皆さん、野口英世のこと、どれくらいご存じでしょうか。1000円札の顔であり、日常で最も目にすることが多い偉人なので顔と名前は知っている方は多いと思いますが、実際どんなことをしたのか詳しい方は多くはないと思います。幼いころに負った左手の傷という障害を圧倒的な努力で乗り越え、黄熱病の研究で世界に貢献した野口英世。そんな野口英世も実は女とお金には相当だらしない一面があっただとか。今回はそんな意外と知られていない野口英世について紹介していきます。
野口英世は何した人?
野口英世は1876年に福島県猪苗代で生まれた日本の医学者で、幼少期に左手に重い火傷を負いましたが、周囲の支援と自らの努力でその困難を乗り越えました。この経験が彼に医学への興味を抱かせ、後に医師としての道を志すきっかけとなりました。そこから野口英世は寝る時間も惜しんで猛勉強を重ね、日本で医師となりました。しかし幼少期の左手の怪我より医師として満足に働けず研究者の道を選びました。その後渡米し彼はアメリカのロックフェラー医学研究所で研究に専念し、世界的に活躍しました。
野口英世は特に感染症の研究で名を馳せ、黄熱病の研究ではノーベル賞の候補にも上がるほどの成果を挙げました。彼の研究は多くの人々の命を救うために寄与しましたが、1928年、西アフリカのアクラ(現ガーナ共和国)で黄熱病の研究中に自らも同病に感染し、51歳でこの世を去りました。
野口英世の人生は、自らが経験した苦難を乗り越え、多くの人々を助けるために医学の力を信じて貢献した壮大な物語です。彼の献身的な姿勢と科学への深い情熱は、今も多くの人々に影響を与え続けています。
野口英世の簡単な年表
それでは野口英世が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。
年 | 出来事 |
1876年 | 福島県耶麻郡猪苗代町(当時 三ツ和村)に生まれる。初めの名前は清作。 |
1878年 | いろりに落ち左手に大火傷を負う。 |
1884年 | 斉藤幸元医師により左手の手術を受ける。 |
1892年 | 会津若松の会陽医院長・渡部 鼎先生により左手の手術を受ける。 |
1893年 | 猪苗代高等小学校を優等卒業。 |
1896年 | 上京し医学開業前期試験合格。血脇守之助先生の厚意で、高山歯科医学院で働く。 |
1897年 | 済生学舎入学。血脇先生の紹介で帝大外科教授近藤次繁博士による左手の再手術を受ける。 |
1897年 | 医術開業後期試験に合格し、医師の資格を得て高山歯科医学院の講師となる。また順天堂医院に勤務。 |
1898年 | 北里伝染病研究所助手となる。また帰省中に英世と改名。 |
1901年 | 渡米し、ペンシルベニア大学フレスキナー博士の助手となる。 |
1901年 | ナショナル・アカデミー・オブ・サイエンスで蛇毒研究の成果を発表。 |
1903年 | カーネギー学院研究助手となり、デンマークに留学。 |
1904年 | デンマーク留学を終え、ロックフェラー医学研究所の一等助手となる。 |
1907年 | ペンシルベニア大学よりマスター・オブ・サイエンスの名誉学位を受賞。 ロックフェラー医学研究所準正員に昇進。 |
1909年 | カーネギー学院より『蛇毒』を出版。 |
1911年 | 梅毒スピロヘータの純粋培養に成功。 |
1912年 | 母シカより帰国を促す手紙が届く。 |
1913年 | 麻痺狂及び脊髄癆患者の大脳中にスピロヘータ・パリーダを検出発見。 |
1914年 | 7月、ロックフェラー医学研究所正員に昇進。 |
1915年 | 15年ぶりで日本に帰国。勳四等に叙せられ、各地での講演会・晩餐会に出席。母シカらと東京・関西旅行を行う。 |
1918年 | 6月、エクアドル・グアヤキルに出張、当地の黄熱病病源体を発見。 |
1919年 | 黄熱病病源体について論文を発表。 また黄熱病研究のためメキシコに出張。 |
1926年 | オロヤ熱病源体について論文を発表。 |
