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高杉晋作は何した人か簡単な年表、死因、性格やエピソードを紹介

皆さん、幕末の風雲児 高杉晋作をご存じでしょうか?日本の大きな革変期である幕末を駆け抜けた長州藩の寵児が高杉晋作です。上海施設へ行った際に列強諸国のほぼ植民地化のような状態の中国を目の当たりにして倒幕を決意し、日本に戻って奇兵隊の結成まで行ったことでも有名な高杉晋作。長州藩の代表として幕末を駆け抜け、29歳の若さで亡くなってはしまいましたが、明治政府の礎を築いた功績は計り知れません。今回はそんな高杉晋作について見ていきます。

高杉晋作は何した人?

(画像引用: 近代日本人の肖像)

高杉晋作は、日本の幕末期に活躍した長州藩の武士です。高杉晋作は幼少期より吉田松陰の私塾「松下村塾」で学び、西洋の技術や思想を取り入れる重要性を学びました。

1858年に江戸、1859年には長崎に留学し、特に海軍技術に興味を持ちました。そして高杉晋作にとって契機だったのは1862年に上海へ渡った経験です。当時欧米に半植民地化されていた状態の上海を目の当たりにして、「日本の今の幕府のままでは海外の国に支配されてしまう」と強い危機感を抱き、倒幕の意思を固めました。そして日本へ戻り、倒幕ヘム向けた奇兵隊を結成しました。これは武士以外の農民や商人も含む新しい軍隊で、倒幕運動において重要な役割を果たしました。

晋作はまたそれ以外でも尊王攘夷運動の中心人物としても活躍し、1864年の禁門の変や四国連合艦隊による下関戦争などで指導的役割を果たしました。しかし、1867年に結核で29歳の若さで病死しました。

彼の思想や行動は、後の明治維新に大きな影響を与え、日本の近代化と改革の象徴的な人物として尊敬されています。高杉晋作の先見性と行動力は、日本社会を大きく変え、後世に多大な影響を与え続けています。

高杉晋作の簡単な年表

それでは高杉晋作が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。

幼少期の吉田松陰との出会い

高杉晋作は1839年(天保10年)に長州藩士の高杉小忠太の長男として生まれました。7歳の時に寺子屋「吉松塾」に通い始め、そこで後にライバルであり親友となる久坂玄瑞と出会いました。

1852年(嘉永5年)、13歳になると藩校「明倫館」に通い始めましたが、そこでの教育に物足りなさを感じていた高杉は、1857年(安政4年)に久坂の紹介で吉田松陰が主宰する「松下村塾」に通うようになります。

吉田松陰は当時、長州で最も優れた思想家とされ、身分を問わず誰でも受け入れる松下村塾を主宰していました。高杉の家族は保守的で、特に吉田松陰の危険な思想を警戒していましたが、高杉晋作は松陰の思想と実行力に強く惹かれました。家族の反対にもかかわらず、高杉は毎晩こっそり家を抜け出し、3km離れた松下村塾に通ったと言われています。

高杉の頑固さは有名で、桂小五郎が吉田松陰に高杉の性格を矯正してほしいと相談した際、松陰は「頑固を矯正すれば中途半端な人間になってしまう。高杉は10年後に大きなことを成し遂げるだろう」と答えました。この言葉を聞いた高杉晋作は、期待に応えるべく勉学に励み、さらに吉田松陰に心酔していきました。

松下村塾での高杉晋作

吉田松陰は、高杉晋作と久坂玄瑞の性格を見抜き、2人をライバル関係に置くことで切磋琢磨させました。これにより、2人は「松門の双璧」と称されるまでに成長しました。

1858年(安政5年)、高杉晋作が江戸へ遊学する際、吉田松陰は手紙で「玄瑞の才は晋作の識を高め、晋作の識は玄瑞の才を推し進める」と述べています。吉田は、両者が互いに影響し合うことで、より大きな成果を上げることを期待していました。また、「暢夫(晋作)は議論の精識において、私を超えている」と称賛し、出遅れて焦っていた晋作を励ましたのです。

吉田松陰との手紙のやり取りを通じて、高杉晋作は「男の死に場所とはどこか」と問いかけました。これに対し、吉田松陰は「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつまでも生くべし」と答えました。この死生観は高杉晋作に大きな影響を与えました。

吉田松陰のこうした教育方針が、高杉晋作の後の「奇兵隊」結成や尊王攘夷運動に繋がったとされています。高杉晋作は松陰の指導のもとで成長し、幕末の日本において重要な役割を果たす人物となったのです。

吉田松陰の処刑

1859年(安政6年)、幕府は反対勢力を弾圧する「安政の大獄」を実施し、吉田松陰は捕らえられ、江戸の伝馬町牢屋敷に投獄されました。高杉晋作は頻繁に松陰を見舞い、差し入れや世話を行いました。

