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偉人

北里柴三郎は何した人か簡単な年表、死因、性格やエピソードを紹介

皆さん、北里柴三郎をご存知でしょうか?日本の近代医学の父とも呼ばれ、実は2024年7月から1000円札の新しい顔にもなります。当時では革新的であった予防医療を提唱したり、細胞研究で様々な業績を上げ、世界からも注目を浴びたのです。とはいえ意外と北里柴三郎がどんな人物なのか知らない方も多いと思います。そこで今回は北里柴三郎の生涯を見ていきたいと思います!

北里柴三郎は何した人?

(画像引用: 北里研究所北里柴三郎記念博物館)

北里柴三郎は1852年に現在の熊本県阿蘇郡小国町北里で生まれました。彼は藩校の時習館や熊本医学校で学び、東京医学校(現・東京大学医学部)に進学しました。1883年に卒業後、内務省衛生局に奉職しました。 

 1886年からドイツのローベルト・コッホの下で研究し、破傷風菌の純培養法と抗毒素の発見という画期的な業績を上げました。これにより、世界の医学界に大きな衝撃を与えました。1892年に帰国し、福沢諭吉の支援で日本初の私立伝染病研究所を芝公園に設立しました。研究所は後に内務省に移管され、北里は所長として引き続き活躍しました。香港でペストが流行した際には、迅速にペスト菌を発見しました。

北里は伝染病の研究は衛生行政と一体であるべきだと信じていましたが、1914年に国立伝染病研究所が文部省に移管されたため、所長を辞任し、私立北里研究所を設立しました。1917年には、福沢諭吉の恩義に応える形で慶應義塾大学医学部を創設し、医学部長としてその発展に尽力しました。 さらに、日本医師会長などの重要な役職を務め、日本の公衆衛生、特に結核予防や医学教育の発展に多大な貢献をしました。

北里柴三郎の簡単な年表

それでは北里柴三郎が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。

勉学に励み最初は軍人・政治家志望も親の反対で医師を志すことに

北里柴三郎は1853年、現在の熊本県にあたる肥後国で生まれました。父の北里惟信は代々続く庄屋の当主で、母は武家の娘という厳格な家庭に育ちました。9歳の時に親戚の家に預けられ、論語や算術を学びました。

 13歳になると熊本城下に出て、熊本藩校の時習館で儒学、兵法、漢方医学などを学びました。幼い頃から両親に「人の役に立つこと」の大切さを教えられた北里は、軍人や政治家を志していましたが、両親はこれに反対し、彼を医師にするため古城医学所に入学させました。 

 当初は気が進まなかったものの、オランダ人軍医コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトとの出会いを通じて、医師もまた人々を救う重要な職業であることに気づきました。

東大医学部へ入学し、予防医療を提唱

(画像引用: 東京大学医科学研究所)

1874年、北里柴三郎は古城医学所を卒業後、東京に上京して東京医学校(現在の東京大学医学部の前身)に進学しました。そこで、彼は最先端のドイツ医学を学びました。北里の性格は非常に勉強熱心で、何事も突き詰めるタイプであったため、教師と議論することも多く、学校内ではあまり好かれていませんでした。 

 在学中、日本でコレラが大流行し、1877年には約8,000人、翌年には約100,000人が死亡しました。この経験から、北里は従来の医学では伝染病に対抗できないことを痛感し、「病を未発に防ぐ」予防医学の重要性を認識しました。25歳のとき、自身が記した医学書「医道論」にその思いを綴り、伝染病と戦う人生を歩み始めました。

ドイツへ留学し、ロベルト・コッホ研究室へ

(画像引用: Kodansha Bluebacks)

東京医学校卒業後、北里柴三郎は内務省衛生局に入省し、そこで東大医学部の先輩である緒方正規と再会しました。緒方は既に東京帝国大学の教授であり、衛生局試験所の所長も務めていました。北里の勤勉さをよく知っていた緒方の計らいで、1886年に北里はドイツ・ベルリン大学への国費留学を許可され、細菌学の世界的権威であるロベルト・コッホ博士の衛生研究所に入所しました。 

