皆さん、津田梅子がそんな女性かご存じでしょうか?2024年7月に新たに5000円札の顔になることで話題の津田梅子ですが、一体どんな人物か詳しい人は少ないと思います。わずか6歳で太平洋を渡りアメリカへ渡った少女は、明治維新という激動の時代を背景に、日本の女性教育を切り開いた先駆者でした。
アメリカでの長い留学生活で身につけた先進的な知識と文化、そして日本への深い愛情を持つ彼女は、いくつもの困難を乗り越え、津田塾大学の前身となる女子英学塾を設立し女性の社会進出を訴え続けました。今回はそんな津田梅子の波乱に満ちた生涯を紹介していきます。
津田梅子は何した人?
津田梅子(1864年12月31日 – 1929年8月16日)は、日本の教育者であり、女性の教育向上に尽力した先駆者です。彼女は明治初期に岩倉使節団の一員として、わずか6歳でアメリカに渡りました。津田は当初、アメリカの家庭で生活しながら英語や西洋の文化を学び、その後、ラドクリフ・カレッジで生物学を専攻しました。彼女の留学は、当時の日本において非常に珍しいことであり、津田はその後の人生で得た知識と経験を生かし、日本の女性教育に革命をもたらしました。
帰国後、津田梅子は日本で女性教育の必要性を強く感じ、女性の教育機会を拡大するための活動を始めました。1900年、彼女は自らの名を冠した津田英学塾を設立しました。この学校は、現代の津田塾大学の前身となり、質の高い英語教育と幅広い教養教育を提供することで、多くの女性に新しい道を開きました。津田英学塾は、女性が国際的な視野を持ち、社会で活躍できるような教育を目指し、多くの優れた女性リーダーを輩出しました。
津田梅子はまた、女子教育の重要性を広く訴え、女性の社会的地位向上にも貢献しました。彼女は教育者としてだけでなく、社会改革者としても活躍し、多くの講演や執筆活動を通じて女性の権利向上を訴えました。津田の努力は、当時の日本社会において女性の地位を向上させる大きな力となり、彼女の影響は現代にまで続いています。
津田梅子の生涯は、日本の女性教育の発展に多大な貢献をし、彼女の先駆的な活動は多くの女性に希望と勇気を与えました。彼女の遺産は、現在も津田塾大学を通じて受け継がれ、次世代の女性たちに影響を与え続けています。津田梅子は、日本の教育史において欠かせない存在であり、その功績は永遠に語り継がれるべきです。
津田梅子の簡単な年表
それでは津田梅子が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。
年 | 出来事 |
1864年 | 津田仙と初子夫妻の次女として誕生。 |
1871年 | わずか6歳にして岩国使節団の一員としてアメリカ留学。 |
1882年 | アーチャー・インスティチュートを卒業。 |
1883年 | 帰国し、伊藤博文の紹介で英語の家庭教師となる。 |
1885年 | 華族女学校で英語教師に就任。 |
1889年 | 再びアメリカへ留学へ。 |
1892年 | 帰国し、再び華族女学校の教師となる。 |
1900年 | 女子英学塾を開講。(現津田塾大学)。 |
1919年 | 病気療養のため塾講を辞任。 |
1929年 | 脳出血により死去。 |
わずか6歳で岩国使節団の一員としてアメリカ留学
津田梅子(1864年12月31日 – 1929年8月16日)は、幕末の雰囲気が色濃い1864年(元治元年・文久4年)12月に江戸で生まれました。出生時の名前は「むめ(うめ)」でしたが、後に「梅子」と改名しました。彼女の父、津田仙は幕府の通訳として欧米へ渡航した際に「こちらには髪を結える人がいないから」とちょんまげを切り落としました。その父の影響もあり、梅子は1871年(明治4年)に岩倉使節団の一員としてアメリカへ留学しました。数え年で8歳、現行の年齢換算では6歳で横浜から船出し、船上で7歳の誕生日を迎えました。
同じ船には40名以上の留学生が乗船していましたが、その中で女子留学生は5名しかおらず、梅子は最年少でした。アメリカ到着後、梅子の年齢に驚きつつも、彼女の生活を手配してくれたのは、当時ワシントンで外交官を務めていた森有礼でした。梅子は裕福なアメリカ人夫妻、ランマン家に寄宿し、我が子のように愛されながら学校に通いました。8歳のとき、自らの希望でキリスト教の洗礼を受けました。
