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樋口一葉は何した人か簡単な年表、死因や性格やエピソードを紹介!

皆さん、樋口一葉のこと、どれくらいご存じでしょうか。5000円札の顔となっており、生活になじみ深い人物ですが、具体的にどんなことをした人物七日までご存じの方はそこまで多くはないかと思います。若くして父の借金を背負い厳しい生活苦の中、自分の小説の才能一つで家族を支え生活を切り開こうとしてきたその生き様には学ぶべきものがあります。また彼女が描いた作品には貧困やジェンダーの問題など社会問題をテーマとしており学ぶべき内容が多いのです。今回はそんな以外と知らない樋口一葉について見ていきます。

樋口一葉は何した人?

(画像引用: 近代日本人の肖像)

樋口一葉は東京都出身の日本の小説家で近代日本文学において重要な役割を果たし、特に女性作家としての地位を確立しました。生涯にわたる戸籍名は「奈津」でしたが、彼女自身は「夏子」「夏」「なつ」と名乗ることが多かったです。

一葉は中島歌子から和歌や古典文学を学び、半井桃水には小説の技術を習得しました。生活が非常に困窮していた中で、彼女は『たけくらべ』、『にごりえ』、『十三夜』といった秀逸な作品をたった1年半の間に発表し、文壇から高い評価を受けました。これらの作品は、日本の近代文学史において重要な位置を占めています。彼女の才能は、24歳で結核により早逝するまでの短い期間に集中していましたが、没後に公開された『一葉日記』も高く評価されています。

樋口一葉は、女性が小説の執筆だけで生計を立てるという、当時としては非常に困難な道を選びました。『一葉の四季』の著者、森まゆみは彼女の決心を「日本史上初の無謀な決心」と位置付けています。彼女の作品や生き方は、ジェンダーや貧困といった現代にも通じる問題を反映しています。

一葉の家庭は没落していく中で、彼女自身は士族出身という誇りを持ち続けましたが、それが生計を立てる上での障害ともなっていました。彼女が開いた吉原近くの雑貨店での生活経験は、彼女の作品に大きな影響を与えており、井原西鶴風の雅俗折衷の文体で、明治期の女性の立ち振る舞いや悲哀を生き生きと描写しています。また、『たけくらべ』などの作品では、少年少女の心情を情緒豊かに描いています。

樋口一葉の日記は、さまざまな題名で記されており、その文学的価値も高く評価されています。彼女はわずか24年の生涯でしたが、その短い間に日本文学に不朽の足跡を残しています。

樋口一葉の簡単な年表

出来事
1872年東京都の東京府庁構内官舎で次女として誕生。
1877年4歳で小学校に入学するも、幼齢のために退学。その後私立吉川学校、青海学校で学ぶ。
1883年青海学校を首席で卒業。
1886年中島歌子の歌塾・萩の舎に入門。
1888年父と兄の死により、家督を相続。
1889年小説を書き始める。
1891年日記「若葉かげ」を書き始める。半井桃水に師事する。
1892年処女作「闇桜」が『武蔵野』に掲載される。半井桃水との師弟関係を解消。
野尻理作の求めにより「甲陽新報」へ「経つくえ」を寄稿。
「うもれ木」が『都の花』に掲載。
1893年「暁月夜」が『都の花』に掲載。
荒物・駄菓子店を営む。
1894年「花ごもり」、「大つごもり」が『文学界』に掲載。
1895年「ゆく雲」が『太陽』に掲載。
「にごりえ」が『文芸倶楽部』に掲載。
「たけくらべ」が『文学界』に掲載。
1896年森鴎外・幸田露伴に「たけくらべ」が絶賛。
1896年結核が悪化して逝去

青海学校を首席で卒業

(画像引用: matomake)

樋口一葉は1872年5月2日、東京府の官舎で生まれました。一葉は利発な子供で、早くから言葉を覚え、読書が大好きでした。特に、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』をたった3日で読み終えたほどです。小学校に入学しましたが、幼いためにすぐに退学し、その後、私立吉川学校に転校しました。

