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皆さん、勝海舟をご存じでしょうか。幕末では武士、明治時代では政治家として日本の近代化を推し進めるうえで大活躍した人物です。また日本人初の太平洋横断という大偉業を成し遂げた人物でもあります。昨今ますますグローバル化が進み、国際的な視野と感覚が求められていますが、勝海舟は幕末から明治にかけて、常に時代の先を見据え、果敢に行動してきた人物です。その発想と行動力は歴史を動かし、幕臣でありながら260年続いた徳川幕府の終焉を迎えさせました。今回なそんな勝海舟について見ていきます。
勝海舟は何した人?
勝海舟は、幕末から明治にかけて日本の近代化に尽力した武士であり政治家です。1823年に江戸の武士(旗本)の家に生まれ、若い頃から剣術や蘭学に励みました。長崎では最新の学問や航海術を学び、その知識を広めることに努めました。1860年には、蒸気軍艦咸臨丸で米国に渡り、帰国後は神戸に海軍の学校を設立し、近代国家の基礎作りや海軍の発展に貢献しました。
戊辰戦争が始まると、勝海舟は西郷隆盛と交渉し、戦わずに江戸城を開城することに成功し、江戸の町を戦火から守りました。この江戸無血開城は、彼の卓越した交渉力と平和への強い意志を示しています。
明治維新後、勝海舟は参議、海軍卿、枢密顧問官などの重要な役職を歴任し、伯爵に任命されました。彼は政治家としてだけでなく、和歌や漢詩などの文芸にも優れ、多才な人物として知られています。
勝海舟の功績は、日本の近代化を推進し、内戦を避けるための平和的な解決策を模索し続けたことにあります。彼の人生と業績は、激動の時代にあっても冷静かつ理性的な判断を下し、国家の未来を見据えた行動を取ることの重要性を教えてくれます。勝海舟は、日本の歴史においてその名を永遠に刻み込むべき偉人であり、彼の生涯から学ぶことは多くあります。
勝海舟の簡単な年表
それでは勝海舟が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。
年 | 出来事 |
1823年 | 江戸・本所(現在の東京都墨田区)にて、勝小吉の長男として誕生。幼名は「麟太郎」(りんたろう)。 |
1829年 | 11代将軍徳川家斉の孫 初之丞の遊び相手として、江戸城に召し寄せられる。 |
1838年 | 父が隠居したため、勝家の家督を継ぐ。 |
1850年 | 私塾・氷解塾を開く。 |
1854年 | 海防意見書を提出。これにより才能を見出された勝海舟は、江戸幕府の「目付海防掛」に抜擢された。 |
1860年 | 艦長として自身で操縦した咸臨丸で太平洋を横断し、アメリカ・サンフランシスコへ到着。 日本人初の太平洋横断を成し遂げた。 |
1862年 | 坂本龍馬と出会い、坂本龍馬が弟子入りする。 |
1864年 | 神戸海軍操練所を開設する。その後軍艦奉行に任命される。 |
1866年 | 第二次長州征伐の停戦を実現 |
1868年 | 1月に鳥羽・伏見の戦いを皮切りに、戊辰戦争が開始。 その後、西郷隆盛と会談し、大政奉還による江戸無血開城を実現。 |
1872年 | 海軍大輔、及び海軍卿に就任。 |
1873年 | 参議兼海軍卿に就任 |
1899年 | 脳溢血(のういっけつ)により死去。 |
蘭学と剣術を学んだ幼少期
1823年(文政6年)、勝海舟は石高41石ほどの旗本家に生まれました。幼名・通称は「麟太郎」(りんたろう)、名は「義邦」(よしくに)で、明治維新後に「安芳」(やすよし)へと改名します。「海舟」は号です。
勝海舟は10代の頃、剣術家の「島田虎之助」(しまだとらのすけ)に剣術と禅を学びました。彼の才能と努力は抜きん出ており、師匠の代稽古(だいげいこ)を務めるほどに腕を上げ、「直心影流」の免許皆伝を許されました。師匠の指導の下で、剣術のみならず精神的な修養も積みました。
