皆さん、伊藤博文をご存じでしょうか。日本の初代内閣総理大臣であり、憲法制定にも携わったということで現在へ続く日本の礎を作り上げた人物と言っても過言ではありません。そんな内閣総理大臣としてのエリートな一面へスポットライトが当たる伊藤博文ですが、実は女遊びが激しすぎて明治天皇に怒られたことご存じでしょうか。またビールや女性教育、ふぐ料理の普及にも尽力したこともご存じでしょうか。今回はそんな意外と知られていない伊藤博文へスポットライトを当ててみていきます。
伊藤博文は何した人?
伊藤博文は、日本の明治時代に活躍した政治家であり、初代内閣総理大臣として日本の近代化に大きく貢献しました。彼は長州藩の下級武士の家に生まれ、1863年に藩の命令でイギリスに渡り、西洋の政治制度や技術を学びました。帰国後、明治維新の中心人物として内政改革を推進し、廃藩置県や地租改正などの改革を行いました。
1885年に内閣制度が導入されると、伊藤は初代内閣総理大臣に就任し、1889年に大日本帝国憲法を制定しました。この憲法は彼がヨーロッパ視察を通じて得た知識と経験を基に作成されたもので、日本の立憲君主制の基盤を築きました。また、教育制度の改革にも力を入れ、近代的な教育制度の確立に寄与しました。
晩年には外交活動に力を注ぎ、特に韓国問題に深く関わりました。しかし、1909年にハルビンで韓国の独立運動家、安重根によって暗殺されました。伊藤博文の業績は、日本の近代化における中心的な役割を果たし、その影響は今日まで続いています。彼の政治手腕と改革精神は、日本の歴史において重要な位置を占め、多くの人々に尊敬されています。
伊藤博文の簡単な年表
それでは伊藤博文が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。
年 | 出来事 |
1841年 | 周防国(現在の山口県)熊毛郡の農民の子供として生誕。幼名は利助(りすけ)であった。 |
1857年 | 松下村塾において吉田松陰に学ぶ。 |
1862年 | イギリス公使館焼き討ちに参加。 |
1863年 | 井上馨らとイギリスに留学。 |
1864年 | イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊が長州藩の下関を攻撃する馬関戦争を機に帰国。 講和会議で通訳を務める |
1868年 | 明治政府の外国事務掛になる。 |
1870年 | 財政・貨幣経済の研究のためアメリカに出張。 |
1871年 | 岩国使節団の一員としてヨーロッパへ視察。 |
1881年 | 大隈重信らを追放(明治十四年の政変)。 10年後の議会開設を決定。 |
1882年 | 憲法の調査のためドイツ・オーストリアへ出張 |
1885年 | 内閣制度を創設し、初代内閣総理大臣に就任。 |
1894年 | 日清戦争が勃発。 |
1895年 | 下関条約を締結。 |
1904年 | 日露戦争が勃発。 |
1905年 | 韓国統監府の初代統監に就任。 |
1909年 | ハルビン駅で安重根(アン・ジュングン)に暗殺される。 |
吉田松陰の松下村宿の生徒時代
伊藤博文は1841年、長州藩の周防国熊毛郡束荷村(現在の山口県光市束荷)の貧しい農家のひとり息子として生まれました。幼名は利助で、1849年に父の出稼ぎ先である萩に母とともに移住し、父が足軽の伊藤家の養子となったことから1854年より伊藤姓を名乗るようになりました。
伊藤博文の人生を大きく変えたのは、吉田松陰の私塾「松下村塾」への入塾です。ここで彼はその才能を発揮し始め、1858年、16歳のときに吉田松陰から京都派遣のメンバーに選ばれました。この時期に山県有朋と出会い、翌1859年には江戸で桂小五郎(後の木戸孝允)の従者となり、井上馨とも親交を深めました。
しかし、同年に吉田松陰が「安政の大獄」で処刑されたことから、伊藤博文は高杉晋作や久坂玄瑞、井上馨とともに尊王攘夷運動に傾倒していきます。彼は過激な活動を行う一方で、海外への渡航を望み、見聞を広げたいという思いを強く持っていました。
