例があったため、これらの行動が日本の秩序や社会に悪影響を及ぼすと判断しました。これがキリスト教布教の禁止に至った主な理由です。

ただし、秀吉はキリスト教そのものよりも、宣教師たちが持つ政治的影響力や文化的影響に警戒感を抱いていました。そのため、宣教活動は禁止されましたが、南蛮貿易自体はその利益と南蛮人から得られる技術や知識が重視されたため、引き続き奨励されました。

1588年 刀狩令

1588年8月29日、日本の戦国時代が終わりに近づく中、豊臣秀吉は農民の武装解除を目的とした画期的な政策「刀狩令」を発布しました。この令により、農民層からの全ての武器が没収されることとなりました。

戦国時代は、地方の戦いが頻繁に発生し、農民も戦闘に借り出されることがありました。そのため、多くの農家には自衛用の武器が備えられていました。しかし、秀吉は農民が反乱を起こす潜在的な脅威を排除し、社会の安定を図るためにこれらの武器を取り上げることを決定しました。また、刀狩令は、農民が農業に専念し、安定した年貢の徴収を確保するためにも施行されました。

刀狩令は、農民に大仏建立のためと説明され、その神聖な目的に賛同した農民たちは武器を喜んで差し出したとされています。これにより兵農分離が進み、日本の社会構造が大きく変化しました。同時期には海賊停止令も発令され、海の民が武装することも禁じられました。これによって海上の安全が確保され、商船の安全な航行が可能となりました。

1590年 天下統一

豊臣秀吉は、1590年の小田原征伐を通じて日本の天下統一を成し遂げました。この戦いは、西日本の多くの大名をすでに従えていた秀吉にとって、最後の大きな障壁である北条氏を屈服させるためのものでした。北条氏は関東地方最大の勢力であり、その拠点である小田原城は総構えで9kmに及ぶ巨大な要塞でした。

秀吉は、武力による直接的な攻撃ではなく、圧倒的な兵力で城を包囲し、食糧と水の供給を絶って降伏を迫りました。この戦術は成功し、8月には北条氏はついに屈服しました。小田原城の攻略には、東北の大名も加わっており、その中には伊達政宗のような有名な武将も含まれていました。

小田原征伐の成功に続き、秀吉は東北地方の統制を図る「奥州仕置き」を行い、これによって日本全土の統一が完了しました。北条氏の敗退後、秀吉はその領地だった江戸に徳川家康を移し、これが後の江戸時代の開始と東京の首都としての発展の礎となりました。

1591年 身分統一令

1591年に豊臣秀吉が定めた『身分統制令』は、日本の社会構造を安定させ、生産性を高めることを目的とした重要な法令でした。この令により、農民が他の職業、特に武士や商人への転身を図ることが厳しく禁じられました。この措置は、農民が自らの土地を離れることなく、農業に専念することを保証し、結果的に生産性の安定化を図ることに成功しました。

この法令の導入により、日本における兵農分離が進み、太閤検地における「一地一作人」の制度がより効果的に機能するようになりました。これは、土地と農民が一対一で結びつけられ、農民一人ひとりがその土地の生産に責任を持つことを意味します。

また、身分統制令は、身分間の移動を制限することで、秀吉自身のような例外的な出世が困難になるよう制度を設けました。この法令によって、それぞれの身分が固定され、社会の秩序が維持されることを目指しました。

1592年・1597年 朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)

(画像引用: 歴史伝)

豊臣秀吉の朝鮮出兵は、日本の戦国時代の終わりに行われた重大な軍事的試みであり、1592年の文禄の役と1597年の慶長の役の二度にわたって実施されました。これらの出兵は、朝鮮を経由して当時の中国である明国を征服するという秀吉の大望を達成するためのものでした。

出兵の背景には、日本の天下統一を成し遂げた秀吉がさらなる拡張を望み、朝鮮に対して日本への服属と明国への先導を要求したことがあります。朝鮮がこの要求を拒否したことから、秀吉は武力による圧力を加える決定をしました。1592年の初めに大軍を朝鮮半島に送り込み、初期の軍事行動は速やかに朝鮮の多くの地域を制圧しましたが、その後の抵抗や明国の介入により戦況は長期化しました。

1593年には一時的な停戦が成立しましたが、秀吉は朝鮮半島における日本の支配を確固たるものにするため、1597年に再び出兵しました。この二度目の出兵も困難を極め、多くの日本兵が飢餓や寒さに苦しみました。最終的に、1598年に豊臣秀吉が病死すると、日本は朝鮮からの撤兵しました。

豊臣秀吉の死因

秀吉は1598年の春より病身となり、病状は日に日に重くなっていき、1598年8月18日に病死してしまいました。実は死因については今なお謎が多く詳しいことはわかっていません。しかしある程度推測はできており、秀吉の死は「消耗病」なのではないかと考えられています。彼は貧しい身分から天下統一の頂点に登りつめるまで、数々の困難を乗り越え、心身ともに極度のストレスにさらされた生涯でした。その過程で、特に織田信長のために命がけで戦い続けたことが知られています。