この行動を憂慮した長州藩は、高杉晋作らが吉田松陰の奪還を企てる可能性を危惧し、彼に帰郷を命じました。その結果、吉田松陰は萩へ護送される途中で斬首されてしまいました。高杉晋作は、師である松陰の死を深く悲しみ、その教えと精神を胸に刻んでいきました。

高杉晋作の上海視察

萩に戻った高杉晋作は、両親の勧めで「萩城下一の美人」と称されたマサと結婚しましたが、すぐに江戸への航海実習と北関東・北陸への剣術修行の旅に出発しました。その旅の途中、信州で佐久間象山に会い、「外国を見なければならない」という教えを受け、諸外国の様子を知りたいと強く思うようになりました。これは、師である吉田松陰でさえ果たせなかった夢でした。

1862年(文久2年)、24歳の高杉晋作は長州藩の代表として海外視察を命じられ、中国の上海を訪れることになりました。そこで彼は、西洋人に過酷な条件で使役される中国の人々を目の当たりにし、強い衝撃を受けました。「上海はイギリス・フランスの属領になっている」と感じ、強い危機感を抱いたのです。

高杉晋作は上海滞在中の日記にこう記しました。「上海の形勢を見るに、支那人はことごとく外国人に使役され、英仏人が街を歩けば清人は道をよける。実に上海は清国の地でありながら英仏の属国と言ってよい。日本も心すべきである。これは支那だけのことではない」と。その後、7月14日に帰国した際、「わが神州も早急に攘夷の策をめぐらさなければ、支那の覆轍を踏むことになるだろう」と結論を記しました。

この上海渡航体験を通じて、高杉晋作は清国の現状や列強の動向を把握し、国家主義的な危機意識に目覚めました。彼は富国強兵と攘夷を実行することが日本の生き残る道だと確信し、その後も一貫して攘夷、開国、倒幕の道を進み続けました。

高杉晋作のイギリス公使館を焼き討ちと奇兵隊の結成

(画像引用: Walkerplus+)

高杉晋作は海外視察から帰国後、幕府の無能さに失望し、幕府打倒を決意します。長州藩は彼の過激な行動を抑えようとしましたが、晋作は藩に暇を願い出て、1862年12月、同志と共に建設中のイギリス公使館を焼き討ちしました。

1863年5月10日、長州藩は開国に反対し、沿岸を航海する外国船に砲撃を加えました。しかし、その1ヵ月後、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの艦隊による報復を受け、長州藩は惨敗しました。この状況に直面し、長州藩は晋作に意見を求めました。

晋作は「有志の志を募り、一隊を創立し、名付けて『奇兵隊』といわん」と提案しました。奇兵隊の結成は、吉田松陰の「草莽崛起」の教えに基づき、地位や立場に関係なく志のある者を募るものでした。武士だけでなく、農民や漁民、町人も兵士として採用され、徴兵制ではなく有志による参加が画期的でした。奇兵隊は近代的な兵器を装備し、西洋式の戦略を用いて下関の防衛を任されました。

しかし、武士階級と民間の志願兵との間で紛争が発生し、「教法寺事件」として知られる事件で奇兵隊士が武士に斬りつけました。この結果、晋作はわずか3ヵ月で奇兵隊の総督を罷免されました。その後も軍の方針を巡って他の藩士と対立し、脱藩を試みるも捕らえられ、牢に幽閉されました。

高杉晋作による第一次・第二次長州征伐

1863年の「八月十八日の政変」で京都から追放された長州藩は、翌1864年に会津藩主・松平容保を排除するため「禁門の変」を起こしましたが失敗し、「朝敵」となりました。これにより、幕府は全国の大名を動員し「第一次長州征伐」を開始しました。さらに欧米の艦隊により下関の砲台陣地が占領され、長州藩は300万ドル(当時の日本円で900億円)の賠償金を要求されました。

長州藩はこの危機的状況で高杉晋作に期待を寄せ、彼を釈放し、欧米艦隊との停戦交渉を任せました。晋作は「賠償金は江戸幕府に請求すべきだ」と主張し、支払いを拒否しました。この毅然とした態度により賠償金の請求は幕府に対して行われ、停戦が成立しました。

しかし、第一次長州征伐は続きました。幕府軍15万に対し長州藩軍は4,000と圧倒的に不利でした。長州藩内の恭順派は尊皇攘夷派(正義派)を追放しようとし、晋作は九州福岡に隠遁しました。その後、長州藩は幕府の要求を受け、家老3名と軍参謀4名を処刑しました。

これに憤慨した晋作は長州に帰還し、決起を呼びかけました。集まったのはわずか84名でしたが、功山寺で挙兵し、下関の役所を占拠しました。晋作はここから藩内に決起を促し、最終的に3,000人以上の軍を集めて萩に進軍し、恭順派を一掃しました。これにより長州藩は再び倒幕に向けて動き出しました。

その後、晋作は藩の要職には就かず、イギリス留学を目指し長崎に向かいました。しかし、1866年(慶応2年)、幕府が「第二次長州征伐」を開始し、長州藩は再び晋作を呼び戻しました。晋作は海軍総督として指揮を執り、彼の戦略により長州軍は幕府軍に次々と勝利しました。これにより、長州藩は倒幕運動の中心的存在としての地位を確立しました。

高杉晋作の死因

(画像引用: 山口いいとこ発見!)

