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皆さん、西郷隆盛についてどれくらいご存じでしょうか。幕末に活躍した薩摩藩の豪傑で「せごどん」という大河ドラマにもなったので名前を聞いたことある方は多いかもしれませんが、一体どんなことをした人物なのでしょうか。
薩長同盟を結んだり、江戸城の無血開城に貢献したり、明治政府の立ち上げに参画しつつも、最後は政府に歯向かう西南戦争を起こしたりとエピソードが絶えない人物です。今回はそんな西郷隆盛について紹介していきます。
西郷隆盛は何した人?
西郷隆盛は、幕末から明治維新にかけて日本の変革に大きな影響を与えた薩摩藩の志士です。もともと下級藩士の家に生まれましたが、薩摩藩の11代藩主である島津斉彬にその才能を見出され、次第に頭角を現しました。西郷は斉彬から信頼され、水戸藩の藩主などに密書を届ける重要な任務を任されるまでに成長しました。しかし、斉彬の死後、薩摩藩の実権を握る島津久光と対立し、流刑に処されるなど、不遇な扱いを受けました。
その後、西郷は倒幕を決意し、長州藩と薩長同盟を結び、幕府との戦いにおいて重要な役割を果たしました。特に、江戸幕府側の勝海舟との会談により、江戸無血開城を成功させたことは大きな功績です。これにより、大きな流血を避けながら幕府を倒すことができました。
明治政府の成立後も、西郷は日本の近代化を進めるために積極的に国政に関わりました。しかし、政府内部の分裂が原因で起こった政変により、官職を辞して鹿児島に戻ることになりました。その後、明治政府に不満を持つ九州の士族たちに擁立され、西南戦争を起こしましたが、最終的には敗北し、賊将として非業の死を遂げました。
西郷隆盛はその生涯を通じて、日本の変革と近代化に大きく寄与した人物として、今も多くの人々に記憶されています。彼の行動と信念は、日本の歴史において重要な一ページを刻んでいます。
西郷隆盛の年表
それでは西郷隆盛が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。
年 | 出来事 |
1828年 | 薩摩国(今の鹿児島県)下加治屋に藩士西郷吉兵衛の長男として誕生。幼名は小吉だった。 |
1839年 | 友人と争った際に右ひじを負傷。子の怪我により武術より、学問に励むようになる。 |
1844年 | 藩の郡方書役助となり、郡奉行・迫田太次右衛門利済の配下になった。 |
1850年 | 農政改革にまつわる建白書を、薩摩藩主・島津斉彬に提出。 |
1854年 | 島津斉彬の参勤交代に随行して江戸を訪れ、御庭方役に抜擢。 水戸藩士であり儒学者の藤田東湖を訪ね、国事について教えを受ける。 |
1858年 | 主君・島津斉彬が急死。失脚した西郷隆盛は、奄美大島へ配流。 |
1862年 | 薩摩へ帰還も、藩政の実権を握っていた島津久光の命令に背いたため、沖永良部島に配流。 |
1864年 | 薩摩に戻り、禁門の変で薩摩軍を指揮し、長州藩の軍勢を破る。 |
1866年 | 坂本龍馬らの仲介で、薩摩藩と長州藩が薩長同盟を締結。 |
1867年 | 明治新政府の参与に就任。 |
1868年 | 江戸幕府の勝海舟と交渉して、江戸城の無血開城を実現。 |
1871年 | 薩摩へ帰郷し、参議の座に就いて新政府への復職。岩倉使節団が欧米へ視察している間、留守政府を任される。 |
1873年 | 朝鮮への使節派遣が中止となり、自ら朝鮮に赴くことを提案していた西郷隆盛は辞表を提出し鹿児島へ帰還。 |
1874年 | 私学校を設立して教育普及に専念。明治政府より、国政への復帰を要請されるが拒否。 |
1877年 | 西南戦争が勃発し政府へ対抗するも、破れて城山にて自決。 |
農政改革の建白書を島津斉彬へ提出
西郷隆盛は18歳で薩摩藩の藩庁に出仕し、農政を担当する部署で年貢徴収の記録係として10年間働きました。当時、薩摩藩では調所広郷の財政改革が行われており、厳しい農政が実施されていました。この経験は、西郷にとって非常に貴重であり、彼の個性と思想を形成する重要な時期となりました。
この厳しい農政に携わる中で、西郷は農民たちの悲惨な生活に心を痛めていました。農民たちの暮らしを改善したいという強い思いから、西郷は藩主に対して農政に関する意見書を提出することを決意しました。彼は10年間にわたり、農政に関する建白書を提出し続けました。
