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福沢諭吉は何した人か簡単な年表、死因や性格やエピソードを紹介!

皆さん、福沢諭吉のことどれくらいご存じでしょうか。普段一万円札に顔が載っていたり、慶應義塾大学の創設者、さらには『学問のすゝめ』と関連して知っている人も多いと思います。ですが、福沢諭吉とはそもそも一体何者なのでしょうか。どんなことをした人物なのでしょうか。実が意外と酒豪という説もあります。今回は実は意外と知らない福沢諭吉について紹介していきます。

福沢諭吉は何した人?

(画像引用: 東京とりっぷ)

福沢諭吉は、日本の明治時代に活躍した啓蒙思想家であり、教育者です。彼は1868年に名高い慶應義塾を創設し、多くの指導者を育て上げたことで知られています。福沢は大分県中津市にある豊前国中津藩の下級藩士の家庭に生まれ、若い頃から学問に秀でていました。

彼の学問の旅は、地元の儒学者である白石常人に師事することから始まりました。その後、大阪で著名な蘭学者緒方洪庵のもとで学び、西洋の科学や文化に深い関心を持つようになります。この経験が後の彼の思想や教育方針に大きな影響を与えました。

1860年から1867年にかけて、福沢諭吉は幕府の遣欧米使節団に三度参加し、西洋の政治、経済、文化を学びました。彼は帰国後、「西洋事情」などの著作を通じて、これらの知識を日本国内に広める役割を果たしました。

教育者としての福沢諭吉の功績は計り知れません。慶應義塾の設立は、日本の近代教育の礎を築くこととなり、今日に至るまで多大な影響を与え続けています。また、彼の著作「学問のすゝめ」は、教育の重要性と自己啓発の精神を説いたもので、多くの人々に読まれ続けています。

福沢諭吉の生涯と業績は、日本の近代化と教育改革の中心的存在として、今もなお高く評価されています。彼の前向きで革新的な精神は、多くの日本人に影響を与え、国の発展に寄与しました。

福沢諭吉の簡単な年表

それでは福沢諭吉が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。

1855年 適々斎塾へ入塾

(画像引用: トラベルjp)

福沢諭吉は大坂にある「適々斎塾」に入塾しました。この塾は、蘭学者である緒方洪庵によって設立された学問の場で、西洋科学や医学の知識が学ばれていました。適々斎塾は、当時としては非常に進歩的な教育を提供しており、塾生たちは、洋の東西を問わず最先端の知識を吸収し、明治維新を支える基盤となりました。

塾生には、福沢諭吉のほか、大村益次郎、佐野常民、橋本左内などとその後の明治時代に日本の近代化を支えた人物が数多くいました。福沢諭吉も他の塾生と同じように猛烈に勉強し、その後の功績を生み出す根源となる知識を自分のものへしていったのです。

1858年 江戸へ赴任し、蘭学塾を創設

中津藩の藩命で江戸に赴くことになった福沢諭吉は江戸の中津藩中屋敷で蘭学を教える蘭学塾を創設しました。適々斎塾で蘭学を徹底的に勉強した福沢諭吉はその知識を多くの人にも身につけてほしい思いで塾を作りました。そしてこの蘭学塾こそが後の慶應義塾になるのです。

1860年 咸臨丸に乗り込み欧州へ

文久2年(1862年)、福沢諭吉は重要な一歩を踏み出しました。彼は勝海舟が館長を務める咸臨丸の一員として、欧州への長い航海に乗り出したのです。この歴史的な航海は、長崎から始まり、最終的に英国を目指しました。途中、カイロでピラミッドの壮大な光景を見学し、その後パリへと向かいました。欧州各地を訪れた彼らは、文化や科学技術の進歩を肌で感じることができました。

特に英国では、ロンドン万国博覧会をはじめ、病院、養唖院(ろう学校)、電信局、テムズトンネル、グリニッジ天文台、海軍学校、アームストロング砲の製造工場、武器庫、大英博物館、キングス・コレッジ・スクールなど、多岐にわたる施設を精力的に見学しました。これらの訪問は、福沢にとって西洋の先進技術や教育システムを直接体験する貴重な機会であり、後の彼の思想に大きな影響を与えました。