家族には一葉より上に姉と兄がおり、弟や妹もいました。一葉が11歳の時、家族は下谷区御徒町に移り住み、そこで一葉は私立青海学校に転校しました。この学校で和歌を学び、高等科を首席で卒業しましたが、更なる進学はしませんでした。その理由は、当時の社会では女性に高等教育が必要ないとされていたからです。特に一葉の母、多喜は女性の学問を重視していませんでした。そのため、一葉は学校を卒業後、家庭に専念することとなりました。

「萩の舎」に入門

樋口一葉が「萩の舎」という歌塾に入門したのは1886年で、父親の友人である医師の遠田澄庵の紹介によるものでした。この歌塾は、当時の公家や旧大名、明治政府の高官の夫人や娘たちが集まる場で、社会的地位が高い人々が通う場所でした。入塾してからの一葉は、和歌のみならず千蔭流の書や王朝文学も学び、その文学的才能を磨いていきました。

塾では、身分の低い下級役人の娘である一葉は、同じような境遇の伊東夏子や田中みの子と友人になり、「平民三人組」と呼ばれました。入門後の初めての新春発会では、他の令嬢たちの間で着物についての話題が盛り上がる中、一葉は借りた古着で出席しましたが、その歌会で最高点を獲得するなど、彼女の才能が認められる場面もありました。

また、佐佐木信綱は回想録『明治大正昭和の人々』で一葉が歌塾の活動にどれだけ熱心に取り組んでいたかを詳細に記述しています。一葉は、歌会の清書や準備を積極的に手伝い、その姿勢が他の参加者からも評価されたとされます。

しかし、歌塾での活動が進むにつれて、一葉は周囲との格差を強く感じ、次第に内向的な性格へと変わっていきました。田辺花圃との出会いもその一例で、初めて会った時、一葉が給仕をしながら詩を口ずさむ姿を見て花圃は驚きました。その後、花圃は一葉の才能を認め、二人は親しい関係になり、後に「萩の舎の二才媛」と称されるほどになりました。一葉の才能は際立っていたものの、彼女は「ものつつみの君」と呼ばれるほど控えめな人物になっていったのです。

父と兄の死により、家督を相続

樋口一葉の家庭は、彼女が17歳の時に大きな試練に直面しました。まず、彼女の兄・泉太郎が肺結核で亡くなり、続いて父・則義も事業の失敗と負債を抱えた末に亡くなりました。これにより一葉は若くして樋口家の戸主となり、家族の生計を一手に引き受けることになりました。

一葉には渋谷三郎という許婚がいましたが、父の死後、渋谷の経済的な要求が原因で婚約は解消されました。渋谷はその後高等文官試験に合格し、一葉との復縁を望みましたが、一葉の母・多喜はこれを拒否しました。

家族の中では、次男の虎之助も頼りにされましたが、彼と母の間には不和がありました。結局、一葉は萩の舎の中島家に内弟子として住み込むことになりましたが、女中のような仕事をさせられ、5か月で辞めることになりました。

その後、家賃の安い本郷菊坂に引っ越し、母と妹とともに針仕事や洗い張り、下駄の製作などの賃仕事で生計を立てようとしましたが、それだけでは足りず、しばしば借金を繰り返す苦しい生活を送ることになりました。

小説家へ

樋口一葉が小説家としての活動を本格的に開始したのは、姉弟子の田辺花園が『薮の鶯』を出版して成功を収めたことに触発された明治22年頃からです。一葉は当時、家計を支えるための針仕事による頭痛や肩こりに悩まされており、文学活動が新たな収入源となる可能性に希望を見出しました。

1891年、一葉は20歳で小説の習作『かれ尾花』を執筆し、文学界でのキャリアをスタートさせます。さらに、同年4月には妹の友人の紹介で『東京朝日新聞』の専属作家である半井桃水を訪ね、師事することになりました。一葉の才能を認めた半井は、彼女を文学雑誌『武蔵野』の創刊号に参加させ、一葉は「一葉」の筆名で『闇桜』を発表しました。しかし、東京朝日新聞への投稿が採用されなかったことにより、一葉は大きな落胆を経験します。