 北里は、当時世界中の細菌学者が成し遂げていなかったコレラ菌とチフス菌の培養に取り組みました。新人研究員でありながら、この難題を任されたのは、コッホ博士が北里を高く評価していたからです。北里は毎日寝る間を惜しんで研究に励み、コレラ菌の正体を徐々に解明していきました。

 その結果、北里はベルリン大学衛生研究所にとって不可欠な存在となり、明治政府から他の研究室に移す要請があった際には、コッホ博士自身がこれを断ったほどでした。

破傷風菌の純粋培養に成功

次に北里柴三郎が取り組んだのは、破傷風菌の純粋培養でした。破傷風菌は土壌に生息し、傷口を通じて人体に入ると致命的な病気を引き起こす恐ろしい病原体です。ロベルト・コッホ博士からこの研究を任された北里でしたが、当初の実験は失敗続きでした。破傷風菌が培地の奥深くに生息し、取り出す際に他の菌と混ざってしまうためです。

 北里は破傷風菌が空気を嫌う性質を持っていると考え、空気ではなく水素の中で菌を培養する特殊な実験装置を自作しました。その結果、1889年に世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功しました。

血清療法を確立し、世界から注目を浴びる

さらに北里柴三郎は、弱い破傷風菌をマウスに投与することで、体内にその毒素を無毒化する抗体が生成されることに注目しました。このマウスの血液から血清を取り出し、別のマウスに投与することで、破傷風にかからないマウスを作り出すことに成功しました。 

 この方法は「血清療法」と呼ばれ、現代のワクチンによる予防接種の基礎となっています。1890年に発表されたこの血清療法の発見は、第1回ノーベル生理学・医学賞の候補となりましたが、受賞したのは共同研究者でした。 

 それでも、この研究成果により、世界中の研究所や大学から北里に来てほしいというオファーが殺到しました。しかし、国費留学中の北里は、自身の目的が日本の衛生環境の改善であるとして、すべての申し出を断りました。

日本へ帰国し福沢諭吉の援助も得て伝染病研究所を設立

1892年に帰国した北里柴三郎は、日本の衛生環境の悪さに強い危機感を抱きました。当時、日本ではコレラや赤痢、天然痘などの伝染病が頻繁に流行し、30,000人以上が命を落としていました。この状況を改善するために、北里は福沢諭吉らの支援を受けて、日本初の民間伝染病研究所である「私立伝染病研究所」を設立しました。

 しかし、地元住民はこの施設の建設に強く反対しました。そこで福沢諭吉は、研究所の近くに自分の子供の新居を建てて住まわせることで、安全性をアピールし、住民の理解を得ました。さらに、1893年には、福沢諭吉らの支援で結核専門病院「土筆ケ岡養生園」を開院しました。当時、結核は若い世代の主要な死亡原因であり、社会経済に大きな影響を与えていた恐ろしい病気でした。

香港で流行したペストを抑え込む

1894年、香港でペストが大流行すると、明治政府は北里柴三郎に調査研究を命じました。当時、遺体の解剖は死者への冒涜とされていましたが、北里は密かに解剖を行い、ペスト菌を特定することに成功しました。しかし、研究仲間が次々とペストに感染して倒れたため、明治政府は北里に帰国を命じました。 

 それでも北里は命令を無視して研究を続け、石灰水や直射日光でペスト菌が死滅すること、患者の家のネズミが菌を媒介していることを発見しました。これにより、家屋の消毒とネズミの駆除を徹底し、香港におけるペストの大流行を抑え込むことに成功しました。

北里研究所の設立

(画像引用: 博物館明治村)