福沢諭吉はすでに蘭学で最新技術については熟知していたので、実際に目の当たりにしても大きな驚きはなかったと言われています。一方で特に興味を持ったのは西洋の政治文化や経済制度でした。英国の議会で保守党と自由党が議論後に共に酒を飲む様子など、政治の運営や社会の構造についての洞察は彼にとって新鮮で刺激的なものでした。これらの体験は、福沢が帰国後に提唱した政治や社会改革の思想に大きく影響を与え、彼の著作や教育活動に反映されました。

また福沢諭吉はヨーロッパの植民地支配を目の当たりにし、西洋列強の権力政治に対する危機感を深めました。この経験から、日本が如何にして国際的な独立を保ち、自立した近代国家としての地位を確立すべきかの重要性を痛感しました。また、ロンドンでの中国学者との出会いを通じて、日本と中国との文化的・学問的差異についても理解を深め、これが後の彼のアジアに対する視野や文明論に影響を与えました。

これらの欧州での体験を『西洋事情』など様々な書物にまとめ後に刊行しました。福沢諭吉の体験をよりもっと多くの日本人に知ってもらいたいという背景があったのです。

1868年 私塾を慶応義塾へ改名

(画像引用: 慶應義塾大学HP)

1858年に創設した江戸の蘭学塾を当時の元号をとって慶應義塾と改名しました。これが今に続く慶応義塾大学のルーツです。

福沢諭吉が江戸時代に創設した蘭学塾は、後に慶應義塾と名前を変え、約10年の歳月を経て発展しました。この期間に福沢諭吉は、西洋の進んだ文明と教育システムに触れるため、アメリカとヨーロッパを何度も訪れました。

当時の日本では、学問を学ぶ主な方法として私塾がありましたが、これは一人の教師が少数の生徒に教えるという形態でした。福沢諭吉は、このような私塾の限界を感じており、より大規模で開かれた教育の場を求めていました。

欧米で見た「共立学校」は、教育者や実業家など異なる立場の人々が共同で運営する学校で、福沢諭吉にとって大きな刺激となりました。これに触発され、彼は日本においても同様の学校を設立することを決意しました。

そこで、彼は私塾を一新し、教育者や生徒が互いに学び合い、社会に開かれた学校へと変革を試みたのです。この新しい学校は、当時の元号「慶応」を取って「慶應義塾」と名付けられました。この学校は、日本の近代教育の礎を築くことに寄与し、多くの優れた人材を育成しました。

1872年 『学問のすゝめ』刊行

(画像引用: 日本史辞典.com)

福沢諭吉の『学問のすすめ』は、1872年(明治5年)に初版が刊行され、その後、明治9年(1876年)までに17編にわたるシリーズが発行されるなど、日本の啓蒙期に大きな影響を与えたベストセラーとなりました。この書籍は、福沢諭吉が日本社会に対して学問の重要性と人間の平等を訴えた作品です。

『学問のすすめ』の冒頭に登場する「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉は、すべての人間が生まれながらにして平等であるという強いメッセージを持っています。福沢は、この平等は生まれた時点でのものであり、その後の人生でどれだけ学問に励むかによって、個人の立場や能力が変わってくると説きました。彼は学問を通じて「一身独立、一国独立」の精神を育むことが、個人としても国家としても真の独立を果たすための鍵であると力説しました。

この本は、当時の日本社会において、西洋の進んだ知識や思想を学ぶことの重要性を広く伝え、多くの若者たちに教育への意欲を喚起しました。福沢諭吉自身も、慶応義塾の創設者として教育に尽力し、『学問のすすめ』はその教育哲学の集大成とも言える内容です。

この作品により、福沢諭吉は日本の啓蒙思想家としての地位を不動のものとし、彼の思想は後の日本の近代化や社会改革の基盤を築く一助となりました。『学問のすすめ』は、今日においても多くの人々に読まれ続け、個人の自立と学問の価値を説く古典として、その意義を留めています。

1875年 『文明論之概略』刊行

福沢諭吉の『文明論之概略』は、1875年に刊行された彼の著作で、日本の近代化と西洋文明の導入に関する彼の考えを集約しています。この著作は、西洋の科学技術だけでなく、政治制度や社会構造の導入の必要性を主張しており、日本が自国の伝統を保持しつつ、西洋の進歩的な側面を取り入れるべきだと説いています。