イギリス公使館焼き討ち事件
当時徳川幕府を打ち倒そうという倒幕運動が盛んになる中、高杉晋作をリーダーとする長州藩の過激派は、攘夷運動の一環として品川の御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き討ちする計画を立てました。御殿山は景勝地として有名で、幕府がその場所に外国の公使館を建てたことは攘夷派の志士たちにとって大きな怒りの対象となっていました。建物はほぼ完成し、まもなくイギリス公使を迎え入れる予定でしたが、高杉らはその直前に焼き討ちを実行しました。
この計画のメンバーは、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文(俊輔)、井上馨(聞多)、寺島忠三郎、山尾庸三、有吉熊次郎、赤祢武人ら12人でした。彼らは品川の妓楼・土蔵相模に集まり、酒を飲みながら深夜1時の決行時刻を待ちました。やがて御殿山に向かうと、立派な二階建て洋館の公使館が目に入りました。まだ内部に人はいなかったため、焼き討ちには絶好の機会でした。
しかし、建物の周囲には大きな丸太で柵が設置されており、侵入が困難でした。知恵者の久坂玄瑞でさえ、この関門を突破する策を思いつかずに悔しがりましたが、その時、伊藤博文が機転を利かせてのこぎりを取り出しました。彼は事前に防御が厳重であることを予測し、品川の夜店でのこぎりを購入していたのです。
伊藤ののこぎりで丸太を切り、2本ほど取り除くと人が通れるようになりました。志士たちは公使館の内部に侵入し、戸障子をはずして積み上げ、火をつけました。やがて建物は大きく炎上し、成功を確信した一同は怪しまれないようにその場を離れ、酒楼で再び飲み明かした者もいれば、帰って寝た者もいました。
事件後、幕府は犯人を追及しましたが、ついに特定することはできませんでした。焼き討ち計画は見事に成功し、その成功の要因となったのが伊藤博文の機転でした。この事件からもわかるように、伊藤が後に初代総理大臣として成功したのは、彼のひらめきと機転によるものであったといえるでしょう。
イギリス留学や岩国使節団による渡欧
1863年、伊藤博文は井上馨とともにイギリスへ渡りました。他の松下村塾の塾生が尊王攘夷運動に熱中する中、伊藤はロンドンで半年間の留学を選びました。現地でイギリスと日本の国力の差を目の当たりにし、彼は尊王攘夷論を放棄し、開国論に転じました。
さらに、1871年には木戸孝允や大久保利通らとともに、岩倉具視を全権大使とする岩倉使節団の一員としてアメリカやヨーロッパを訪れました。この訪問で特に大久保と伊藤は、日本の内政整備と産業の活性化の重要性を強く認識し、日本の近代化を目指すことに意見が一致しました。
1873年、国内で起こった征韓論の鎮静化のために急遽帰国した大久保利通は、この問題を迅速に解決し、内務省の長官である内務卿に就任しました。大久保政権の下で、伊藤博文は工部卿として社会基盤整備や産業振興に尽力し、重要な役割を果たしました。しかし、1878年に大久保利通が不平士族に暗殺され、翌日、伊藤博文は内務卿に任命されました。こうして、伊藤は本格的に日本の政治の舞台で重要な役割を担うことになりました。
大日本帝国憲法の制定に初代内閣総理大臣に就任
1881年、憲法制定論議が高まる中、立憲体制に関する意見の対立により、大蔵卿の大隈重信が政府から追放されました。この結果、伊藤博文を中心とした薩長派による藩閥政府が誕生しました。これが「明治十四年の政変」と呼ばれる出来事です。
翌年、伊藤博文は明治天皇の命を受けて憲法調査のために欧州へ渡りました。主にベルリンで歴史法学や行政を学び、憲法制定に自信を得た伊藤は1883年に帰国しました。しかし、彼の帰国を待たずして政府の実力者であった岩倉具視が病死しました。岩倉は伊藤を内務卿に選び、宮廷や華族に大きな影響力を持つ人物でした。岩倉の死により、伊藤博文は名実ともに明治政府の中心人物となりました。