一葉と半井の師弟関係は、周囲からの醜聞により悪化し、絶交に至りました。この影響で、一葉は上野図書館で独学を続け、文学的な探求を深めます。田辺花園の助けを借りて、一葉は雑誌『都之花』に『うもれ木』を発表し、初めての原稿料として11円50銭を受け取ります。この収入の一部は、借金の返済に充てられました。

奇跡の14か月

(画像引用: rekisiru)

樋口一葉は、明治26年(1893年)に生活苦から吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町で駄菓子と荒物を売る雑貨店を開店しました。この経験は、彼女の後の代表作『たけくらべ』の題材となり、文学活動への道を切り開くきっかけともなりました。店を開店していた期間は短く、1894年(明治27年)5月には店を閉じて、本郷区丸山福山町に転居しました。この時期には、萩の舎との交渉により少額の助教料を得ていました。

1895年(明治28年)から始まる14ヶ月間は、一葉の文学活動にとって「奇跡の14ヶ月」と称されるほどの充実した期間でした。この年には、博文館の大橋乙羽の紹介により『文藝倶楽部』や『太陽』などの出版物への寄稿が増加しました。大橋乙羽夫妻は一葉に経済的支援を提供し、一葉も大橋ときから和歌を学びました。この支援は一葉の文学活動を安定させ、創作の場を広げる助けとなりました。

この期間に一葉は、『たけくらべ』を始め、『ゆく雲』、『経つくえ』、『にごりえ』、『十三夜』などの作品を次々に発表しました。これらの作品は高く評価され、特に『たけくらべ』は1896年(明治29年)に『文藝倶楽部』で一括掲載され、森鷗外や幸田露伴などの同時代の文人から高い評価を受けました。

一葉の家はこの期間、文学サロンのような場となり、馬場孤蝶や島崎藤村、斎藤緑雨といった著名な文筆家が頻繁に訪れました。生活は依然として困窮していましたが、一葉はこれらの訪問者を歓迎し、鰻や寿司を取り寄せてもてなしていました。樋口一葉が小説家として活躍したのは実はこの14か月間であり、その短い間に名作品を次々と生み出したことから、「奇跡の14か月」と呼ばれています。

樋口一葉の死因

樋口一葉は若くして結核により亡くなりました。彼女の病状は肺結核が進行しており、治療法が十分に確立されていない時代であったため、回復は困難でした。1896年8月には、一葉の病を心配した斎藤緑雨が、友人であり医者でもある森鷗外に相談しました。森鷗外は、当時の一流とされる医師たち、樫村清徳と青山胤通に一葉の往診を依頼しましたが、これらの医師も一葉の恢復が絶望的であるとの診断を下しました。

同年11月23日、樋口一葉は東京都文京区の自宅、丸山福山町で24歳と6か月の若さで死去しました。彼女の葬儀は11月25日に東京築地本願寺で行われ、親族のみが参列しました。森鷗外も葬儀に参列を希望しましたが、彼の地位にふさわしい正装での参列を一葉の母・多喜や妹・くにに丁寧に断られたとされています。一葉の死は、当時の文学界にとって大きな損失であり、彼女の早逝は多くの人々に惜しまれました。

樋口一葉の作品の社会的意義

樋口一葉の作品は女性の厳しい現実をリアルに描写しています。彼女の代表作には、買売春、ストーカー、家庭内暴力(DV)などの重たいテーマが取り上げられ、それらが今日の社会問題としてもなお重要なテーマ性を持つことを示しています。

『たけくらべ』では、美登利という14歳の少女が遊郭で娼妓になる運命に直面する様子が叙情的かつ冷徹に描かれます。この小説は、美登利がまだ自由な子どもであった時期の残酷な現実と、彼女の運命が周囲の子どもたちや社会によってどのように踏みにじられるかを描いています。

『にごりえ』では、お力という酌婦の孤独と苦悩が中心です。彼女は過去に身を持ち崩した元恋人、源七と別れ、新たな生活を試みていましたが、彼によって最終的に命を落とすという衝撃的な結末を迎えます。この作品は、ストーカー行為とその破壊的な影響を描いています。