福沢は、文明とは科学技術の進歩だけではなく、個人の自由と平等を保障する政治体制や、合理的な社会制度に基づく生活様式の変革を含むものと定義しています。彼にとって、文明開化は単に西洋の技術を導入すること以上の意味を持ち、社会全体の根本的な変革を意味していました。

また『文明論之概略』では、教育が国民全体の文明開化に不可欠であると強調されています。福沢は、教育を通じて国民一人ひとりが独立した思考を持ち、自己決定能力を養うことが、国家の独立と発展に繋がると見ていました。

さらに福沢諭吉は、当時の日本社会に見られた排外主義的な潮流に批判的で、国際社会における協調と相互理解の重要性を訴えました。彼は、日本が世界の諸国と積極的に交流し、外国の長所を学ぶことが、真の文明国への道だと主張しました。

1885年 『脱亜論』を提唱

1885年3月16日、福沢諭吉は『時事新報』の社説を通じて、日本が西洋列強に倣い、アジアから「脱亜」し、西洋に「入欧」するべきだと主張しました。この論説は「脱亜論」として広く知られ、明治時代の日本の国際戦略に影響を与えた重要な思想となりました。

福沢諭吉は、ヨーロッパを「文明」の象徴、アジアを「未開野蛮」の地と捉えていました。彼の見解では、日本は明治維新以降、積極的に西洋の科学技術、政治制度、社会構造を取り入れることで近代化を進めてきたが、同時にアジア諸国とは異なる道を歩むべきだと考えていました。彼の考えでは、日本が西洋列強の圧力下で開国し、急速に近代化を進める過程で、中国や朝鮮といった周辺国との連帯よりも、先進的な西洋国家との協調を図るべきであるとの立場を強調しました。

福沢の脱亜論では、日本が隣国の開明を待つことなく、アジア諸国から距離を置き、西洋文明国と肩を並べて進むべきだと主張しました。これは、「我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、亜細亜東方の悪友を謝絶する」という言葉によって表現されました。

脱亜論の影響

福沢諭吉のこの社説は、その後の日本の外交政策と国民意識に大きな影響を与えました。脱亜論は、日本がアジア諸国に対して持つ蔑視感を強化し、自国の近代化と文明国としての自己認識を高める助けとなりました。また、アジア諸国との関係ではなく、西洋諸国との連携を模索する政策の正当化にも寄与しました。

福沢諭吉の死因

福沢諭吉は1901年に脳溢血で亡くなりました。脳溢血とは主にお酒の飲みすぎにより脳の血管が破れて出血してしまい病気です。福沢諭吉は、日本の啓蒙思想家として広く知られていますが、実はかなりの酒豪でたばこも大好きだっただとか。なんと幼少のころから酒をこよなく愛し、その酒豪ぶりは周囲を驚かせるほどでした。当時、飲酒に年齢制限がなかった江戸時代の日本で、福沢は早くから酒に親しんでいました。

大阪で学んでいた適塾の創設者、緒方洪庵夫妻も福沢の飲酒ぶりには頭を悩ませていたと言われています。福沢は塾長となってからも、給料の大部分を酒代に使い、その飲みっぷりは塾生たちにも知られていました。彼の酒への情熱は、ある日、酔っ払って全裸で塾内を徘徊していた際に緒方夫人と鉢合わせするほどでした。この出来事は、福沢にとって非常に恥ずかしい記憶として残り、後に彼が「40年経っても忘れられない」と述べています。

この出来事を契機に、福沢は断酒を決意します。しかし、酒の代わりにタバコを手にするようになり、結局はヘビースモーカーへと変貌を遂げてしまいます。断酒には挫折し、福沢は再び大酒を楽しむ生活に戻りましたが、彼は「ビールは酒じゃない」と自らを納得させ、断酒中もビールを毎日飲んでいたと伝えられています。

慶應義塾大学の大学生というと他の大学と比較しても飲み会が多くお酒が好きな印象が強いです。まるで創設者である福沢諭吉の酒好きが伝染してしまっているのかもしれませんね。

福沢諭吉の性格

(画像引用: 戦国ヒストリー)

