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偉人

坂本龍馬は何した人か簡単な年表、死因や性格やエピソードを紹介!

皆さん、坂本龍馬のこと、どれくらいご存じでしょうか。幕末に大活躍し、日本近代化のきっかけを作ったのが坂本龍馬で、小説やドラマなどで多くの方が目にする機会が多いかもしれません。ですが実際に坂本龍馬が幕末にどんなことをしていたのかご存じでしょうか。また坂本龍馬は最後は暗殺されてしまいますが、今なお犯人が誰か判明していません。今回は意外と知らない幕末の風雲児 坂本龍馬について紹介していきます。

坂本龍馬は何した人?

坂本龍馬は、日本の幕末と呼ばれる動乱の時代に活躍した志士で、江戸幕府を倒すきっかけを作り日本の近代化に大きく貢献した人物です。1835年、現在の高知県に生まれた龍馬は、若くして自由と平等を求め、身分制度に縛られる幕末の社会に疑問を持ちました。特に坂本龍馬は18歳の時に江戸の留学していたときに黒船来航を目の当たりにし、今の幕府では世界へ太刀打ちできないことを痛感していました。外国の脅威に対して日本がどう対応すべきかについて深く考え、開国と近代化の必要性を感じていました。

藩の束縛を抜け出し、江戸(現在の東京)に出て勝海舟に師事した龍馬は、船舶操縦技術だけでなく、西洋の政治や経済についても学びました。この知識を生かして、彼は日本初の近代的な海運会社「亀山社中」を設立し、国内の情報や物資の流通を効率化しました。

最も影響力があったのは、幕府と藩(地方政府)の枠を超えて、薩摩藩と長州藩という当時対立していた強力な藩を結びつけ、大政奉還に導いたことです。この大政奉還により、260年続いた幕府の支配が終わり、政権が天皇に返され、明治維新へと繋がりました。しかし、その革新的な活動が命取りとなり、1867年、32歳の若さで暗殺されてしまいます。

坂本龍馬の生涯は短かったものの、彼が残した影響は日本の歴史において非常に大きなものです。彼の考えた「海援隊約款」には、「人は生まれながらにして平等である」という理念が記されており、今日の日本社会にも影響を与え続けています。坂本龍馬は、日本が近代国家として歩み始めるための扉を開いた、真の革命家と言えるでしょう。

坂本龍馬の簡単な年表

それでは坂本龍馬が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。

1853年 黒船来航

(画像引用:Japaaan magazine)

坂本龍馬は幼いころより剣術の才能が光っており、18歳の時に江戸へ剣術修行へ出かけ、北辰一刀流の千葉定吉道場の門人となりました。江戸でも剣術を磨いていた坂本龍馬は、ペリー提督率いる黒船が浦賀へ来航した際に品川の沿岸警備を任されていました。近代化を果たしたアメリカの黒船を目の当たりにして坂本龍馬は今の幕府では世界には太刀打ちできない、近代化が遅れていると強く実感しました。

1862年 土佐藩を脱藩し、勝海舟の門人へ

坂本龍馬の土佐藩脱藩は、彼の人生で大きな転機となり、日本の歴史にも影響を与えた重要な出来事です。1861年、27歳の時、龍馬は土佐藩(現在の高知県)出身でありながら、藩の枠を超えた活動を展開していた親戚であり親友の武市瑞山が率いる土佐勤王党に加わります。この政治団体は、外国の脅威に直面していた幕末の日本において、皇帝への忠誠を誓い、封建体制の改革を目指していました。

翌1862年、龍馬は武市からの密書を携えて、山口県の萩を訪れ、久坂玄瑞という志士と会見します。久坂から「大名や公卿ではなく、志のある一般民衆が新しい時代の担い手であるべき」という教えを受けた龍馬は、その思想に深く影響を受け、土佐に戻るとすぐに決断を下します。彼は1862年の3月、家族や藩に無断で脱藩し、江戸に向かう決意を固めます。この脱藩は単なる藩の規則違反以上の意味を持っていました。龍馬にとって、それは政治的制約や身分制度に縛られない自由な活動のための必要なステップであり、その後の彼の行動が示すように、日本の将来に対する彼のビジョンを追求するための選択でした。