帰国後、伊藤博文は憲法制定に向けた作業を進め、1889年2月11日に「大日本帝国憲法」を発布しました。この期間は日本の近代国家としての基礎が構築されていく重要な時期でした。
また、1885年に成立した日本最初の内閣で、伊藤博文は初代内閣総理大臣に就任しました。彼は内閣制度を定め、その運営を実践しました。1888年には憲法審議の最高責任者である枢密院議長に就任するため、内閣総理大臣を辞任しました。
伊藤博文の努力により発布された大日本帝国憲法は「永遠不磨の法典」と称され、この憲法のもとにある明治天皇制国家は伊藤博文が作り上げた「芸術品」とも呼ばれました。
貧しい農民の子として生まれながら、初代内閣総理大臣にまで上り詰めた伊藤博文は、その後も1892年に第2次、1898年に第3次、1900年に第4次内閣を組閣し、近代国家としての日本の確立に尽力しました。
日清戦争・日露戦争から韓国統監府へ就任
第2次伊藤内閣の時期である1894年、日本は「日清戦争」に勝利し、翌年の「下関条約」で清国に韓国の独立を認めさせました。しかし、ロシアが南下を続け、日本の朝鮮半島での影響力は不安定なままでした。これを受けて、日本は1904年に韓国を正式に自国の監督下に置き、満州鉄道への兵力配置などの特殊権益を確保するため「日露戦争」を開始しました。
この戦争に辛勝した日本は、1905年に「日韓保護条約」を締結し、韓国を植民地にしました。これが韓国併合と呼ばれる出来事です。漢城に「韓国統監府」を設立しました。伊藤博文はその初代統監に就任し、日本は実質的に韓国の統治権を手にしました。
第二次日韓協約を締結し、韓国を日本の保護国としたことで、日本の露骨な植民地政策が展開され、韓国では反日感情が高まりました。これに伴い、各地でテロや抵抗運動が頻発するようになりました。
伊藤博文の死因
1909年10月26日、伊藤博文はロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと満州や朝鮮問題について非公式に話し合うためにハルビン駅を訪れていました。その際、大韓帝国の民族運動家である安重根によって射殺されました。
伊藤は銃撃を受けた直後、「3発あたった。相手は誰だ」と叫んだといわれています。安重根はその場でロシア官憲に捕らえられました。伊藤は絶命するまでの約30分間、側近たちといくつか会話を交わし、最後には自分を撃ったのが朝鮮人だと知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたと伝えられています。また、孫の伊藤満洲雄によれば、伊藤は「俺は駄目だ。誰か他にやられたか?」と尋ね、森槐南も傷ついたと知って「森もやられたか……」と言ったのが最後の言葉だったといいます。享年69歳。11月4日には日比谷公園で国葬が営まれました。
安重根は直ちに捕らえられ、共犯者の禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名もロシア官憲に拘束されました。日本政府は彼らを関東都督府地方法院に移送し、明治43年(1910年)2月14日に安重根に死刑、禹徳淳に懲役2年、曹道先と劉東夏には懲役1年6か月の判決を下しました。
伊藤博文の性格
伊藤博文はお世辞を言わない無骨で正直な性格であり、金銭に対して潔癖な人物でした。このような性格が明治天皇に気に入られていたといわれています。また、陽気で開放的な性格で、国民からの人気も高かったです。しかし、政治においては強固な派閥を作らなかったため、晩年には広い派閥網を築いた山県有朋に比べて国内政治への影響力が劣るとされていました。
初代内閣総理大臣としての地位に上り詰めましたが、衣食住にはあまり関心を持たない性格でした。大磯で隣りに住んでいた西園寺公望が伊藤の食事に招かれても、粗末な料理が多くて困ったといいます。晩年には私邸の滄浪閣を売却し、大井の恩賜館に隠居しようかと考え、妻の梅子夫人を驚かせることもありました。
伊藤博文のエピソード
それでは最後に伊藤博文のエピソードを見ていきましょう。伊藤博文も様々なエピソードがあるので必見です!