また、勝海舟は師匠の勧めで西洋兵学に志し、蘭学者「永井青崖」(ながいせいがい)の弟子となり、蘭学を学びました。その熱意は非常に高く、手に入れるのが難しい蘭和辞典「ドゥーフ・ハルマ」を借り受け、自分のために1部、売るために1部の計2部を1年かけて書き写したと言われています。この努力は、彼の学問に対する真剣さと忍耐力を示しています。
1850年(嘉永3年)、勝海舟は蘭学と兵法学の私塾「氷解塾」を開きました。この私塾は、彼がそれまでに習得した知識と技術を他者に伝える場となり、後の日本の近代化に向けた重要な一歩となりました。勝海舟の少年期は、剣術と蘭学に対する深い探究心と努力によって彩られており、彼の生涯における基盤を築いた時期でした。
幕府へ意見書提出から日本人初の太平洋横断の偉業を実現
1850年、27歳の勝海舟は蘭学塾を開きました。その後、1853年にペリーが来航すると、勝はその衝撃を受け、身分を問わない有用な人材の登用や軍艦の建造などを提案した「海防意見書」を幕府に提出しました。この意見書が幕府の目に留まり、勝は31歳で目付海防掛に任命されました。
翌年、勝は長崎の海軍伝習所の生徒として勉強を始め、最新の海軍技術や知識を吸収しました。これにより、彼の軍事知識と指導力は大いに向上しました。
1860年、37歳の勝海舟は、日米修好通商条約を結ぶための使節団の一員として、初の太平洋横断を行う咸臨丸の艦長に任命されました。彼はサンフランシスコに向かい、航海を成功させました。この太平洋横断は、日本人として初めての経験であり、勝海舟の指導力と航海技術を証明するものでした。
アメリカの近代化を目の当たりにした勝海舟は帰国後、軍艦奉行に昇進し、倒れかけた幕府の中で海軍創設を進めました。勝海舟は日本の国防のために人材育成の場として新たに海軍操練所を開設しました。この学校は、幕府の家臣だけでなく、坂本龍馬をはじめとする攘夷派の脱藩志士も受け入れ、教育しました。
しかし、この方針が問題視され、翌年には勝海舟は免職となってしまいました。それにもかかわらず、この期間中に勝海舟は木戸孝允や西郷隆盛と接触し、彼らに大きな影響を与えたと言われています。勝海舟の教育と交流は、日本の近代化と国防強化に向けた重要な一歩となり、後の歴史に大きな影響を与えることとなりました。
坂本龍馬との出会い
アメリカから帰国した勝海舟は、幕末の志士として知られる坂本龍馬と出会いました。その出会いは1862年12月9日のことです。坂本龍馬は幕府政事総裁職の松平春嶽から紹介状を得て、門田為之助や近藤長次郎とともに、当時幕府軍艦奉行並であった勝海舟の屋敷を訪れました。
勝海舟は同年1月に咸臨丸でアメリカに行ってきたばかりで、蘭学に通じ、欧米の進んだ技術や軍事力を知っていました。当初、攘夷派であった坂本龍馬は、開国派の勝海舟を疑っていました。しかし、話を聞くうちに、勝海舟の主張は外国との交易によって日本も西欧に負けない国力を付け、防衛力を強化する必要があるというものでした。
勝海舟の考えに感化された坂本龍馬は、「大いに余の固陋を恥ず。請う、これよりして公の門下生とならん」と、自分の見識の狭さを恥じ、勝海舟の弟子となる決意をしました。師との出会いが嬉しかった龍馬は、姉の坂本乙女に2度も手紙を送り、報告しました。
1863年3月20日付の手紙には「日本第一の人物勝麟太郎殿という方の弟子になり」と書かれ、勝海舟への深い敬意が伝わります。また、同年5月17日付の手紙には「此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かわいがられ候て、先きゃくぶんのようなものになり申候。すこしエヘンにかおしてひそかにおり申候。達人の見るまなこはおそろしきものとや、つれづれにもこれあり。猶エヘンエヘン、かしこ」とあり、自慢げに自分の立場を誇っています。
このように、坂本龍馬は勝海舟との出会いを通じて視野を広げ、その後の活動に大きな影響を受けました。彼の弟子入りは、幕末の日本における重要な転機の一つとなりました。
第二次長州征伐の停戦の実現