秀吉自身、病気とは無縁のたくましい体質であったとされ、豊かな食生活や過信もあって、健康への注意がおろそかになっていたのかもしれません。しかし、無理を続けた結果、徐々にその体が疾病に蝕まれていったと推測されています。

死因に関しては、主に腎虚説と労咳説の二つが候補として挙げられます。腎虚説は、女性好きが高じて腎機能が衰え、それが死に至ったというものです。一方の労咳説は、長期にわたる慢性の肺病が原因であるとしていますが、当時は気管支炎と肺結核を区別することが難しく、確たる診断は出ていません。

どの説にせよ、秀吉の死は「消耗病」によるものとされており、病に倒れる前の彼の激動の人生が、その死を決定づけたと考えられています。天下人としての生涯は、まさに光と影の如く、栄光とともに極度の疲労と健康問題を抱えることとなったのです。

豊臣秀吉の性格

豊臣秀吉の性格は一言でいうと「人たらし」と言われています。基本的に明朗快活で、楽観的な性格の持ち主だった秀吉は、「サル」という愛称で主君や周囲から親しまれ、オープンで周囲を明るくする個性がありました。また人心掌握も上手で今の世界でいう「明るいコミュ力がある人物」というのが豊臣秀吉の性格を表しています。

一方で豊臣秀吉は戦場ではその人たらしな一面が嘘のように見えるくらいの残虐性を見せています。例えば豊臣秀吉が織田信長の命を受けて中国地方侵略のために播磨国・上月城を攻めたときです。豊臣秀吉はまずは水の手を断ち、籠城側の降参を伝えてきました。しかし秀吉は受け入れず飢えに弱り降参してきた兵士を惨殺し、子供は串刺し、女性は磔にして虐殺しました。戦国時代で見せしめのためとはいえ非戦闘員の子供や女性を残忍な方法で殺害することは例外的でした。

また豊臣秀吉は秀吉は、あるとき自らの出生地である尾張国に、血縁関係にある貧しい姉妹がいることを聞きつけました。豊臣秀吉は「彼女らを姉妹として認めよう。しかるべく待遇を施そう」という連絡を姉妹たちへ通達し、強引に都に来るように強いました。姉妹たちは天下統一寸前の豊臣秀吉と血が繋がっていることが公的に証明されると半ば幸運な気持ちで都へ向かいましたが、都に入った瞬間、拘束され斬首されてしまいました。豊臣秀吉は自らの血統が卑しいことをかき消したかったのです。

このように人たらしな性格が有名な一方で残忍で人間とは思えない残酷さも持ち得ているのが豊臣秀吉なのです。元々は明るいオープンな性格だったはずです。ですが貧しい身分から天下統一へ駆け上がる段階で何かが狂ってしまったのかもしれません。

豊臣秀吉の性格が反映されている名言もたくさんあります。豊臣秀吉の名言に興味ある方はこちらの記事を読んでみてください!

豊臣秀吉のエピソード

それでは最後に豊臣秀吉のエピソードを見ていきましょう。豊臣秀吉も様々なエピソードがあるので必見です!

信長の草履取り

木下藤吉郎、後の豊臣秀吉は織田信長のもとで草履取りとして働いていた時期があります。ある寒い冬の日の出来事が、藤吉郎の人たらしの才を示すエピソードとして知られています。

信長が外出する際、藤吉郎に草履を持ってくるよう命じられました。藤吉郎は信長の足元が冷えないようにと、草履を自らの尻で温めていました。信長は初め、草履が温かいことから藤吉郎が不適切に扱ったと勘違いし激怒しましたが、藤吉郎はすぐに服を脱ぎ、自分の行動が信長の快適を考えたものであることを示しました。

藤吉郎のこの行動により、信長は自分の誤解を認め、藤吉郎の忠義と機転の良さに感心しました。このエピソードは、藤吉郎の人間性と彼がいかに信長の信頼を得て出世への道を歩み始めたかを示す重要な出来事とされています。この出来事を通じて、藤吉郎は信長からの評価を一層高め、その後の出世のきっかけとなりました。

アピール術

先ほどの草履のエピソードの後、豊臣秀吉が織田信長の部下たちに自分をより理解してもらうために独特な方法を用いました。彼はあえて小便所の下に隠れ、小便をかけられた際にその相手を咎め、「小便をしかけるのは何者だ!」と相手を咎め、相手が「そこにいるとは知らなかった。」と言うと、「ご存じなくてごもっとも。お気にかけられるな」と返答したため、”物わかりの良い人物”として知られるようになりました。

また、別の機会には、ミカンの皮で作った肩衣を着てその購入資金を得るためにミカンの皮を売ったと説明し、その機知に富んだ行動で賢い人としての評価を確固たるものとしました。

部下のミスはあえて責めない

豊臣秀吉は、部下の失敗を責めることなく彼らの心を掌握する術に長けていました。1584年の小牧・長久手の戦いで、水軍指揮官の九鬼嘉隆が徳川家康の反撃に遭い、敗退しながらも何とか生還しました。嘉隆がこの失敗を詫びた際、秀吉は彼を責めることなく「帰還できたことが手柄である」と称え、嘉隆を激励しました。