5名の女子留学生のうち、年長の2名は先に帰国しましたが、梅子と山川捨松、永井繁子の3名は予定されていた10年間をアメリカで過ごしました。彼女たちは自らを「トリオ」と呼び、帰国後も続く強い絆を育みました。梅子が帰国したのは、女学校卒業に合わせて留学期間を1年延長した1882年(明治15年)で、大学を卒業した捨松と共に帰国の途につきました。帰国の時、梅子は18歳の誕生日を迎える直前でした。
梅子と捨松は帰国の船上で、捨松が寄宿先で姉妹のように育ったアリス・ベーコンを日本に呼び寄せ、3人で女子のための学校を設立するという夢を語り合いました。彼女たちは、日本の女性たちのリーダーとして、国の支援で留学させてもらった恩返しをしたいと強く願っていました。この経験と夢が、後に津田梅子が日本の女子教育の発展に大きく貢献する基盤となりました。
アメリカから帰国後、英語教師へ
津田梅子が帰国した1882年(明治15年)、彼女が最も驚いたのは、日本の女性たちが10代半ばの若さで親の決めた相手と結婚していくことでした。当時の日本は、ようやく日本銀行券が発行されるなど、近代国家としての基盤を作り始めたばかりで、女性の社会進出はほとんど見られませんでした。内閣制度がスタートしたこの時期、女子が自らの意思で職業を持ち働くことは、まだ一般的ではありませんでした。
アメリカとは異なり、日本では女性が高等教育を受ける機会すらほとんどなかったのです。この状況にショックを受けた津田梅子は、女性にも教育の機会を増やさなければならないと強く感じました。帰国後、梅子は伊藤博文の家庭教師を務めた後、1885年(明治18年)に「華族女学校」の英語教師に就任します。 華族女学校(後の学習院女子大学)は、華族の女子に本格的な学びを提供する場所でした。
津田梅子は、ここでの教育活動を通じて、日本の女性たちに教育の重要性を訴え続けました。彼女の努力は、日本における女性教育の先駆けとなり、女性の社会的地位向上にも大きく寄与しました。
再びアメリカ留学へ
津田梅子は華族女学校で女子学生に英語を教えながらも、再びアメリカへ留学する夢を抱き続けていました。当時、日本では留学制度が整備され、男子学生でさえ簡単に留学できない時代となっていました。女性である梅子にとって留学はさらに困難でしたが、留学時代のアメリカの友人の支援により、授業料の免除などのサポートを得ることができました。こうして梅子は華族女学校に在籍したまま、2年間の期限で再度アメリカへ渡ることが認められました。1889年、24歳のときのことです。
アメリカに渡った梅子はブリンマー大学に入学し、質の高い教育を受けました。彼女はここで、生物学を専攻し、女性にとっての教育の重要性を再認識しました。1894年には、彼女が執筆した「蛙の卵の発生について」の論文が学術雑誌に掲載されるなど、学問的にも大きな成果を挙げました。また、梅子はオゴウィゴー師範学校で「教授法」についても学び、人に物事を教える技術を身につけました。
ブリンマー大学在学中、梅子は「日本婦人米国奨学金制度」を設立しました。これは、自分と同じように学びたいと願う日本の女性たちを支援するためのものでした。梅子は、自身の経験を通じて女性の教育の重要性を深く理解しており、その機会を他の女性にも広げたいと強く願っていたのです。
このようにして、津田梅子は再びアメリカでの学びを通じて自らの知識と技術を深化させ、日本に戻ってからも女性教育の発展に大きく寄与しました。彼女の努力と情熱は、多くの日本人女性に影響を与え続けています。
現津田塾大学となる女子英学塾を開講
その後も津田梅子はアメリカやイギリスに留学を重ね、「女性の地位向上には専門的な知識と学問が不可欠だ」という強い信念をさらに深めました。そして1900年、36歳のときに女子英学塾を創設しました。この挑戦のために、彼女は華族女学校と兼任で教えていた女子高等師範学校という安定した職を辞める決断をしました。
津田英学塾は、東京の麹町(現在の千代田区一番町)にあるごく普通の家を校舎として始まりました。初年度の生徒は10人で、学校はこれまでの行儀作法を教えるような場所とは一線を画し、少人数制で質の高い教育を提供することを目指していました。ここでは女性たちが英語を学び、英語教師を目指しました。