1866年(慶応2年)、勝海舟は再び登用され、「第二次長州征伐」の停戦に向けて動き出しました。長州征伐(幕長戦争)は、天皇を敬い外国を排斥しようとする「尊皇攘夷派」の急先鋒だった長州藩を幕府軍が攻めた戦いです。この戦いの発端は、長州藩と薩摩藩・会津藩が京都御所付近で起こした武力衝突「禁門の変」(蛤御門の変)でした。禁門の変で長州藩が御所へ発砲したため、長州藩は朝敵とみなされました。第一次長州征伐では幕府側が勝利しましたが、その後、坂本龍馬や中岡慎太郎の尽力で長州藩と薩摩藩が「薩長同盟」を結び、事態は大きく転換しました。
第二次長州征伐では幕府側が各戦線で敗北を重ねました。勝海舟はこの状況を打開するため、広島県廿日市市の宮島で長州藩の広沢真臣と井上薫と会談し、停戦合意への道筋をつけました。この停戦合意により、第二次長州征伐は幕府の失敗に終わり、幕府の衰退が一層顕著になりました。
勝海舟の交渉力と冷静な判断が、激動の時代における重要な転機となり、日本の歴史に大きな影響を与えました。彼の努力によって、無益な戦争を避けることができ、幕末の日本における重要な停戦合意が実現したのです。
明治維新後の勝海舟
明治維新後、勝海舟は旧幕臣の代表格として出仕し、兵部大丞、海軍大輔、参議兼海軍卿などの要職を歴任し、伯爵に叙されました。1877年(明治10年)に西南戦争が起こると、西郷隆盛への同情を示し、彼の名誉回復にも尽力しました。
政界から離れた後も、勝海舟は政界の陰の相談役として重要な地位を保ち、徳川家の後見人として隠居した慶喜の面倒を見ました。また明治新政府の誕生により職と誇りを失い不満を抱える武士たちの働き口として静岡の駿府で茶畑の開墾を進めました。静岡が茶の名産地であるのも実は勝海舟が関わっていたのです。1888年には、憲法を扱う枢密院の顧問官に就任し、再び政府に対して活発に意見を述べました。彼は海軍の祖として知られていますが、朝鮮出兵には終始反対し、日清戦争にも批判的でした。
晩年の勝海舟は赤坂氷川で大半を過ごし、江戸時代の経済史料をまとめた「吹塵録」や、「海軍歴史」、「陸軍歴史」などを執筆しました。1899年に勝海舟は亡くなりました。
勝海舟の死因
1899年1月19日、勝海舟は風呂上がりにトイレに寄った後に倒れました。侍女に生姜湯を持ってくるように頼みましたが、間に合わないとして持ってこられたブランデーを飲んだ直後、脳溢血により意識不明となり、息を引き取りました。享年77歳でした。彼の最期の言葉は「コレデオシマイ」でした。
勝海舟は、江戸城無血開城から30年後、朝敵とされた徳川慶喜と皇室の和解に尽力し、それを実現させたことで人生に後悔はなかったと考えられます。彼は生涯を通じて徳川家に忠義を尽くした幕臣でした。
彼は以前から「死んだ時にはきっと夢から覚めた時と同じようなものだろう」と語っていたと言われています。そのため、「コレデオシマイ」という最期の言葉には、「思い残すことはない、やりきった」という解放感が込められていたのかもしれません。勝海舟らしい、とてもかっこいい最後のセリフです。
勝海舟の性格
勝海舟は、当時としては珍しい非常に先進的でグローバルな視点を持っていた人物でした。子供のころから鎖国中の日本にあっても、これからは英語の時代になると確信していた勝海舟は英語そして蘭学もを学んでいました。またペリー来航を目の当たりにし、近代化の必要性を幕府へ訴え、自ら艦長として船で太平洋を渡ってアメリカの近代化を身をもって体験するなど、常識にとらわれず新しいことに挑戦していました。一方で、幕府が倒れた後も徳川家の面倒を見続け、晩年には明治新政府に敵対した西郷隆盛の名誉回復に努めるなど、非常に人情深い性格でした。
しかし、プライベートでは癇癪持ちで短気な一面もありました。機嫌が悪い時には家族を家から追い出したり、来客を放置することもあったと言われています。このように、勝海舟は先進的でグローバルな視点を持ちながらも、強い人情と人間らしい感情を持った人物でした。
勝海舟の性格が反映されている名言もたくさんあります。勝海舟の名言に興味ある方はこちらの記事を読んでみてください!