1864年 勝海舟の紹介で西郷隆盛と面会

坂本龍馬が土佐藩を脱藩した後、彼の活動はさらに広がりを見せます。江戸に出た龍馬は、幕末の重要人物である勝海舟に師事し、その指導の下で海軍の技術と知識を深めました。勝海舟が大坂湾周辺の海防を任された際、彼は神戸に海軍操練所を建設する責任を負います。龍馬は勝と共に神戸に赴き、海軍操練所に併設された勝の私塾に入門しました。そこで彼は勝の片腕として働く一方で、日本の近代海軍を目指して厳しい修行に励みました。

龍馬の活動は、ただの技術修練に留まらず、幕末の政治的舞台にも深く関与することになります。1864年8月、彼は勝の使者として西郷隆盛という別の幕末の重要人物との重要な面会を果たしました。この会見は、龍馬が西郷の人物像を探る貴重な機会となり、「氷川清話」に記されている彼の言葉は、西郷の潜在的な影響力を見抜く鋭い洞察力を示しています。龍馬は西郷の印象を勝に伝え、勝は龍馬の鑑識眼を高く評価しました。

1865年 亀山社中を結成

(画像引用: ながさき旅ネット)

坂本龍馬は1865年に日本で初めての株式会社である亀山社中という会社を設立しました。薩摩藩や長崎の豪商・小曽根家の支援を受けて、龍馬とその同志たちによって結成されました。

亀山社中の設立に至る経緯は、1864年の一連の出来事が大きく影響しています。6月5日に京都で発生した池田屋の変で、新選組によって多くの尊王攘夷派の志士が一掃されるという事件がありました。この事件には、勝海舟が設立した海軍操練所の生徒も関与しており、これが幕府の怒りを買います。さらに、7月の禁門の変にも操練所の生徒が参加していたため、勝は江戸へ呼び戻され、操練所と勝塾が閉鎖されました。

これらの事件により、龍馬を含む多くの脱藩浪人が行き場を失いました。しかし、彼らは諦めず、翌1865年に薩摩藩の庇護のもと、長崎で亀山社中を立ち上げることに成功します。亀山社中は、貿易会社と政治組織の機能を兼ね備えており、国内外の武器の調達や物資の輸送、航海訓練を行いながら、徳川幕府の倒幕を目指した活動を展開しました。

ちなみに亀山社中の結成に関しては三菱財閥の創業者の岩崎弥太郎も関わっています。岩崎弥太郎も龍馬と同じ土佐藩出身で年齢は一個上。昔から親交があり、同じような先進的な考えを持っていたということでこうした新しい施策に関しては強力しあっていたのです。

1866年 薩長同盟を締結させた

(画像引用: BUSHOO!JAPAN)

薩長同盟は、日本の幕末期において、薩摩藩と長州藩が徳川幕府を倒す目的で結んだ重要な同盟関係です。この同盟は、両藩が幕府に対して共通の敵意を持つ中で、坂本龍馬の仲介により実現しました。

当時の長州藩は攘夷運動を行いつつも、八月十八日の政変や下関戦争を通じて国内外の圧力により孤立し、幕府からは朝敵と見なされていました。一方の薩摩藩も、薩英戦争を経て、外国との対立だけでなく、幕府との関係も緊張していました。

坂本龍馬は既に倒幕の気運が高まっていた薩摩藩と、幕府から厳しい打撃を受けていた長州藩の両者が力を合わせるべきだと考えました。この提案に、薩摩藩の重鎮である西郷隆盛も賛同し、その実現に向けた動きが加速します。

坂本龍馬は1865年5月、伊藤博文や井上馨と共に長崎に向かい、薩摩藩と長州藩の代表者を一堂に会させました。ここで龍馬は、軍艦や銃を長州藩に供給することを約束し、さらに薩摩藩と長州藩が共同で幕府に立ち向かう計画を練りました。同年9月、幕府は長州藩が倒幕に傾いているとの情報を得て、第二次長州征討の準備を進めましたが、この動きに対して薩摩藩内の大久保利通などは慎重な姿勢を示しました。大久保は勅許に対して「非義の勅命は勅命に非ず」と批判し、幕府の方針に異を唱えました。