生粋の女好きだった
伊藤博文の女性好きは「ほうき」というあだ名に象徴されています。このあだ名は「掃いて捨てるほど女性がいる」という意味で、彼が頻繁に女性と関係を持ち、その関係を繰り返していたことに由来します。
伊藤は「1000人もの女性と関係を持った」と豪語し、「金も家もいらない。ただ女遊びができればいい」とも言ったとされています。彼の女性に対する奔放な姿勢は広く知られていました。ちなみに日本で初めて車の中で女性と致したのは伊藤博文が最初だそうです。
留学先のイギリスでも女遊びがやめられず帰国されそうに
伊藤博文は1863年に藩の命令で井上馨らとともにイギリスに留学しました。彼の英語力向上のきっかけとなったこの留学期間中、伊藤は現地で女遊びも盛んに行っていました。
調査のために他の留学生よりも多くの資金が準備されていましたが、伊藤はそのお金を使って色街に頻繁に通っていたと言われています。彼の度を超えた行動は留学生の間でも問題となり、イギリスから帰国させられる寸前まで行きました。この危機を救ったのが井上馨で、彼の仲介によりなんとか事態を収めることができました。
女好きすぎて明治天皇から怒られた
伊藤博文は料理屋の娘や人妻と関係を持っただけでなく、特に芸者遊びがやめられませんでした。例えば、40度の高熱が出たときも両脇に芸者をはべらせていたという話や、日清戦争の講和の途中で清の李鴻章が狙撃されたとの報告を受けた際も芸者と過ごしていたというエピソードがあります。
彼の女性好きはあまりに有名で、ついには明治天皇の耳にも入り、注意を受けることになりました。明治天皇は「女漁りが激しすぎるのではないか」「もう少しおとなしくしてはどうか」と伊藤を咎めました。しかし、伊藤は「公の芸者を公に呼ぶまでです」と堂々と答えました。天皇に諭されてもここまで開き直れるのはさすが日本の初代内閣総理大臣といったところでしょうか。
大のビール好き
伊藤博文は政治体制の近代化だけでなく、日本の生活習俗の西洋化にも積極的に取り組みました。その象徴が「鹿鳴館」であり、外国人をもてなす迎賓館として建設されました。外務卿の井上馨と伊藤が相談して建てたこの館では、列強諸国の外交官に日本が文明国であることを示し、生活習俗の西洋化を促進するため、夜会や舞踏会が頻繁に開催されました。
伊藤も蝶ネクタイにドレス・コート姿で頻繁に参加し、特に西洋のアルコールを楽しんでいました。社交ダンスよりも様々なアルコールを嗜むことが好きだった伊藤は、一杯機嫌で周囲に声をかけることが多かったといいます。当時の外務省翻訳官で伊藤に随行していた小松緑も、「舞踏の合間に気の合った相手と別室に入り、パンチやビールで喉を潤しながら話し合うのが夜会の例だった」と記しています。
また、自邸で開いた夜会でも、伊藤は「喫煙室に巻煙草はありや、ビールは充分なりや」と心配りを欠かさなかったと伝えられています。伊藤がこのように振る舞えたのは、本場ヨーロッパで西洋流のマナーやもてなし方を身につけたからでしょう。社交性があり、人との交流を好む伊藤は、生涯を通じてビールなどのアルコールが並ぶパーティを楽しんでいました。
女性教育の普及に尽力
伊藤博文は女子教育の重要性を強く感じ、自ら創立委員長となり「女子教育奨励会創立委員会」を1887年に設立しました。この委員会には、伊藤の他に実業家の渋沢栄一や岩崎弥之助、東京帝国大学教授のジェムス・ディクソンらが参加し、東京女学館の創設など女子教育の普及に積極的に取り組みました。
さらに、伊藤は日本女子大学の創設者である成瀬仁蔵の女子大学設立計画にも協力しました。津田梅子とは岩倉使節団で渡米した際に同じ船に乗って以来の交流がありました。帰国後、津田は伊藤家に雇われ、英語指導や通訳、伊藤の娘の家庭教師を務めました。また、「桃夭女塾」の英語教師としても活動していました。