勝海舟のエピソード
それでは最後に勝海舟のエピソードを見ていきましょう。勝海舟も様々なエピソードがあるので必見です!
勝海舟の父は息子が生まれるときに檻の中
勝海舟の父親、勝小吉は生涯無役の不良旗本で、喧嘩や吉原通いばかりしていました。21歳の時、小吉は家出して静岡県辺りに潜伏していましたが、親戚の男谷精一郎に連れ戻され、自宅の座敷牢に入れられました。小吉は、息子の勝海舟(当時は麟太郎)が3歳になるまで座敷牢に入れられており、海舟の生まれた瞬間を知りませんでした。
幼少期に犬に睾丸を噛まれる
貧しい武士の家に生まれた勝海舟は、30代で幕府に取り立てられ、戊辰戦争では幕府軍の軍事総裁として「江戸城無血開城」を実現させた叩き上げの英雄です。しかし、彼の幼少期には悲劇的な出来事がありました。
勝海舟が9歳の時、近所へ稽古に出かけた際に、病気の犬に睾丸を噛まれるという事件が起こりました。父親が記した『夢酔独言』によると、着物の前をめくると、あるべき場所に睾丸がなかったそうです。父親が医者に命が助かるかを尋ねたところ、「難しい」との返事が返ってきました。
その痛みと苦しみは想像を絶するものだったと思われますが、勝海舟は70日後に全快しました。後に障害で正妻のほか5人の妾を持ち、9人の子をもうけたことから、彼の睾丸は無事であったことがわかります。しかしこの幼少期の悲劇がきっかけで勝海舟は犬を見ると恐怖で立ち尽くすようになってしまったと言われています。
7歳の時にスカウトされて大奥生活
勝海舟が7歳の頃、江戸城の庭を見学に行きました。その際の振る舞いが目に留まり、当時の将軍徳川家斉の孫である初之丞君のお相手としてスカウトされました。こうして、海舟は大奥で2年間を過ごすことになりました。
当時の勝海舟は暴れ者であり、女中に叱られることもたびたびありました。しかし、彼の経験は幕末に役立ちました。大奥での浪費が問題になった時、海舟は大奥へ行き、わざと贅沢をさせることで、女中たちに自発的な倹約を促すことに成功しました。このように、勝海舟は幼少期から特異な経験を積み、その後の人生においてもその経験を活かすことができました。
海軍学校時代に無理やり遠出の船出をして遭難
勝海舟は33歳の時、長崎の海軍伝習所に入学し、オランダ語、数学、航海術、造船技術を学びました。35歳の秋、海舟は、完成したばかりのコットル船で遠洋航海をしようと思い立ちます。オランダ海軍の教師カッテンディーケから「天候が良くない」と止められましたが、海舟は聞き入れず、五島列島の辺りまで進みました。案の定、天候が荒れて船は壊れ、底に穴が開いて沈みかけましたが、何とか立て直して翌日帰還しました。
この出来事について、カッテンディーケ先生は「いい経験をした」と笑ったと海舟は語っています。先生の心の広さに感銘を受けたと言います。
病気だったのに噓をついて日本を出発して日本人初の太平洋横断を実現
勝海舟といえば咸臨丸です。1860年、38歳の時、勝海舟は咸臨丸でサンフランシスコ港を目指して出発しました。しかし、出発の日に海舟は熱病にかかり、ひどい頭痛で寝込んでいました。それでも「畳の上で犬死にするよりは軍艦の中で死んだほうがまし」と考え、妻には「ちょっと品川まで行ってくる」と言い残し、そのままサンフランシスコまで行ってしまいました。到着する頃には病気もすっかり治っていました。病気で寝込んでいた夫が外出して帰ってこなかったら妻は心配するでしょうが、そんなことはお構いなしでした。