1927年 | トラコーマ病源体について論文を発表。 またアフリカへ黄熱病研究のため出張。 |
1928年 | 西アフリカ・アクラで黄熱病研究中に、黄熱病に罹り殉職。 |
幼少期にいろりに落ち左手に大火傷を負う
野口英世は幼少期に深刻な事故に遭いました。1歳半の時、彼はイロリに落ちて大火傷を負い、その結果左手の指が癒着してしまいました。しかし、この逆境にも負けず、小学校で優れた成績を収めるほど努力を重ねました。学校在学中には、教師や同級生の支援で手術を受ける機会を得て、渡部鼎医師によって左手の手術を受けました。この手術がきっかけで、医師という職業に強い興味を持つようになります。
野口英世はその後、医師を目指す決心を固め、福島県の会陽医院で書生として働き始めます。彼は睡眠時間を削るほど熱心に勉強し、医師国家試験に向けて準備しました。このような彼の努力と情熱は、後の彼の成就の基礎となりました。
上京し医師になってから渡米前まで
野口英世は19歳で上京し、医師としての資格を得るために医術開業試験に挑戦しました。彼は前期と後期の二度の試験に合格し、見事に医師の資格を取得します。しかし幼少期に負った左手の怪我で手術など満足に医師としての活動ができないことを悟った野口英世は研究者としての道を選びます。その後、彼は多岐にわたる医療分野での経験を積むため、高山歯科医学院、順天堂医院、伝染病研究所、横浜海港検疫所など、複数の医療機関で勤務しました。
特に横浜海港検疫所での勤務は、彼の医師としてのキャリアにおいて重要な役割を果たしました。ここでの経験中にペスト患者を発見し、その功績が認められたことで、国際予防委員会の一員として中国の牛荘に派遣されることとなります。この地での防疫活動において、彼の英語と中国語の能力が活かされ、現地での残留を希望されるほど高く評価されました。また、この時期に彼は自身の名前を清作から英世に改名し、新たな人生のステージを切り開いたのです。
一回目の渡米
野口英世は1900年に、伝染病研究所で出会ったアメリカのフレキスナー博士を頼って単身アメリカへ渡りました。アメリカでは彼の蛇毒に関する研究が高く評価され、これがきっかけでデンマーク国立血清研究所での留学資金を獲得します。デンマークでは細菌学の基礎を学び、その後アメリカに戻ります。
アメリカに戻った野口は、フレキスナー博士が所長を務めるロックフェラー医学研究所に迎えられました。ここで彼は梅毒スピロヘータの研究を行い、その成果はノーベル賞候補にもなるほどの世界的な評価を得ました。この成功により、野口英世はロックフェラー医学研究所の正員としてさらに多くの研究に取り組むこととなりました。
この一連の活動は、野口英世が世界的な医学研究者としての地位を築く大きなきっかけとなりました。
渡米中に母から帰国を促す手紙
1912年、野口英世はアメリカでの研究と学問のキャリアを積み重ねていましたが、その最中に彼の母シカから一通の手紙が届きます。この手紙では、幼い頃に覚えた文字を思い出しながら、彼女は遠く離れた息子に帰国を切望する思いを綴っていました。この手紙を受け取った英世は、親不孝をしているとの思いから涙が止まらなかったとされています。
当時、野口英世はヨーロッパでの講演や研究活動が控えており、そのために日本への帰国をすぐには果たすことができませんでした。結局、帰国が実現するのはこの手紙を受け取ってから3年後のこととなります。
15年ぶりの帰国
1915年、野口英世は帝国学士院恩賜賞を受賞しましたが、彼自身はアメリカにいたため、恩師の血脇守之助先生に代理で受賞をしてもらいました。その直後、英世はかつての同僚である石塚三郎から母シカの写真と帰国を促す手紙を受け取ります。写真に写る年老いた母の姿に驚いた英世は、直ちに帰国を決心し、15年ぶりに日本へ戻ることにしました。