伊藤の推薦により、津田は明治18年(1885年)に学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなりました。帰宅後には津田と国の将来について語り合うこともありました。伊藤にとって津田は同じ日本人の婦人というよりも、顧問のような存在だったといいます。
ふぐ料理のきっかけ
明治20年(1887年)の暮れ、初代内閣総理大臣を務めていた伊藤博文が春帆楼に宿泊しました。当時、海は大荒れでまったく漁がなく、料理人の道は困り果てた末、禁制であったふぐを出すことを決断しました。豊臣秀吉以来のふぐ禁食令が続いており、法律で「ふぐを食べる者は拘置科料に処す」とされていましたが、下関の庶民は昔からふぐを食べていました。
若い頃に高杉晋作らとともにふぐを食べた経験があった伊藤は、初めて食べるような振りをして「こりゃあ美味い」と絶賛しました。翌明治21年(1888年)、伊藤は当時の山口県令(知事)原保太郎に命じてふぐの禁を解かせました。この結果、春帆楼はふぐ料理の公許第一号店として広く知られるようになりました。伊藤博文のこの行動がきっかけで、ふぐは食用および商用として認められ、日本の食文化において重要な一歩を踏み出しました。
有栖川宮威仁親王へ操り人形発言
ドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツは『ベルツの日記』の中で、伊藤博文が会議の席上で有栖川宮威仁親王に対して行った発言について記録が残っています。伊藤博文は有栖川宮威仁親王に向かって、「皇太子に生まれるのは非常に不運なことだ。生まれた瞬間から礼儀の鎖に縛られ、大人になると側近者の意のままに踊らされる」と述べました。そして、操り人形を糸で操るような身振りをして見せたとされています。皇族へ対してなかなか挑発的な発言ですが、伊藤博文の裏表がない正直さも現しているとも言えます。
ランドセル誕生のきっかけ
小学生がランドセルを背負って通学する姿は、日本独特の光景です。このランドセルの発祥は、伊藤博文が大正天皇の学習院入学祝いとして献上した「通学カバン」に由来しています。
当時、学習院には裕福な家庭の児童が多く、馬車や人力車で通学していました。しかし、大正天皇が入学する少し前に、児童の体力増強と平等な学習環境を目的として、車での通学が禁止されました。これにより、児童は学用品を自分で持ち運ぶよう指導されました。
この時、通学カバンのモデルとなったのが、軍隊で兵士が使用していた布製の「ランセル」でした。伊藤博文は、大正天皇の学習院入学を祝うために、革製の箱型ランセルを特注しました。この丈夫で型崩れしないランセルが、現在のランドセルの原型となりました。
お札の顔にも
伊藤博文は初代内閣総理大臣として日本の顔になりましたが、お札の顔にもなりました。伊藤博文がお札に登場したのは1963年のことです。この年、新しく発行される千円札の肖像候補として、明治天皇や岩倉具視などとともに彼の名前が挙がりました。
最終的な候補は伊藤博文と渋沢栄一の二人に絞られましたが、最終的に伊藤が選ばれました。当時の印刷技術では、ひげを生やした伊藤の肖像が偽造防止に適していたためです。伊藤博文の肖像が描かれた千円札は、1986年(昭和61年)まで発行されていました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は伊藤博文が何した人か年表や性格、エピソードを見てきました。伊藤博文は、今回見てきたように日本の近代化に多大な貢献をした人物です。初代内閣総理大臣として憲法の制定や内閣制度の確立を推進し、女子教育の普及にも力を注ぎました。一方で女好きが激しすぎて明治天皇から怒られたりイギリス留学から帰国されそうになったり、有栖川宮威仁親王へ操り人形発言したりと人間味のある側面もありました。
本サイトでは伊藤博文以外にも様々な日本の歴史や文化を紹介しています。もし興味ございましたら、他の記事も読んでいただけますと幸いです!
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