福沢諭吉の性格は自立心が強く開放的な情熱溢れるタイプです。自分自身が蘭学を猛勉強し知識を身につけ社会的地位を上げていっただけではなく、『学問のすゝめ』で説いたように、彼は多くの日本人が実用的な知識の習得を重視し、学問を通じて社会的、経済的な自立をすることを促しました。

また福沢諭吉が西洋の文明や科学に対して開かれた態度を持っておりました。彼自身当時の日本人からすると全く新しい領域である蘭学を猛勉強しましたし、実際に欧州へ行って欧州で実際に導入されている制度や技術を目の当たりにしてきました。彼は明治時代に多くの西洋書籍を翻訳し、日本人に新しい知識を広めることに貢献しました。これにより、日本社会の封建的な価値観に挑戦し、変革を促す一助となりました。

さらに慶応義塾の創設者として、福沢は教育への深い情熱を持っていました。彼は学問の門戸を広げ、女性や低い社会的地位の人々にも教育の機会を提供することに力を入れました。これは、教育が個人の自立に不可欠であるという彼の信念を反映しています。

福沢諭吉の性格が反映されている名言もたくさんあります。福沢諭吉の名言に興味ある方はこちらの記事を読んでみてください!

福沢諭吉のエピソード

それでは最後に福沢諭吉のエピソードを見ていきましょう。福沢諭吉も様々なエピソードがあるので必見です!

神社のご神体を置き換える

福沢諭吉は、幼い頃から疑問を持つことを恐れず、迷信や既成概念に挑戦する姿勢が顕著でした。

ある日、福沢諭吉は近所の稲荷社に何が祀られているのか興味を持ちました。社をこっそりと開けて見ると、中にはただの石が一つ置かれているだけでした。この発見から、彼はその石がどれほど特別なのか、また大人たちはその変化に気づくのかを試すことにしました。福沢は道端の普通の石とご神体の石を入れ替えてみましたが、信仰心深い大人たちは変化に全く気づかず、以前と変わらず拝んでいたそうです。この周りの大人がただの石を御神体と勘違いし敬い、畏怖していることを笑ったといいます。

神様のお札で尻を拭く!?

さらに福沢諭吉の迷信への挑戦は続きます。

別の機会に、福沢諭吉は藩主の名前が書かれた紙を偶然踏んでしまい、その行為が罰当たりであると兄から叱られました。しかし、福沢にとってそれはただの紙に過ぎませんでした。そこで彼は、もっと重大な実験を思いつきます。神社から持ち帰ったお札を使って、さらに挑戦的な試みを行ったのです。お札を足で踏みつけるだけでなく、トイレでそのお札を使ってみるという行為を実行しました。これは、社会の神聖視されているものに対する疑問と、その信仰の本質を試すためでした。

これらの行為のあと福沢諭吉は何も罰は当たらなかったので、このお札は単なる迷信に過ぎないと結論付けました。福沢がこれらの経験を誰にも話さずに秘密にしていたのは、家族から叱責されることを避けるためでした。

女性に対して一途であった

福沢諭吉は日本の近代化に多大な貢献をした知られた思想家であり教育者ですが、彼の私生活においても尊敬すべき面があります。特に、彼の女性に対する誠実で一途な態度は、その人柄を象徴しています。

27歳の時、福沢諭吉は中津藩の藩士、土岐太郎八の次女お錦と結婚しました。2人の間には4男5女、合わせて9人の子どもに恵まれ、夫婦仲は非常に良かったと言われています。当時としては妾を持つことが珍しくない時代でしたが、福沢にはお錦以外に女性関係のうわさは一切存在しませんでした。

福沢諭吉は妻の意見を大切にし、常に耳を傾けていたと伝えられています。例えば、彼が大好物だった河豚を食べることに対し、お錦は毒を持つ食物であることから危険を懸念し、食べることに反対しました。お錦のこの意見に福沢は納得し、彼女の願いを尊重して以降河豚を食べることを止めたとされています。このエピソードからは、彼がどれほど妻を尊重し、その意見を大切にしていたかが伺えます。

福沢諭吉のこのような行動は、彼の人となりを示すものであり、家庭内でもその哲学的信念と一貫性を保っていたことを示しています。妻への深い愛情と尊重が、彼の生涯を通じて一途な関係を築く基盤となったのです。