また島津斉彬が薩摩藩の藩主となりました。斉彬は洋学に造詣が深く、開明的な考えを持ち、近代産業の導入や軍備の強化の必要性を痛感している人物でした。彼は慎重でありながらも果断な藩政改革を進めていました。
西郷は新しい藩主である斉彬に深く傾倒し、農民たちの暮らしを救いたい一心で、引き続き農政に関する意見書を提出しました。その努力の結果、斉彬は西郷の名前を記憶するようになりました。こうして、西郷は斉彬の目に留まり、その才能を見出されることとなりました。
西郷隆盛と藤田東湖
1854年、西郷隆盛は藤田東湖に会いました。この時、東湖は西郷に対し、日本の政治情勢について重要な洞察を語りました。東湖は、徳川幕府が外交交渉において天皇の勅許を求めることが、外国から見て疑問視され始めていると指摘しました。これは、幕府が日本の主権を完全に握っていないことを示し、実際の権力は天皇にあるのではないかという見方が強まっているというのです。
東湖は、この状況に対する解決策として、徳川幕府に見切りをつけ、天皇を中心とした新しい連合政府を樹立することを提案しました。そして、その主導者として最も適任なのが、西郷の主人である薩摩藩主の島津斉彬であると説きました。この意見を聞いた西郷は驚愕しました。東湖の発言は、公然と徳川幕府に対する反乱をそそのかすものであり、西郷は一目で東湖を「まるで山賊の親分だ」と感じるほどでした。しかし、その大胆な発言に西郷は深く感動しました。
西郷は、この会話を通じて自分の視野が狭かったことに気づきました。彼はそれまで薩摩藩という小さな世界に閉じこもっていましたが、東湖の言葉を聞いて、初めて日本全体や世界の情勢を視野に入れるようになりました。この経験は、西郷が薩摩藩の一藩士から、日本の未来を見据える志士へと成長するきっかけとなりました。
藤田東湖は、自らの思想を実現したいという強い願望を持っていましたが、それを実現するためには「天の時」「地の利」「人の和」という三条件が必要だと考えていました。東湖は、水戸徳川家にはこの三条件が揃っていないと判断していました。特に、徳川一門という立場が、徳川家に背くことを許さず、東湖の思想実現の大きな壁となっていました。そのため、彼は「尊皇敬幕」という曖昧な思想を掲げざるを得なかったのです。
島津斉彬の病死
1858年、西郷隆盛が深く慕っていた薩摩藩主の島津斉彬が病死しました。西郷はこの出来事に深い絶望を感じ、同年11月、志士と朝廷の仲介役として暗躍していた勤王僧の月照と共に錦江湾に漕ぎ出し、身を投げました。しかし、西郷だけが蘇生しました。この事実を隠すため、藩庁は西郷に大島への潜居を命じました。
薩摩へ帰還も島津久光の命令に背いたため、沖永良部島に配流される
1862年3月(文久2年2月)、薩摩藩内では大久保利通ら革新派の影響を受けた藩論が行われていました。島津久光は、故島津斉彬の遺志を継ぎ、武力を背景にして幕府に朝令を奉じさせ、幕政改革を実現しようと考えていました。これは、公武合体の考え方に基づくものでした。
この計画を進めるために、斉彬時代から公家や諸侯、藩士らと面識を持ち、交友を深めていた西郷隆盛が大島から呼び戻されました。西郷は久光が上京する前に、九州地方の情勢を視察し、下関で久光の到着を待つことになっていました。
しかし、西郷は討幕挙兵の計画を持つ過激派志士を説得するために大阪に向かいました。この行動が島津久光の激怒を招きました。西郷の行動が久光の計画に反すると見なされ、彼は厳しい罰として遠島の刑を受けることになりました。
禁門の変で薩摩軍を指揮
1862年9月、生麦村で生麦事件が発生しました。この事件は、薩摩藩士がイギリス人を殺傷したもので、翌年8月にはその報復として薩英戦争が勃発しました。薩摩藩はなんとかイギリス艦隊を追い払うことができましたが、この戦争を通じて攘夷の無謀さを痛感しました。
一方、京都では長州藩を中心とした急進的尊攘派と薩摩藩・会津藩の公武合体派が対立していました。薩摩藩は勢力を強化し、幕府を抑えて朝廷の権威を回復することを目指していました。このような情勢の中で、西郷隆盛を再び呼び戻す声が高まりました。1864年4月、西郷は鹿児島に戻り、数日後に上京しました。島津久光により軍賦役を命じられ、京都で薩摩藩を代表して活動することになりました。