これらの政治的な動きの中で、1866年1月、小松帯刀邸で薩摩藩と長州藩の間で重要な会談が行われ、薩長同盟が正式に締結されました。この同盟には双方に大きなメリットがありました。薩摩藩にとっては、長州藩との同盟により、幕府に対抗するための同志を得ることができ、また長州藩が持つ戦闘力を利用して国力の低下を防ぐことができました。長州藩にとっては、薩摩藩を通じて必要な武器や物資を確保し、孤立状態を脱することが可能となりました。

一歩で倒幕へ向けたキーマンをつなげた坂本龍馬は幕府から危険人物としてマークされることになりました。

1867年 船中八策と大政奉還

1867年6月、薩摩藩と長州藩が武力討幕を考え始めた時、龍馬は武力による変革ではなく、平和的な方法での倒幕を模索していました。この考えを具体化するために、彼は後藤象二郎と土佐藩の船「夕顔」の中で遭遇し、政権を朝廷に返上するための八つの策を口頭で提案しました。これが「船中八策」として後に知られるようになり、下記の内容になっています。

  • 一、天下の政権を朝廷に奉還(ほうかん:天皇に返上すること)せしめ、政令宜(よろ)しく朝廷より出づべきこと。
  • 一、上下議政局を設け、議員を置きて万機(ばんき:重要な政務)を参賛(さんさん:携わり助ける)せしめ、万機宜しく公議に決すべきこと。
  • 一、有材の公卿・諸侯及(および)天下の人材を顧問に備へ、官爵(かんしゃく:官職と位階)を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべきこと。
  • 一、外国の交際広く公議を採り、新(あらた)に至当の規約を立つべきこと。
  • 一、古来の律令を折衷(せっちゅう)し、新に無窮(むきゅう:永遠)の大典(現在の憲法)を撰定すべきこと。
  • 一、海軍宜しく拡張すべきこと。
  • 一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべきこと。
  • 一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべきこと。
船中八策

船中八策は、徳川幕府が自ら政権を天皇に返上するという内容で、これにより幕府と倒幕派の間の可能な衝突を避け、平和的な政権移譲が可能となる道を提案しました。この策は後藤象二郎を通じて徳川慶喜に伝えられ、慶喜はこの提案を受け入れます。

そして1867年10月14日、徳川慶喜は大政奉還の建白書を朝廷に提出しました。この行動により、約700年続いた武士による日本の統治時代が終わりを告げ、新たな時代への移行が始まりました。

1867年 近江屋で暗殺される

大政奉還で幕府が崩壊した約1か月後、坂本龍馬は同士の中岡慎太郎とともに京都の近江屋で何者かによって暗殺されてしまいました。犯人はいまだに確定していません。幕府が崩壊し、これから新しい時代の日本を再結成していくというときに坂本龍馬を失ったことは倒幕派の中心であった薩摩藩、長州藩にショッキングな出来事でした。坂本龍馬と中岡慎太郎は近江屋で酒を交わしながら日本の未来について議論していたと言われています。そんな矢先に襲われ命を落としてしまったのです。坂本龍馬は幕末という激動の時代に活躍したにもかかわらず32歳というあまりにも早く生涯を終えることになりました。

坂本龍馬の暗殺の犯人は?

(画像引用: Wikipedia)

先ほども触れましたが、坂本龍馬は京都の近江屋で何者かに暗殺されました。この暗殺事件は幕末最大のミステリーとして今なお多くの人の興味関心を集めています。ここでは犯人の候補をいくつか紹介していきます。

京都見廻組説

最も有力とされるのが、京都見廻組による犯行説です。見廻組隊士であった今井信郎が明治初期に自白したことから、この説が広く認知されました。今井は佐々木只三郎の指示により、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、土肥仲蔵、桜井大三郎らと共に龍馬を襲撃し、暗殺したと述べています。この供述は後に『維新土佐勤王史』や『坂本龍馬関係文書』に収録され、広く受け入れられるようになりました。