この学校の設立は、日本人女性が社会で活躍するための第一歩と言えるでしょう。津田梅子の情熱と努力は、女性教育の新しい道を切り開き、多くの女性に新たな可能性と希望を与えました。津田英学塾は、その後の日本における女性の教育と社会進出に大きな影響を与え続けました。
津田梅子の死因
津田梅子は晩年、鎌倉にあった別荘で長期にわたる闘病生活を送っていましたが、1929年8月16日に脳出血により亡くなりました。彼女の健康状態は、女子英学塾(後の津田塾大学)の設立と運営のための過労とストレスで非常に悪化していたと言われています。
津田梅子が設立した女子英学塾は、男女や身分の差別がない進歩的な女子教育を実践していましたが、資金面や社会的な理解の面で多くの困難に直面しました。特に、独自の教育理念を維持するために外部からの資金援助を少額に抑えていたため、財政状況が安定するまでには時間がかかりました。
1903年に「専門学校令」が出された際、梅子は女子英学塾を社団法人として登録しました。この頃から体調が悪化していましたが、塾の経営基盤が安定するのを見届けた後、1919年1月に塾長を辞任しました。
教育者としての実務と経営から退いた後、梅子は鎌倉の別荘で静養と闘病の日々を送りました。彼女の死は、教育に捧げた人生の終焉となりましたが、その功績と影響は現在も多くの人々に受け継がれています。
津田梅子の性格
津田梅子は、そのおおらかでよく笑う性格で知られていました。当時の日本では女性が大声で笑うことは好ましくないとされていましたが、これは彼女がアメリカ留学で経験した文化の影響と言えます。
教え子や同僚の証言からは、津田梅子の教育に対する情熱と厳しさ、そして私心のない高潔な人格がうかがえます。彼女は英語教師として完璧を求める厳格な指導で知られ、学生の英語の発音を何度も矯正し、文法の正しさだけでなく、論理の一貫性にもこだわりました。そのため、彼女の厳しい指導についていけずに脱落する生徒もいました。
津田梅子自身の日本語は完全に流暢ではありませんでしたが、言葉に対する鋭いセンスを持っており、日本語の訳文の間違いにもよく気づいたといいます。一方で、彼女は学生たちと食事を共にし、アメリカでのエピソードを交えて笑いを誘うなど、気さくで親しみやすい一面も持っていました。
私生活では質素倹約を心がけ、集めた寄付金のすべてを女子教育に捧げました。多くの人々を引きつけ、支援を集めた津田梅子は、強い意志と崇高な理想を持つ模範的な教育者でした。彼女の人間性は、教育に対する献身と生徒への深い愛情に満ちていました。
津田梅子のエピソード
それでは最後に津田梅子のエピソードを見ていきましょう。津田梅子も様々なエピソードがあるので必見です!
日本語を忘れてしまった?
津田梅子は、長期間アメリカに滞在していたため、日本語や日本文化を忘れてしまっていました。彼女は6歳から17歳までアメリカにいたため、日本に戻ったときには通訳が必要なほどでした。晩年まで、“鰻”と“柳”、“罠”と“穴”の聞き取りに苦労したというエピソードも残っています。
言葉だけでなく、日本での玄関で靴を脱ぐ習慣も忘れてしまい、靴を脱ぐのが面倒だと話すほどアメリカの文化に馴染んでいました。また、誰かに何か言われたときには豪快に笑い飛ばすこともありました。当時の日本女性は人前で大声で笑うことは珍しく、梅子の生活スタイルは非常にアメリカ的だったのです。
そのため、当時の人々からは非常に変わり者と思われていたことでしょう。梅子のこのような一面は、彼女がアメリカで過ごした時間の影響を強く受けていたことを物語っています。
ヘレン・ケラーとナイチンゲールにあったことがある
津田梅子は、1898年にアメリカ・コロラド州で開催された万国夫人連合大会デンバー会議に日本の女性代表として参加しました。彼女は和服姿で聴衆の前に立ち、日本女性の問題について流暢な英語で力強くスピーチを行い、約3000人の聴衆から大きな喝采を受けました。この成功がきっかけで、梅子は当時17歳で聾唖の才女として知られていたヘレン・ケラーと会談する機会を得ました。 さらに、彼女はイギリスで80歳のナイチンゲールとも面会しました。