その時期、長州藩を中心とした尊攘派の一部と、会津藩や桑名藩を中心とした幕府が組織した新選組が池田屋で衝突しました(池田屋の変、1864年7月、元治元年6月)。この事件の報を受けた長州藩は兵を率いて京都に上りました。幕府は薩摩藩に出兵を命じ、薩摩藩は撤兵を拒否する長州藩と戦うことになりました。西郷隆盛は薩摩藩を指揮し、長州藩を撃退しました。
留守政府と征韓論の失敗
1872年1月、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らが欧米への使節団として出発し、その間、西郷隆盛が留守政府の責任者として政権を預かることになりました。西郷は、使節団が出発する際に、許可なく人事や改革を行わないと約束させられていましたが、改革の流れは止まりませんでした。
留守政府は、銀行制度や貨幣制度の改革、地租改正、新しい徴兵制や学制などの新政策を次々に実施しました。これらはそれぞれが大規模な事業であり、西郷はその困難を一身に背負うことになりました。しかし、西郷政権の施策は士族たちの期待を裏切る結果となり、全国の不平士族からの不満が高まっていきました。
西郷は、この不満を解消するために朝鮮への出兵(征韓論)を提案し、その後に政府を改造して行き詰まった局面の打開を図ろうとしました。しかし、岩倉具視は、朝鮮に開国を勧め国交を回復する遣韓大使として西郷を派遣する閣議決定に反対し、天皇にその意見を上奏しました。明治6年10月、天皇は岩倉の意見を支持する裁決を下しました。
外遊から帰国した大久保利通や木戸孝允らは、外征よりも内治優先を主張し、西郷と対立しました。この結果、西郷、板垣退助、江藤新平、副島種臣ら征韓派の参議は辞表を提出し、政府を去ることになりました。征韓論の敗北は、活躍の場を失った不平士族たちを刺激し、明治7年1月には岩倉具視が襲撃され、続いて2月には佐賀の乱が発生しました。
内務卿である大久保利通は、反乱鎮定の全権を与えられ、約1か月で佐賀の乱を平定しました。この頃から大久保の存在が目立つようになり、彼は木戸孝允に代わって権力を握りました。明治7年、台湾出兵をめぐる対立から木戸が一時的に下野すると、大久保の専制が確立しました。征韓論争に敗れて下野した西郷は、明治6年11月に鹿児島に帰り、以後どこにも出仕しないと心に決めました。
私立学校の設立
1874年(明治7年)6月、西郷隆盛は旧鹿児島城(鶴丸城)内に「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」の三校を設立しました。これらの学校は、陸軍士官を養成する目的で設立されました。幼年学校は、明治維新に功績を挙げた者に与えられた賞典禄を利用して設立されたため、「賞典学校」とも呼ばれました。西郷は二千石、大久保利通は千八百石、大山綱良は八百石、桐野利秋は二百石を拠出して支援しました。
残りの二校の費用は、名前とは裏腹に県の予算から支出され、鹿児島県内各地に分校が設置されました。これらの学校の教務は主に漢文の素読と軍事教練に重点を置いていました。設立の真の目的は、不平士族の暴発を防ぐことにあり、入学できるのは元城下士出身の士族に限られていました。この取り組みは、西郷が士族たちの不満を抑え、彼らのエネルギーを建設的な方向に向けるためのものでした。
西南戦争の勃発
明治9年3月、廃刀令が出され、8月には秩禄処分により士族の経済的特権が廃止されました。これにより、士族たちは完全に特権を失い、各地で反乱が相次ぎました。10月には熊本で神風連の乱、続いて秋月の乱、萩の乱が発生しました。全国の士族は、西郷隆盛の挙兵を期待しましたが、西郷は慎重な姿勢を保っていました。
内務卿の大久保利通は、明治9年7月に大山綱良県令を上京させ、私学校派の県官の罷免を要求しましたが、大山はこれを拒否し、総辞職で対抗しました。政府は、明治10年1月下旬、陸海軍省の設置に伴い、鹿児島の火薬庫の武器・弾薬を徴収しようとしました。これに反発した私学校の一部急進派は火薬庫を襲撃し、武器・弾薬を奪いました。
この時、西郷は大隅半島の小根占に滞在しており、火薬庫襲撃の報を聞いて「しまった」と口走りました。また、大久保の命を受けた中原警部ら20名が捕らえられ、西郷暗殺の密命を帯びていたことを自白させられました。2月7日、西郷は大山県令に政府のやり方について上京問責の決意を告げ、2月15日、先鋒隊が大雪の中出発しました。
政府は熊本鎮台からの報告を受け、2月19日に征討の詔を発し、西南戦争が勃発しました。この戦争は、西郷隆盛と政府軍の間の激しい戦いの始まりでした。