新選組説

事件発生当初、土佐藩の重役であった寺村左膳や御陵衛士は新選組による犯行だと考えていました。この説は、当時の新選組と龍馬の関係や、新選組の京都での活動背景に基づいています。しかし、新選組隊員たちがその関与を否定し、決定的な証拠も見つからなかったため、信憑性には疑問が残ります。

紀州藩士報復説

「いろは丸事件」における海援隊と紀州藩の対立が原因で、紀州藩士による報復行動とする説もあります。海援隊の陸奥宗光(陸奥陽之助)は、この事件に対する紀州藩士の恨みが犯行の動機であると考えていました。

薩摩藩陰謀説

薩摩藩内の武力倒幕派が、龍馬の大政奉還を推進する姿勢に反発し、彼の暗殺を計画したとする説です。この説は、龍馬が薩摩藩の意向に反する政治的立場を取っていたことに基づいていますが、証拠は限られており、歴史学界では必ずしも支持されていません。

その他の諸説

その他にも、龍馬の活動により敵を多く作っていたため、個人的な恨みに基づく犯行や、異なる勢力の陰謀など、多くの推測がなされています。

このように坂本龍馬の暗殺は、犯人の候補も多く今なお多くの謎に包まれた事件であり、当時の政治的な混乱や複雑な人間関係が影響していることがうかがえます。各説にはそれぞれの根拠がありますが、現在でもどの説が最も正しいのかは明らかになておらず、歴史の闇の中に埋もれた真実となっています。

坂本龍馬の性格

(画像引用: BUSHOO!JAPAN)

そんな幕末の時代に活躍した坂本龍馬ですが、どんな性格だったのでしょうか。坂本龍馬は、薩長同盟や亀山社中結成など数多くの主要関係者を繋いでいきましたが、それは坂本龍馬の卓越したコミュニケーション能力と人たらしな一面から来ています。坂本龍馬は相手の興味や好みを理解し、それに基づいて関心を示すことで相手からの好意を引き出す技術を持っていました。また、龍馬は常に笑顔を絶やさず、おおらかで気配りができる性格だったため、多くの人に好かれました。彼の人柄は、土佐藩を脱藩した後も同郷の人々との繋がりを保ち続けるほど魅力的で、裏切り者と見なされることなく親しみを持たれ続けたというエピソードからも窺い知ることができます。

龍馬はまた、知らないことに対して教えを請うことができる柔軟さを持ち合わせており、「恥ということを打ち捨てて、世のことは成るべし」という言葉を残しています。これは、自らの無知を恥じることなく、常に学び成長しようとする姿勢を示しています。世界に追いつくためには倒幕し日本を近代化する必要があると考えていたり、日本で初めての株式会社を創設するなど先進的な考えも持っており、新しいものへの受容性も高いのが坂本龍馬です。

さらに、彼の有名な言葉「世の人は我を何とも言わば言え。我なす事は我のみぞ知る」は、他人の評価に左右されることなく、自分の信じる道を進むことの大切さを説いています。このように、龍馬は自身の信念と強い人間関係構築能力によって、多くの人々を惹きつけ、影響を与えたのです。

坂本龍馬の性格が反映されている名言もたくさんあります。坂本龍馬の名言に興味ある方はこちらの記事を読んでみてください!

坂本龍馬のエピソード

それでは最後に坂本龍馬のエピソードを見ていきましょう。坂本龍馬も様々なエピソードがあるので必見です!

幼少期はおねしょを漏らし泣き虫でいじめられっ子だった

坂本龍馬の幼少期は、後に日本の歴史を動かす大英雄となる彼の予想外の一面を垣間見せています。彼が友人宅を訪れた後、なぜか必ずその玄関前で立ち小便をしてしまうという、少々風変わりな行動を取っていたことからも、そのユニークな性格が伺えます。

さらに、13歳までおねしょを続けていたというのも、後の勇猛果敢な海援隊のリーダーのイメージとはかけ離れた、意外な事実です。泣き虫でいじめられっ子だったという点も、彼の幼少期のチャレンジと変遷を色濃く示しています。学びの場である塾に入ったものの、泣き虫であったことが原因で追い出されることになり、どこか不器用で愛すべきキャラクターの側面を持っていたことが窺えます。