『十三夜』では、美しい女性が官僚の夫によって家庭内で暴力を受け続ける様子が描かれています。彼女は夫からの逃れを願いつつも、社会的・法的制約により解決が困難であることを示しています。この物語は、DVという深刻な問題を通じて、女性が直面する様々な困難を描き出しています。

樋口一葉のこれらの作品は、彼女が亡くなってから長い時間が経過しているにもかかわらず、現代の視点からも深い共感を呼び、読者に強い印象を与えています。彼女の文学は、読者が何度も読み返し、登場人物の心情や物語の細部を想像することで、さらに理解が深まる作品群として評価されています。このように、樋口一葉の作品群はその時代を超えて、普遍的な人間ドラマとして現代にも通じるメッセージを持ち続けているのです。

樋口一葉の性格

(画像引用: note)

樋口一葉は、多面的で複雑な性格の持ち主でした。彼女の人物像を形作るのは、その繊細で内向的な性格、高い自尊心、そして目的を達成するためのしたたかさです。

若い頃の一葉は、周囲とは異なる低い身分から来るコンプレックスを抱えており、「萩の舎」での生活では自分の感情や考えを隠す傾向にありました。彼女は決して他人の悪口を言わず、自身の感情を抑えることが多かったです。このような彼女の性格から、「物つつみの君」というあだ名がつけられました。これは彼女が自分の本心を隠していることを意味します。また一葉は周囲の上流階級の女性たちと比較して自分を卑下することもあり、彼女の内面には繊細さと屈折した感情が同居していました。一葉の友人である伊東夏子によれば、一葉は常に何かを我慢しているような人だったと言います。

恋愛においても一葉の複雑な性格が見られます。彼女は小説の師であった半井桃水と深い恋愛関係にありましたが、周囲の噂に耐えかねて絶交するという決断をします。この出来事は、彼女の高いプライドと自意識の強さを示しています。また経済的な困窣から占い師の久佐賀義孝に接近し、女を武器にして借金を申し入れるなど、生活を支えるためには手段を選ばない一面もありました。久佐賀からの進展する関係の申し出に対して、一葉は日記で彼を痛烈に批判していますが、これは彼女が自分の状況を利用して相手を操作する冷静さと計算高さを持っていたことを示しています。

樋口一葉の性格が反映されている名言もたくさんあります。樋口一葉の名言に興味ある方はこちらの記事を読んでみてください!

樋口一葉のエピソード

それでは最後に樋口一葉のエピソードを見ていきましょう。樋口一葉も様々なエピソードがあるので必見です!

父の借金と婚約の破断

樋口一葉の人生は、家庭が比較的裕福であったものの、彼女が17歳の時に大きな転機を迎えます。彼女の父は高利貸しの仕事をしていたため、元々は安定した経済状況にありましたが、父が亡くなると同時に、失敗した事業からの多額の借金が明らかになります。一葉の兄たちはすでに勘当されていたため、家督と借金の両方を一葉が引き継ぐことになりました。

当時の社会では、女性が学ぶことや成功することは容易ではなく、一葉は生計を立てるために針仕事などの内職に励みましたが、生活は次第に困難を極めていきます。家財を質に入れることもしばしばありましたが、借金は増える一方で、家計はさらに窮地に追い込まれました。

また、一葉には阪本三郎という婚約者がいましたが、彼は学生時代に法律を学んでおり、一葉の父が存命中は結婚が期待されていました。しかし、父の死後、一葉の母との間に折り合いがつかず、この縁談も解消されてしまいます。阪本は後に早稲田専門学校の校長や秋田県知事、山梨県知事として成功しますが、一葉との結婚が実現していれば、彼女の人生も異なった展開を見せた可能性があったのです。

夏目漱石の兄と縁談

(画像引用: じんぶん堂)

樋口一葉の人生には、夏目漱石の兄との縁談が持ち上がったことがありました。しかし、この縁談は漱石の父親の意向により破談となりました。一葉の父と漱石の父は、かつて上司と部下の関係にありましたが、一葉の父がしばしば漱石の父に借金を申し込んでいたことが背景にあります。漱石の父は、「単に上司であるだけで金銭を要求されるのに、親戚になればさらに多くの要求をされるかもしれない」と懸念し、そのために縁談を断ったとされています。