帰国後の1897年、北里柴三郎の働きかけで、上下水道の整備や検疫・公衆衛生を含む「伝染病予防法」が成立しました。1899年に日本でペストが発生した際には、北里が陣頭指揮を執り、大流行を防ぎました。

 1906年北里は私費を投じて私立北里研究所を設立し、狂犬病やインフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組みました。この研究所には、後に赤痢菌を発見する志賀潔や、黄熱病や梅毒の研究を行った野口英世など、世界の伝染病研究を担う多くの研究者が在籍しました。 

 1917年、福沢諭吉が創立した慶應義塾大学に医学科が設立された際、北里は無給で医学科長を引き受けました。また、1923年に全国の医師会が日本医師会として統一された際、北里が初代会長に就任しました。1931年6月、北里柴三郎は78歳でその生涯を閉じましたが、彼は生涯を通じて伝染病研究に身を捧げ、日本の公衆衛生の発展に大きく貢献しました。

北里柴三郎の死因

1931年6月13日午前5時、北里柴三郎は脳溢血のため東京・麻布の自宅で亡くなりました。享年79歳。葬儀は6月17日に青山斎場で行われ、青山墓地に埋葬されました。

脳溢血とは、脳内の細い血管が破れて血液が溜まり、周囲の神経細胞を圧迫する状態を指します。これにより神経細胞の働きが障害され、さまざまな症状が現れます。脳溢血には前兆がなく、突然発症するため、北里柴三郎も脳溢血によって突如として亡くなりました。

北里柴三郎の性格

(画像引用: フォーサイト)

北里柴三郎が数々の功績を残せたのは、粘り強く原因を突き止めて問題を解決する性格によるものです。彼は問題の原因を見つけ出し、解決する能力に長けていました。実験がうまくいかない場合でも、その失敗から原因を見出し、答えを導き出す姿勢を持っていました。 

 特に破傷風の研究では多くの困難に直面しました。破傷風菌の純粋培養は非常に難しく、多くの研究者が「できない」と結論付けていました。しかし、北里は諦めず、破傷風菌が空気を嫌う性質に注目して様々な培養法に挑戦しました。何度も失敗を繰り返した末、密閉型の「亀の子シャーレ」を使った培養装置を作り出し、純粋培養に成功しました。 

 さらに彼は、破傷風の治療法を追求し続けました。破傷風菌が出す毒が病気の原因であることを突き止め、その毒に耐える免疫血清を体内に入れることで治療できることを発見しました。北里は「ひとときも怠ることなかれ」という言葉を残しており、患者のためにどんな不測の事態にも対応できるよう、治療法や予防法の追求に邁進していました。

北里柴三郎のエピソード

それでは最後に北里柴三郎のエピソードを見ていきましょう。北里柴三郎も様々なエピソードがあるので必見です!

柴”三郎”だけど実は長男

北里柴三郎は「柴三郎」という名前から三男だと思われがちですが、実は長男でした。生まれつき健康体で、ほとんど病気をしたことがなく、血気盛んな性格でした。

あだ名は雷親父

北里柴三郎は、強い信念を持って研究に取り組んでいたため、門下生から「ドンネル」(ドイツ語で「雷おやじ」)というニックネームを付けられていました。九州男児らしい頑固一徹な性格で、がっしりとした体から大声を響かせ、日常的に門下生に厳しく接していました。 

 しかし、北里がただ怒っていたわけではありませんでした。彼は、人命を守るための重要な研究を行っていること、また一歩間違えれば研究者自身が危険にさらされる実験であることから、門下生に自己を律して正確な結果を導き出してほしいと願っていたのです。そのため、あえて厳しい態度を取っていたのです。

ノーベル賞を逃した理由

(画像引用: editage insights)

1901年に始まったノーベル賞は、科学界にとって大きなイベントでした。欧米諸国は国を挙げて受賞運動を展開し、コッホの弟子であるエミール・ベーリングが「ジフテリア血清療法の開発」により第一回のノーベル医学生理学賞を受賞しました。ベーリングの研究は、北里柴三郎の破傷風研究に基づいたものでした。そのため研究内容だけを見たら北里柴三郎が受賞することが予想されていました。