西郷隆盛の死因
西郷隆盛の死因は、西南戦争での自決です。1877年2月20日、西南戦争にて西郷軍の先鋒隊は川尻に到着し、翌日から熊本城を包囲しました。薩軍約1万4千に対して鎮台軍約4千という戦力比で始まりましたが、九州各地から参加した士族を加えて、薩軍は約3万人に膨れ上がりました。熊本民権派や大分の民権派も参加しましたが、熊本城の防衛は予想外に強固で、西郷軍は攻めあぐねました。
その後、西郷軍は政府軍との激しい攻防を繰り広げましたが、次第に敗退を続けました。九州各地で戦線を立て直しながらも、敗走を余儀なくされ、最終的に鹿児島に戻りました。9月1日には鹿児島城山に追い詰められ、9月24日未明に政府軍の総攻撃を受けました。西郷は大腿部を撃たれ、別府晋介の介錯によって自決しました。
この戦争で政府が投じた戦費は4100万円、政府軍従軍者は約6万人、戦死者は6500人に上りました。西郷軍は約4万人で、その半数以上が死傷しました。西郷隆盛の「敬天愛人」の生涯はここに終わり、その夢も近代化の波に消え去りました。
西郷隆盛の性格
西郷隆盛は、自分が正しいと思えば誰に対しても率直に意見を述べる頑固な性格でした。このため、場の雰囲気を気にせずに意見を述べることが多く、周りから煙たがられることもありました。18歳から藩の役所で働きましたが、この性格のためか10年間昇進できなかったと言われています。また西郷には写真撮影を頑なに拒んだというエピソードもあります。暗殺のリスクを恐れたなど諸説ありますが、明治天皇への献上写真ですら断るほどの確固たる信念を持っていたようです。
西郷は「敬天愛人(けいてんあいじん)」という言葉を座右の銘としていました。これは「天を敬い、人を愛する」という意味で、彼の信念を象徴しています。西郷は身分や性別、年齢にかかわらず人を愛し、また多くの人から愛される人物でした。
西郷は愛犬家としても知られ、当時の日本人としては珍しく犬をペットとして飼っていました。上野公園の西郷像は、その愛犬を連れた姿が印象的です。また、西郷は大変甘いものが好きで、倒幕運動が一段落した後は運動不足から肥満と診断されていました。医師の勧めで、大好きな犬を連れて山へ行き、兎狩りを楽しむようになりました。上野公園の西郷像が連れている犬は、「ツン」という名の薩摩犬で、兎狩りのお供をしていました。
西郷隆盛のエピソード
それでは最後に西郷隆盛のエピソードを見ていきましょう。西郷隆盛も様々なエピソードがあるので必見です!
身長と体重がすごかった
本日の南日本新聞によると、西郷隆盛の身長は約178cmであり、当時の日本人男性の平均身長が155cmだったことから、西郷が非常に大柄であったことがわかりますさらに体重は110kg。現代人と比較しても重量感があります。興味深いことに、西郷隆盛だけでなく、薩摩藩出身の村田新八(180cm)、最後の薩摩藩主島津忠義(185cm)、大久保利通(175cm)も同様に背が高く、他の地域の人々よりも薩摩の人々は大柄でがっちりしていたようです。
薩摩藩が貧しいと言われることもありますが、主食がさつまいもで、白米は年に数えるほどしか食べられなかったため、白米が食べられなかったことを理由に貧しいとは言えません。さつまいもがあるおかげで飢えることはなく、温暖な気候と多くの物産に恵まれた鹿児島では、山の幸や海の幸にも恵まれていました。薩摩藩の人々の大柄な体格は、こうした豊かな自然の恵みと関係しているのかもしれません。
右腕を負傷
西郷隆盛は12歳のとき、他の郷中とのトラブルに巻き込まれ、右腕に深刻な怪我を負いました。相手が鞘に刺した日本刀で西郷を叩こうとした際、勢い余って鞘が抜け、刀が西郷の腕の神経を切ってしまったのです。この怪我により、西郷は高熱で三日間寝込み、右腕が使えなくなってしまいました。このため、西郷は刀を持つことができなくなり、学問で身を立てることを決心しました。この出来事が彼の人生における大きな転機となり、後の偉業へとつながっていったのです。
ぽっちゃりが好きだった
西郷隆盛にはぽっちゃり好きという噂があります。彼の恋のお相手は「豚姫」と称される大柄で恰幅の良い30歳前後の女性でした。色白で肌が美しく、酒を飲むと肌が火照って妖艶な雰囲気を漂わせていたそうです。