師匠 半井桃水との恋愛スキャンダル

樋口一葉は、小説家としてのキャリアをスタートさせる過程で、師匠である半井桃水と複雑な関係に陥りました。半井桃水は一葉より約10歳年上の経験豊かな小説家で、記者や茶屋の経営も行っていた人物です。一葉が小説家として成功するための指導者を探していたときに、知人を通じて桃水と出会い、彼の門下に入ることになりました。

一葉は桃水に会った瞬間から彼に強く惹かれ、彼の色白で穏やかな外見に一目惚れしました。一葉は桃水の容貌を非常に高く評価し、「3歳の子どもでもなついてしまいそう」と表現しています。しかし、桃水自身は一葉に対してそれほど魅力を感じていなかったようで、彼は一葉の印象を「みすぼらしい少女」と表現しています。

関係の進展において、桃水は一葉の恋心を知りつつも、「同性の友人のように付き合いましょう」という曖昧な態度を取りました。このことが一葉を苦しめる原因となりました。さらに、桃水の周りには女性関係に関するよくない噂が流れており、これも一葉の悩みの種となりました。

またある日、桃水が一葉に自宅に泊まるよう勧めた際、彼女はその誘いを断りましたが、彼に対する感情には複雑な心境を抱いていたことを彼女の日記に残しています。

しかしその後の展開で一葉の耳に桃水が彼女のことを「自分の妻や妾」と周囲に言いふらしているという噂が届きます。桃水との関係に疲れ果て、噂によって一葉の評判が落ちることを恐れた彼女は、最終的には桃水との関係を断ち切る決断をします。この出来事が彼女の文学活動に新たな転機をもたらし、その後は自宅に斎藤緑雨や島崎藤村など著名な文人が訪れるようになり、小説家として名声を確立していきます。樋口一葉は桃水との関係を断った後、創作活動に専念し、作家としての地位を固めたのです。

「樋口一葉」というペンネーム

樋口一葉のペンネームの由来は、彼女の困窮した生活状況と関連しています。このペンネームは、インドの達磨大師が一枚の葉に乗って中国へ渡ったという伝説にちなんでいます。一葉自身がこの伝説を引用し、「私にもお足(銭)がない」と冗談めかして友人に語ったことから、その名をペンネームとして採用したとされています。この話は、彼女が経済的に非常に苦しい状況にあったことを示すとともに、彼女のユーモアのセンスや、逆境に立ち向かう強い意志を反映しています。一葉はこのペンネームを用いて、同じく困難な生活を送る人々のリアルな生活や感情を描き出し、多くの読者に共感を呼び起こしたのです。

なぜお札の顔に起用されたのか

樋口一葉が5000円札の顔に選ばれた背景には、彼女の作品と生き方が現代社会における重要なテーマ、特にジェンダー問題や貧困といった問題を反映していることが大きく影響しています。一葉は明治時代に活動した女性作家であり、その時代において女性の社会進出は非常に限られていました。しかし、一葉はその困難を乗り越え、数々の評価される文学作品を残しました。彼女の作品は、女性の苦悩や社会的制約に焦点を当て、多くの共感を呼んでいます。日ごろ活用するお札に載せることで、こうした社会問題を人々の頭から忘れさせないようにしようという背景もあったのかもしれません。

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回は樋口一葉について見ていきました。貧困の中でも小説の力で生活を切り開き超一流小説家の仲間入りを果たした樋口一葉の生き様が伝わったかと思います。また樋口一葉の生き方は女性の社会進出の先駆けにもなり、彼女が描いた作品で扱っている社会問題は私たちが今も解決していかなくてはならない問題でもあり、私たちが本来社会とはどうあるべきなのかを見つめなおすきっかけを与えてくれた人物でもあります。

本サイトでは樋口一葉以外にも様々な日本の面白い文化や歴史を紹介しています。興味ある方はぜひ、他も記事も読んでいただけると嬉しいです!

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