 しかしベーリングにはドイツの全面的な支援があった一方で、北里は日本国内で東大との脚気菌論争や政府との対立から公的支援を受けられませんでした。このため、北里は国からの支援を欠いた状態で、ノーベル賞受賞を逃すこととなりました。

国産体温計メーカー テルモの創設にも尽力

(画像引用: TERUMO)

伝染病の予防と細菌学の研究で多くの功績を残し、“近代医学の父”と称される北里柴三郎は、体温計メーカーのテルモの創設にも関わりました。当時、日本では体温計をドイツから輸入していましたが、第一次世界大戦の影響で輸入が途絶えました。これに対し、医師たちの間で国産の体温計を作ろうという動きが起こりました。

 東京医師会の会長は、真っ先に北里に相談を持ちかけました。北里は「病気を未然に防ぐことが医者の使命」という強い信念を持っており、国産体温計の必要性を強く感じていました。そこで、彼はテルモの前身である「赤線検温器株式会社」の設立に賛同し、設立総会では議長も務めました。 

医学研究者が民間企業の設立に関わることは珍しいかもしれませんが、北里の行動には予防医学への強い思いと、国民医療にとって国産体温計が不可欠であるという信念がありました。テルモの企業理念「医療を通じて社会に貢献」は、まさに北里の思いを受け継いだものです。

実は慶應義塾大学医学部の創設にも大きく関わっている

(画像引用: 慶應義塾大学医学部・医学系研究所)

北里柴三郎というと北里研究所、そこから派生した北里大学が連想されますが、実は慶應義塾大学医学部の創設にも大きく関わっています。北里柴三郎はかつて所属していた東大の研究室の教授の論文の主張を否定したり政府と対立するなどして、ドイツ留学で功績をあげて帰国したにもかかわらず日本で孤立していました。そんな北里柴三郎に救いの手を差し伸べたのが福沢諭吉でした。日本での所属研究室の当てがなかった北里柴三郎に対し私財を投げうって伝染病研究所を設立させるなどかなり北里柴三郎に対し協力姿勢を示していました。

福澤諭吉の没後、慶應義塾は創立60周年を迎え、北里柴三郎の協力を得て大学部に医学科を新設する計画を立てました。1917年に開設された医学科で、北里は初代学科長(後の医学部長)に就任しました。創立記念パーティーでは「私は福澤先生の門下生ではありませんが、先生の恩恵を受けたことは門下生以上です」と語り、聴衆に感謝の意を表しました。

1928年(昭和3年)まで医学部長を務めた北里は、その後も顧問として生涯にわたり慶應義塾大学医学部を支え続けました。彼の功績を讃え、1937年に北里記念医学図書館が誕生しました。図書館の入口にある北里の胸像は、今日も信濃町キャンパスで医学を志す若者たちを見守っています。

新しい千円札の顔になった理由

北里柴三郎は、近代日本医学の父であり、「感染症はそもそも予防が重要」という考え方を広めました。コロナ禍を経験した今、多くの人が改めて感染症予防の重要性を認識していることでしょう。

北里が新しい千円札の顔に選ばれたのは、感染症で命を落とす人々が減るようにという願いが込められています。

まとめ

いかがでしたでしょうか?今回紹介したように北里柴三郎は、その生涯を通じて感染症の予防と細菌学の研究に尽力し、現代医学に多大な影響を与えました。破傷風菌の純培養や血清療法の確立など、彼の業績は今なお世界中で評価されています。

また、福沢諭吉の支援を受けて設立した研究所や、体温計メーカーのテルモ創設にも関わり、日本の医療基盤の発展に貢献しました。彼の信念と情熱は、今日も私たちに感染症予防の重要性を再認識させ、その偉大な遺産として生き続けています。

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