咸臨丸は日本人だけで航行したという逸話がありますが、実際には浦賀で遭難してアメリカへ帰るブルック海軍大尉が同乗しており、彼とアメリカ人水夫に助けられました。ブルック大尉は、「勝麟太郎(海舟)はいつも船酔いしていた」と書き残しています。このように、勝海舟の大胆さと冒険心がうかがえるエピソードです。
アメリカ視察の感想で「特に変わったことはなかった」と答え怒られる
サンフランシスコから戻った勝海舟は、幕府のご老中から「異国ではさぞ変わったことがあっただろう」と尋ねられました。これに対し、海舟は「人間のすることは古今東西同じもので、アメリカとて別に変わったことはありません」と答えました。
「そんなはずはない」と食い下がるご老中に対して、海舟は「アメリカでは、政府でも民間でも、人の上に立つ者は皆その地位相応に怜悧(かしこい)でございます。その点ばかりは、我が国と反対のように思います」と答えました。この発言により、彼は上司から叱られました。人材抜擢でアメリカで能力が重視され、日本は家柄や身分を重視した旧体質の制度を敷いているという状況をあまりにも皮肉めいて説明した回答にご老中はさらに激怒したようです。
勝海舟の人情で静岡がお茶の名産地へ
明治維新の際、旧幕府側にいた大草太起次郎と中条金之助という幕臣がいました。二人は多くの幕臣とともに江戸城で切腹するつもりでしたが、勝海舟に「今切腹したら犬死にだから、静岡でひっそり暮らしなさい」と説得され、切腹を思いとどまりました。
数年後、二人は「金谷という土地がほったらかしになっているから開墾したい」と勝海舟に相談しました。海舟はその発言を褒め、二人と仲間の旧幕臣たちに仕送りを続けました。やがて、開墾した土地に茶を植え、その茶葉を横浜で取引するようになりました。これが実は静岡茶の始まりなのです。勝海舟が大草や中条を支援しなければ、静岡がお茶の名産地になることはなかったでしょう。
乱れた女性関係から妻が同じ墓に入ることを拒否
表舞台で活躍していた勝海舟ですが、長崎海軍伝習所にいた頃に知り合った女性との間に男児をもうけたり、女中に次々と手を出して女児を生ませたりと、乱れに乱れた女性関係を持っていて、正妻の民は常に不満に思っていました。「俺と関係を持った女が一緒の家にいても波風立たないのは女房が偉いから」と民をフォローするような発言を勝海舟はしていましたが、民はそんなフォローに満足するはずもありませんでした。
民が亡くなる間際、遺言はなんと「夫とは別の墓がいい。夭折した息子・小鹿と同じ墓地に葬ってほしい」。夫の墓に入るのが当然とされていた時代に、彼女はそのように望んだのです。それだけ不埒な女性関係を続ける夫との関係に苦しんだのでしょう。
しかし10年後には「もういいだろう」ということで、民の墓は海舟の墓の横に並べられました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は勝海舟が何をした人物なのか簡単な年表や性格、エピソードなどを見ていきました。鎖国していた時代から先進的な考え方で近代化が遅れた日本に危機感を覚え世界へ目を向けていた勝海舟の考え方や努力には今を生きる私たちも見習わなければいけない点もあるでしょう。
本サイトでは勝海舟以外にも日本の面白い歴史や文化を紹介しています。もし興味ございましたら、他の記事も読んでいただけたら嬉しいです!
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