津田梅子は、日本における先進的な女性教育の改革者でありながら、常に自信に満ちていたわけではありません。彼女は謙虚であり、自信のなさに悩みながらも懸命に活動を続けていました。 このような偉大な女性たちとの出会いは、梅子にとって大きな励みとなりました。彼女が生涯大切にしていた二つの宝物があります。一つは、ヘレン・ケラーから贈られた「成功と幸せを祈る from your friend」と書かれた手紙です。もう一つは、ナイチンゲールから贈られたスミレの花束を押し花にしたものです。 これらの出会いと贈り物は、津田梅子にとって計り知れない励ましとなり、彼女の人生と活動に深い影響を与えました。世界に名を馳せる偉大な女性たちとの出会いを通じて、津田梅子は日本の女性教育の改革に一層尽力しました。
着物が大好き
津田梅子はアメリカ文化の強い影響を受け、日本語も少し忘れてしまい、一時は明治政府が築いた西洋館「鹿鳴館」で踊ったこともありましたが、それでも日本の着物を最も美しい服装と考えていました。彼女は授業中を含め、生涯を通じて着物と袴を着用しました。女子英学塾の卒業生たちは、「アメリカ育ちとは思えないほど、日本的で質素な生活をしていた」と証言しています。
津田梅子はアメリカの先進的な考え方を取り入れながらも、日本の文化を深く尊重していました。彼女の着物への愛着は、日本文化への敬意と美意識を示すものでした。
生涯独身を貫いた
6歳で岩国使節団としてアメリカに留学し、その後日本に帰国した津田梅子は、日本の女性たちが10代半ばで親が決めた相手と結婚する状況に驚きました。当時の日本では女性の社会進出が難しく、早婚が一般的でした。
梅子は、女性が自立して生活し、親が決めた相手ではなく自らパートナーを選ぶべきだと考えていました。このため、帰国後に何度も縁談の話が持ちかけられましたが、梅子は「二度と結婚の話はしないでください」と全て拒否しました。この時、梅子は生涯独身を貫くことを決意したのです。
独身だったけど子供はいた?
津田梅子は生涯独身を貫いたため、実の子供はいませんでしたが、晩年には甥の津田眞を養子に迎えました。彼女の生涯を振り返ると、家には常に子供たちがいる状態であったことが分かります。
華族女学校での教員生活を終えた梅子は、24歳のときに再度渡米し、ブリンマー大学で研究を続けました。大学からはアメリカに留まることを薦められましたが、27歳で日本に帰国し、再び華族女学校で教員として勤務を始めました。
教員生活のかたわら、自宅では女学生を預かり、積極的に就学援助を行っていたため、独身でありながらも常に家には子供たちがいました。
伊藤博文のことが好きだった?
津田梅子は伊藤博文のことが好きだった可能性があります。津田梅子は、親友の永井繁の紹介で大学教授の神田乃武と出会い、恋心を抱きました。しかし、神田には既に好きな人(山川捨松)がいることに気づき、その思いを伝えることはありませんでした。
その後、岩倉使節団の一員として共にアメリカに渡った伊藤博文と再会し、津田の人生は大きく変わりました。伊藤から英語指導や通訳の依頼を受け、彼の家に住み込みで働くことになったのです。20歳のとき、伊藤の推薦で華族女学校の英語教師にも就任しました。
津田は生涯独身を貫きましたが、伊藤博文に対して密かに恋心を抱いていた可能性があります。6歳で岩倉使節団として渡米し、帰国後に伊藤家での生活を通じて、尊敬や感謝の念が次第に恋心に変わっていったかもしれません。伊藤は女性心を理解し、距離感を縮めることが上手であったため、津田が彼に惹かれた可能性は高いでしょう。
新しいお札の肖像画になった理由
津田梅子の功績とその人柄が高く評価され、2024年7月に発行予定の新しい5000円札の肖像に選ばれました。これは、女子教育の先駆者としての彼女の偉業が広く認識され、樋口一葉に続く2人目の女性として紙幣に採用されることになったものです。津田梅子の選定は、彼女の崇高な理想が現在もなお私たちに深い影響を与え続けていることの象徴です。
まとめ
いかがでしたでしょうか?津田梅子は、日本初の女子留学生として米国で学び、帰国後も女性教育の推進に尽力しました。1900年に設立した女子英学塾(現:津田塾大学)は、女性の高等教育の道を開きました。また、女子教育奨励や平等な社会の実現に向けた活動も行い、多くの女性に影響を与えました。彼女の生涯は、日本における女性の社会進出の礎を築いたものであり、その貢献は現在も続く女性教育の発展に大きく寄与しています。
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