帰国後の約2ヶ月間、野口英世は講演や歓迎行事で忙しい日々を送りましたが、その間に母や恩師を伴い、東京や関西などで旅行を楽しむことで孝行をしました。この帰国は、野口英世にとって家族との再会と、故郷での功績を祝う機会となったのです。
黄熱病の研究のために再び海外へ
つかの間の帰国を終えた後、1915年に野口英世は再びアメリカへ渡り、研究を続けました。1917年には腸チフスにかかり、一時は生死の境をさまよいましたが、回復後は妻メリーとともにニューヨーク州シャンデーケンの山荘で静養しました。この期間中にロックフェラー財団から、南アメリカで蔓延していた黄熱病の研究班に加わるよう要請され、英世はこれを受け入れました。
英世はエクアドルに赴き、到着後わずか9日目に黄熱病の病原体を発見しました。彼はその成果をもとに血清とワクチンを開発し、多くの命を救うことに成功しました。この功績により現地から大きな感謝を受けましたが、一部の研究者からはこの病原体の発見に対して疑問を抱かれることもありました。このように、野口英世は研究者として世界的な影響を持つ活動を展開し続けたのです。
野口英世の死因
野口英世は1928年黄熱病で亡くなったと言われています。野口英世は、ロックフェラー医学研究所の一員として黄熱病の研究に携わっていました。1927年、アフリカのナイジェリアで黄熱病研究を行っていた同僚のストークスがこの病気で亡くなったという悲報を受け、野口英世はアフリカに渡る決断をします。彼は周囲の反対を押し切り、アフリカのアクラに赴きました。
現地での研究では、400匹以上の実験用のサルを使って黄熱病の病原体の研究を行い、当初の3ヶ月の予定を6ヶ月に延長して研究を続けました。原因究明に目途をつけ、帰国しようとした矢先のことでした。野口英世自身が黄熱病に感染し、感染から10日目に亡くなりました。
ただし、野口英世の死については疑問が残る部分があります。彼が亡くなった時、彼がいたガーナのアクラでは黄熱病は流行していなかったため、感染の経路が不明です。一部では、野口が研究中に猿を扱っている際に注射針を誤って自身に刺したり、解剖中にメスで手を切ってしまったりした「事故」によって感染した可能性が指摘されています。
また、野口は以前に黄熱病に感染して治癒した経験があり、そのために終生免疫があると考えられていましたが、彼の突然の重篤化と死はその説を疑わせます。彼の最期の言葉「どうも私にはわからない」という発言も、彼自身がその状況を理解できずにいたことを示しています。そのため以前研究していた梅毒や故意に黄熱病の病原菌を注射された他殺説も上がっているのです。
野口英世の性格
野口英世は途方もない努力家であり、圧倒的な情熱に満ち溢れていることが特徴です。野口英世は生涯を通じて幼いころに負った重い火傷という大きなハンディキャップを抱えていました。左手に深刻なダメージを受けながらも、医師になる夢を掲げ彼は決して挫けることなく、猛勉強を重ね医師の道へと進みました。野口英世は、「誰よりも三倍、四倍、五倍勉強する者、それが天才だ」という名言を残しています。その言葉は全く嘘ではなく、常人では考えられないほどの猛勉強を重ねていたと言われています。
野口英世のその圧倒的な情熱と努力は勉強だけではなく、研究でも活きました。野口英世の研究スタイルは極めて集中的で、研究が進むにつれて、寝る時間や食事の時間さえ惜しんで研究に没頭していたといいます。野口英世は「ナポレオンにできたのだから、私も必ずできる」と宣言し、1日わずか3時間の睡眠で過ごすこともしばしばでした。海外での彼の働きぶりは、研究室で「日本人は眠らないのではないか」と言われるほどであり、国際的な同僚たちもその勤勉さに驚愕しました。
野口英世の生きざまは、何事も成し遂げるためには圧倒的な情熱と努力が不可欠であることを我々に教えています。彼の遺した言葉や業績は、今もなお多くの科学者や学生にインスピレーションを与え続けています。
野口英世のエピソード
それでは最後に野口英世のエピソードを見ていきましょう。野口英世も様々なエピソードがあるので必見です!