居合の達人であった

福沢諭吉は居合道の達人でもありました。5歳から漢学と剣術を学び始め、特に立身新流居合で免許皆伝の称号を獲得しています。彼の居合技術は、実戦での斬り合い経験はないものの、確かなものでした。

福沢の日々の生活においても、居合は重要な役割を果たしていました。真面目な性格の彼は、晩年に至るまで剣術の鍛錬を欠かさず、一日に千本の居合を続けるほどの熱心さを見せています。このような厳しい日々の訓練は、彼の精神的な鍛錬にも寄与していたと言えるでしょう。

しかし、そのストイックなまでの居合の練習が、福沢の健康に影響を与えた可能性も指摘されています。彼は生涯に二度の脳溢血に見舞われ、その原因として過度な身体鍛錬が関与しているのではないかとの噂が立つほどでした。

カレーライスを日本に広めた

福沢諭吉は、日本の近代化に多大な貢献をした人物として知られていますが、彼の影響は学問や思想だけに留まりません。彼は海外旅行で得た知識や文化も積極的に日本に紹介しており、その中でも今の食卓に欠かせないカレーライスを日本へ広めたのは何を隠そう福沢諭吉なのです。

欧米諸国への訪問を通じて、福沢諭吉は多くの新しい料理や文化を経験しました。その中で、彼が特に注目したのがカレーライスでした。この料理は、当時の日本にはまだ馴染みのない味でしたが、福沢諭吉がその魅力を紹介することにより、やがて日本全国で愛される食べ物へと変わっていきました。

福沢諭吉の言葉の紹介は、カレーライスに限らず、多くの新しい概念や文化が日本に根付くきっかけを作りました。例えば、他にもspeechを「演説」、societyを「社会」、zooを「動物園」といった現在も私たちが日常的に使用している言葉も、彼が和製漢語として作り出したものです。

これらの言葉が日本社会に広がることで、日本人の世界観や文化の理解が深まり、西洋の概念や文化が日本に浸透する大きな一歩となりました。福沢諭吉がカレーライスとともに紹介した西洋の食文化は、今や日本の食卓に欠かせない要素となっており、彼の影響力の大きさを物語っています。

授業料という制度を日本で初めて作った

慶應義塾を創設した福沢諭吉ですが、実は授業料という制度を日本で初めて作ったのも福沢諭吉でした。

それまで日本における私塾では、授業料を徴収するという概念が一般的ではありませんでした。しかし、福沢諭吉は慶應義塾の設立にあたり、授業料を徴収することで学校の維持費に充てるというシステムを導入しました。このシステムは、教育機関の自立性を高め、質の高い教育を提供するための資金を確保する手段となりました。

授業料の導入は、当時としては非常に斬新な試みであり、教育へのアクセスを広げることにも寄与しました。これにより、より多くの人々が教育の機会を得ることが可能となり、日本の近代化に向けての人材育成が進むこととなります。

福沢諭吉が一万円札に選ばれた理由

1984年、日本の一万円札のデザインが変更され、飛鳥時代の聖徳太子から福沢諭吉へと変更されました。この変更は、当時日本が経済的に海外輸出に依存していた背景と、間近に控えていたバブル景気の影響を受けていました。福沢諭吉が選ばれた主な理由は、彼が最高額紙幣としてふさわしい品格を持ち、国内外での知名度が高く、明治以降の文化人として広く認識されていたからです。

福沢諭吉は、日本の近代化に寄与した教育者であり、慶應義塾の創設者としても知られています。彼の顔が一万円札に採用されることで、日本国内外の人々が日常的に彼の功績を目にすることになり、日本を代表する人物としての彼の地位が確固たるものとなりました。この変更は、福沢諭吉の国際的な影響力と文化的重要性を反映していると言えます。

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回は福沢諭吉について紹介してきました。幼いころから勉学に励み、思想や制度の近代化に大きく貢献してきました。慶應義塾の創設で日本の発展に貢献する多くの要人を輩出する教育の場を整備してきました。また『学問のすゝめ』で説いたような人生でどれだけ学問に励むかが大事であるという考え方は今なお多くの日本人に大切にされており、日本人の考え方の基盤を作ってきました。

本サイトでは福沢諭吉以外にも様々な日本の歴史や文化について紹介しています。興味ある方はぜひ他の記事も読んでいただけると

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