この対応に感動した嘉隆はその後も秀吉に忠誠を尽くし、関ヶ原の戦いで自害するまで彼に仕え続けました。秀吉のこのような対応は、彼の卓越した人心掌握の能力を示す事例として評価されています。

接待上手

豊臣秀吉は、政敵を力で屈服させるだけではなく、巧みな接待や礼遇で心を掴む「人心掌握術」に長けていました。それを物語るエピソードが1588年の毛利輝元の上洛事件です。

毛利輝元は、中国地方を支配する最大の大名であり、当時すでに秀吉の支配下にあったものの、秀吉に対しては警戒心を抱いていました。秀吉は輝元に上洛を命じることで、その忠誠を試すとともに、接近する機会を設けました。

京都に到着した輝元は、秀吉による精緻な接待を受けます。まず、官位の便宜を図ることで、輝元の社会的地位を高める手助けをしました。これにより、輝元は他の大名や公家たちの間で名誉ある位置づけを得ることができ、その結果として秀吉への信頼感が増すよう工夫されました。

さらに、秀吉は輝元を京都と大坂の観光案内に招き、その魅力的な文化や歴史を紹介しました。輝元が自由に京都と大坂を楽しむことができるよう配慮することで、上洛が単なる政治的な命令でなく、楽しい体験であることを印象づけました。

また、輝元を各界の有名人が集まる社交界の一員に招待することで、彼にとって価値ある人脈を築かせるとともに、秀吉との個人的な関係を深める場を提供しました。このような社交の場は、輝元にとって新たな同盟者を見つける機会となり、秀吉への忠誠を強化する効果を持ちました。

大の女好き

(画像引用: President Online)

豊臣秀吉は大の女好きであり、女性関係も派手でした。秀吉は、正室「ねね」を始め、13人もの側室を持っていたとされています。秀吉の正室である「おね」は、杉原定利の娘であり、彼女との間に子供はいませんでした。この事実は、秀吉が側室を多く持つことになった背景にあると考えられます。正室との間に子供がいないことが、後継者を確保するための側室の存在をより重要なものにしていたのです。

中でも特に有名な側室が淀殿で、彼女は浅井長政の娘であり、秀吉にとって待望の嫡男・秀頼をもうけました。淀殿はその生涯と人物像がしばしば悪しざまに描かれがちですが、彼女との間に秀頼が誕生したことは、秀吉にとって非常に重要な出来事でした。ただし、淀殿と秀頼の関係については、彼女が過保護であったために、秀頼が大坂の陣での出陣要請を拒否するなど、親子関係がその後の日本の政治的な判断に影響を与えたとも言われています。

千利休との関係

(画像引用: Newsポストセブン)

足軽から日本の支配者にのし上がった豊臣秀吉は芸術のパトロンとしても知られ、茶道にも精通していたと言われています。そして彼の茶道への深い敬愛は、千利休を前例のない影響力を持つ茶頭として高めることに繋がりました。利休は茶会を主催するだけでなく、秀吉の信頼できる相談相手として、茶室の外の事柄についても助言を提供した。

利休の影響は、大阪城で開催された壮大な茶会の設計と実施に関与したことで顕著である。これらの茶会は秀吉の権力と洗練を示すだけでなく、彼の統治を固める政治的劇場としても機能した。これらのイベントは天皇から高位の武士、一般市民までが参加し、文化的実践が統一の力を持つことを示した。

彼らの協力関係の頂点は、秀吉が全体を金箔で覆った「黄金の茶室」の建設に象徴されるかもしれない。この派手な展示は、利休の「わび茶」の哲学—簡素さと素朴な美しさを重んじる—と鋭く対照をなす。にもかかわらず、利休のこの儀式での役割は、彼の美学的原則と秀吉のような強力で豪華な主君への奉仕の要求とのバランスを取る能力を示していた。

しかし、秀吉と利休のパートナーシップは悲劇的な終わりを迎える。1591年、秀吉は利休に切腹を命じたのです。この極端な行動の理由については、歴史家の間で議論が続いています。公式には、利休が茶道具を不正に売買したとされる。他の理論では、ある茶道具の所有権を巡る意見の不一致や、利休が娘を秀吉の家族に嫁がせることを拒んだことなど、より個人的な対立が原因だと提案されています。また秀吉の茶道における派手さと利休のミニマリストスタイルとの間の美的意識の相違が決裂に寄与したという説もあります。

まとめ

いかがでしたでしょうか。豊臣秀吉についてたくさん見ていきました。豊臣秀吉の名が一気に知れ渡った山崎の戦いから太閤検地や刀狩令、バテレン追放に天下統一、そして朝鮮出兵とまさに様々な出来事が満載でした。また人たらしな反面、戦場で見せる残虐さにも驚かされました。茶道や女好きというのは人間みがあって豊臣秀吉の人柄も表れていると感じます。

本サイトでは豊臣秀吉以外にも様々な日本の歴史や文化を扱っています。興味ある方はぜひ他の記事も読んでいただけると嬉しいです!

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