学費をすべて女遊びに使ってしまった借金王
野口英世は研究業績と圧倒的な努力家として高く評価されていますが、そうした世間の印象からは全く想像つかないトラブルも抱えていたのです。東京での進学期には清作と呼ばれていた彼は、学費を工面するために借金をしていましたが、驚くべきことにその金を女遊びに使ってしまったとされています。
この行動は当時の周囲の人々を呆れさせるほどで、彼自身もこのままでは医師としての未来が危ういことに気づきました。この危機的状況を打開するため、彼は自身の恩師である血脇守之助に相談を持ちかけます。血脇自身は経済的に余裕があるわけではなかったため、清作は血脇に院長への賃上げ交渉を提案し、成功した場合の増額分から援助を受けるよう仕向けました。
この提案は成功し、血脇が賃上げを実現させたことで、清作は必要な資金を得ることができました。血脇は「きみのおかげで昇給できた」と礼を述べたものの、彼の胸中は複雑だったことでしょう。
野口「英世」へ改名した経緯
野口英世が「清作」から「英世」へと改名した背景には、とてもユニークなエピソードがあります。当時、人気作家の坪内逍遥による小説に「野々口精作」という、素行の悪い医学生が登場していました。この登場人物は医学生でありながら遊郭に頻繁に出入りし、借金を重ねるという設定で、名前が野口清作と似ていることから、野口英世は自分がこの小説のモデルと誤解されることを懸念しました。
この事態を回避するため、野口は独創的な策を用いました。彼の故郷には別の「野口家」が存在し、そこに彼が「清作」と名乗ることを提案し、養子として迎え入れてもらいました。その結果、同じ集落に「野口清作」と名乗る二人が存在することになり、これを理由に野口は自分の名前を変える必要があると役所に申し出ました。
このなんとも巧妙な手法により、役所は彼の名前変更を認め、「野口英世」への改名が正式に認可されました。頭が回り、しかもそれで役所に名前の変更を認めさせるくらい口も達者であったことがうかがえます。
留学費用をすべて女遊びに使ってしまい、結婚詐欺で費用捻出
野口英世は、アメリカ留学を決意したものの、再び資金不足に直面しました。この時、彼は中国での仕事を通じて得たかなりの給料を再び女と酒で溶かしてしまい、渡米のための費用が不足していたのです。
この困難な状況を解決するために野口は、斉藤ます子という医者を目指す女性と知り合い、結婚を申し込みます。ます子から受け取った結婚の持参金を渡米資金に充て、野口はアメリカへと渡りました。アメリカでは彼は蛇の毒に関する研究で高い評価を受けるものの、日本に残したます子からは結婚を急かす手紙が届き続けました。
野口英世はます子との婚約を解消することを望んでいたようで、彼女の外見や学力や意欲をこき下ろすような内容の手紙を送りつけるなどして婚約関係の破談を促しました。最終的には、常に彼を支えてくれた恩師、血脇守之助が再び介入し、持参金を肩代わりする形で問題を解決しました。
意外と低身長だった
野口英世は、研究功績で広く知られていますが、彼の身体的特徴についてはあまり注目されていません。実は野口英世も、歴史上の多くの偉人と同様に、意外と小柄な人物でした。彼の身長は153cmと記録されており、靴のサイズは23cmであったとされます。この小柄な体格は、彼の日常生活の一コマにも影響を与えていたようです。例えば、夫婦喧嘩の際には奥さんに投げ飛ばされたこともあったという逸話が残っています。
エジソンとも知り合い!?
野口英世は、その医学的業績だけでなく、海外の著名な人物との交流も広く持っていたことで知られています。彼の国際的な交友関係は、彼の影響力が科学の世界を超えていたことを示しています。
特に記憶に残るのは、発明家トーマス・エジソンとの交友です。エジソンは野口に対し、「成功しない人がいるとしたら、それは考えることと、努力すること、この2つをやらないからではないだろうか」という励ましのメッセージを残しています。この言葉は、両者が共有していた努力と継続の精神を反映しており、互いに成功への道を切り拓いた同志としての尊敬の念を示しています。
また、野口英世は冒険家であり、飛行家のチャールズ・リンドバーグとも親交がありました。リンドバーグは、世界初の単独無着陸大西洋横断飛行を成功させた人物で、野口とは異なる分野での挑戦者でありながらも、冒険と発見において共鳴する点が多くありました。二人の交流は、写真に残された一瞬にも捉えられており、異分野でも互いに影響を与え合っていたことが伺えます。
1000円札の顔になったわけ
野口英世が1000円札の肖像に選ばれた理由には、いくつかの要因があります。まず、日本銀行券の肖像としては初めての科学者としての採用であり、その学術的業績が評価されました。さらに、野口英世は教科書にも登場するなど、日本国内での知名度が非常に高い文化人であるため、その人物像が国民に広く認識されています。彼の生涯における情熱や努力が、国民に大きな影響を与えることが期待されたからです。
また、野口英世の時代の日本は極度の貧困に苦しんでおり、彼自身は個人的な富を追求するよりも、研究を通じて日本だけでなく世界全体を改善しようとする姿勢が高く評価されました。このようないくつかの背景が重なって、彼を1000円札の顔として選ばれたのです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は野口英世についてみてきました。幼少期に負った左手の傷というハンディキャップをものともせず自らの努力と情熱で人生を切り開いていく姿勢は今の日本人も見習わなければならない部分ですし、日本が世界に誇ることができる偉人です。一方で、お金と女性にだらしなかった部分は意外な一面でした。
本サイトでは野口英世以外にも様々な日本の歴史や文化を紹介しています。興味ある方はぜひ他の記事も読んでいただけると嬉しいです!
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