女性関係豊富なモテる男だった

(画像引用: BUSHOO!JAPAN)

坂本龍馬の魅力的な人柄と卓越したコミュニケーション能力は薩長同盟や亀山社中設立だけではなく、多くの女性からモテることにも貢献したようです。彼の女性関係には、特に注目されるエピソードがいくつか存在します。正式な記録に名を連ねる女性だけでも、平井加尾、千葉さな子、そして彼の妻となった楢崎龍(おりょう)の3人がいます。それ以外にも坂本龍馬に「抱かれた」「抱かれたい」との証言も多数。これらのエピソードからは、龍馬が当時の社会でいかに「モテ男」であったかが伺えます。

平井加尾

平井加尾との関係については詳細は多く語られていませんが、彼女との浮名は龍馬の人柄の魅力を象徴しています。

千葉さな子

特に印象的なのは、千葉さな子との関係です。千葉さな子は、剣術の名門・千葉道場の出身で、龍馬に深い愛情を寄せていたとされています。龍馬の死後、彼女が生涯独身を貫いたという話は、彼女が龍馬へ抱いていた強い感情の証しとも言えるでしょう。

楢崎龍(おりょう)

最も重要な女性は、彼の正式な妻である楢崎龍(おりょう)です。1864年に結婚したおりょうは彼の生涯を支え続け、夫の死後もその遺志を継いだことで知られています。おりょうとの結婚生活からも、龍馬の人間的な魅力がうかがえます。

妻の機転で寺田屋事件を逃れ、そのまま日本初の新婚旅行

坂本龍馬は幕末の激動期に多くの歴史的事件に関与しましたが、その中でも「寺田屋事件」は特に有名です。この事件は、坂本龍馬が薩摩藩士を装い、長州藩の支藩である長府藩士「三吉慎蔵」と共に京都の寺田屋に宿泊していた際に発生しました。ある夜、江戸幕府の伏見奉行所から派遣された約30名の捕り方が、彼らの捕縛または暗殺を目的に寺田屋を包囲しました。

この危機的状況の中、坂本龍馬の妻である楢崎龍(通称おりょう)が機転の利いた警告を与えたことで、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃で応戦し、三吉慎蔵も手槍を使用して抵抗しました。二人は負傷しつつも、お龍の機転によって辛うじて脱出し、近くの材木小屋に隠れて難を逃れることができました。

この事件の後、坂本龍馬は負傷を癒すため、新婚の妻お龍と共に鹿児島県の温泉街へ療養旅行に出かけました。この旅行は、日本で初めての新婚旅行としても知られるようになりました。この旅行は、彼らの夫婦仲の深さを示すとともに、日本の新婚旅行の始まりとして歴史に記録されています。

ピストルを常備していた

坂本龍馬は新しいもの好きで、それを象徴するエピソードとして龍馬が武士であるにもかかわらず伝統的な武器である日本刀ではなく、ピストルなどの近代的な銃火器を愛用していましたことが挙げられます。彼が用いた銃は二つあるとされており、一つは高松晋作から贈られたもの、もう一つは自ら購入したもので、これらを妻のおりょうと共に護身用に持っていたと記録されています。龍馬は「時代は銃だ。銃の前には刀なぞ役に立たん」と述べ、新しい技術や武器を積極的に取り入れる姿勢を示していました。

まとめ

いかがでしたでしょうか。坂本龍馬が行ってきた薩長同盟や今なお謎に包まれている暗殺事件や性格、特徴的なエピソードについて紹介してきました。黒船来航から短期間で日本が近代化を目指し始め、平和に大政奉還まで進むことができたのは坂本龍馬なしではできなったことです。坂本龍馬には多くの要人を巻き込む人柄の良さやコミュニケーション能力、そして日本を近代化させたいという情熱があり、これからの動乱の時代である幕末を象徴する人物をして記憶され続けるでしょう。

本サイトでは坂本龍馬以外にも様々な日本の歴史や文化を紹介しています。興味ある方はぜひ他の記事も読んでいただけると嬉しいです!

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