豚姫の正体については諸説ありますが、林真理子氏の小説「西郷どん」では祇園・奈良福の仲居「お虎」とされており、大河ドラマ「西郷どん」ではハリセンボンの近藤春奈さんがその役を演じました。豚姫はその恰幅の良さと優しさから、武士たちには意外とモテていました。
最初は豚姫が西郷を好きになり、西郷も明るくて面倒見の良い豚姫に惹かれていきました。西郷は女性の見た目ではなく、その人柄に惚れる性格でした。
しかし、倒幕運動の重要人物であった西郷は幕府軍に追われる身となり、2人は次第に会うことも難しくなりました。芳しくない状況に落ち込む西郷を見た豚姫は、「私は西郷さんが好き。だけど、奥さんになれるわけではないし、次にもう一度会えたら死んでもいい」と覚悟を伝えました。これを聞いた西郷は心中を提案しましたが、2人が心中しようとしたところを大久保利通が止めたと伝えられています。
大の犬好き
西郷隆盛は大の犬好きとして知られています。上野公園にある西郷隆盛の銅像は、愛犬「ツン」を連れてウサギ狩りに出かける姿を描いていますが、実際のツンはメス犬でした。像の犬が雄犬になっているのは、モデルとなった犬が薩摩出身の軍人、仁礼影範が飼っていた「サワ」という雄犬だったためです。
西郷は、倒幕運動が一段落した後、運動不足と甘いもの好きな食生活から肥満になり、ドイツ人医師ホフマンの指導で運動を始めました。彼はツンと一緒に山歩きをし、ウサギ狩りを楽しんでダイエットに成功しました。このエピソードから、上野公園の像はウサギ狩りの姿を描いていると言われています。
ツンは、1990年に鹿児島県の東郷町にある菅原神社(藤川天神)に単独の像が建てられています。
西郷はまた、西南戦争の際にも犬と共に出陣し、敗戦が濃くなると犬たちを逃がして助けたという話が残っています。彼の死後、犬たちは戦地で捕獲され、神戸まで運ばれたと当時の新聞で報じられています。
鹿児島に戻った西郷は、多くの犬を飼っていました。名前がわかるだけでも13匹の犬が存在しており、東京にいた頃も10匹以上の犬を飼っていたと言われています。彼の愛犬家ぶりは、犬に与える食事にも表れており、うなぎや鶏鍋などを食事として与えていたそうです。西南戦争の食料事情が厳しいときでも、自分の食事を犬に与えていたと伝えられています。
銅像が上野にある理由
東京都台東区の上野公園には、西郷隆盛の銅像が建てられています。この像が東京の上野に建てられた理由は、1868年の上野戦争に関係しています。
西郷隆盛は新政府軍を率いて、旧幕府軍の彰義隊が守る上野寛永寺(現在の上野公園)を攻めました。この戦いで、西郷は新政府軍を勝利に導きました。西郷の功績をたたえるために、1898年に上野公園に銅像が建てられ、除幕式が行われました。
この銅像は、イタリア人画家エドアルド・キヨッソーネの肖像画を基に、高村光雲によって制作されました。西郷隆盛の像は、その歴史的な功績と彼の影響力を記念するために、上野に建てられたのです。
フィラリア症
西郷隆盛は、約3年間奄美大島に流刑されていましたが1861年(文久元年)に呼び戻されましたが、新しい藩主の島津久光との折り合いが悪く、翌年再び沖永良部島に流されました。
沖永良部島での生活は過酷で、牢は風雨をしのげないほど粗末なものでした。この環境で、西郷はフィラリア症に感染しました。フィラリア症は蚊を媒介とする糸状の寄生虫が人のリンパ管やリンパ節に寄生し、象皮症や陰嚢水腫といった重い症状を引き起こす恐ろしい病気です。
西郷も晩年にはフィラリア症により陰嚢が人の頭ほどに腫れ上がり、馬に乗れないため、いつも篭を使っていました。1877年(明治10年)、西南戦争に敗れた西郷は、別府晋介の介錯で自害しました。西郷の首は見つからないように隠されましたが、首のない遺体が西郷のものであると確認されたのは、フィラリア症で腫れ上がった下半身が決め手となったということです。このエピソードは、西郷隆盛の壮絶な晩年を物語るものです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は西郷隆盛の年表や出来事、性格、エピソードについて紹介してきました。西郷隆盛は、幕末から明治維新にかけての日本の変革に大きく貢献した偉大な人物です。若い頃から頑固で率直な性格で、正しいと思うことを貫き通しました。多くの困難を乗り越えながらも、彼の信念と行動は多くの人々に影響を与えました。
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