高杉晋作の死因は当時不治の病と言われていた肺結核でした。倒幕のために活動をしていましたが、大政奉還を見ることなくこの世を去っています。わずか27歳の若さでした。1866年の四境戦争中、高杉晋作は小倉口での攻防が始まった頃から体調不良を訴え始めました。彼は頻繁に熱を出し、咳が止まらないといった症状に悩まされましたが、これは生まれつきの呼吸器系の疾患によるものでした。一時は症状が落ち着きましたが、藩のために精力的に働いた結果、病状が悪化し喀血する事態となりました。

晋作は病床に伏すことが多くなり、愛人おうのと共に下関の桜山に建てた小さな家「東行庵」に移り住みました。彼は体調が良い時には油断し、和議の条件を夜半まで論じた結果、再び喀血してしまいました。

晋作は「人は人吾は我なり山の奥に棲みてこそ知れ世の浮沈」と詠み、時代の波に取り残される寂しさを表現しました。また、見舞いに訪れた野村望東尼に「おもしろきこともなき世をおもしろく」と上の句を示し、望東尼が「すみなすものは心なりけり」と続けたこともありました。

1867年3月、晋作の病状が急激に悪化し、両親と妻のまさが見舞いに訪れましたが、彼の病状は非常に悪く、多くの吐血があったと伝えられています。最期の時には、おうのと望東尼、僧侶の桧龍眼が看病にあたり、まさの出る幕はなかったといいます。

同じく3月、晋作の臨終が近いとの知らせを受けた藩は、晋作を初代とする谷家に百石を与え、その功績に報いました。晋作は1867年4月13日の深夜に亡くなりました。彼の遺骸は遺言により、奇兵隊の本陣があった厚狭郡吉田村の清水山に埋葬されました。

愛人おうのは仏門に入り、谷家を継いで谷梅処と称し、晋作の菩提を弔い続けました。現在、東行庵は四季折々の花々が美しい場所として、多くの人々の憩いの場となっています。

高杉晋作の性格

(画像引用: 致致出版社)

高杉晋作は、その非凡な能力と強烈な個性で知られています。彼は特に興味を持ったことには全力で取り組む一方で、それ以外のことには全く関心を示さない非常に頑固な性格でした。この頑固さは、彼の成功と困難の両方に大きく影響を与えました。

晋作の頑固な性格は、彼が吉田松陰の松下村塾に入門した時から明らかでした。彼は好きなことには深く没頭し、他のことには無関心を貫く姿勢を持っていました。この性格が時には問題となり、周囲との衝突を招くこともありました。しかし、松陰は晋作のこの頑固さを短所とせず、むしろ彼の指導者としての資質と捉えました。

吉田松陰は晋作の頑固さを尊重し、彼を急いで矯正するのではなく、時間をかけて成長させる方針を取りました。松陰は友人である桂小五郎との会話を通じて晋作に手紙を送り、彼の頑固さが長所に転じるような助言を行いました。松陰は「高杉を10年間放っておく」と述べ、過度な干渉を避けることが重要であると考えました。

このアプローチにより、晋作は自らの生き方について深く考える機会を得ました。彼は松陰の助言を受け入れ、自分の頑固さをリーダーシップの一環として活かすことができました。例えば、奇兵隊の結成においては、自らの信念を貫き、多様な人々を統率する力を発揮しました。

晋作の頑固な性格はまた、彼が新しいことに挑戦し続ける原動力となりました。彼は欧米の技術や文化を学び、日本の未来を見据えた改革を推進しました。このように、彼の頑固さは、自己成長と社会変革の両方に寄与しました。

最終的に、高杉晋作の頑固さは彼の強さとなり、幕末の日本において重要な役割を果たしました。吉田松陰の指導のもと、彼はその性格を長所に変え、困難な時代においても自らの道を切り開いていきました。彼の生涯は、短所を長所に転じる可能性と、人間の成長の可能性を示す一例と言えるでしょう。

高杉晋作のエピソード

それでは最後に高杉晋作のエピソードを見ていきましょう。高杉晋作も様々なエピソードがあるので必見です!

顔と身長がコンプレックスだった?

高杉晋作は「乗った人より馬が丸顔」と評されるほどの面長であり、身長にもコンプレックスを抱いていました。彼の身長は152~158cmと諸説ありますが、当時の日本人男性の平均身長が155cm程度であったことから、晋作は平均よりやや低いか同じくらいだったと考えられます。

このコンプレックスから、晋作は写真を撮る際に直立せず、腰をかがめたり椅子に座ったりしていました。そのため、立位の状態の写真は現存していません。

また、彼の友人や同志である久坂玄瑞や桂小五郎が180cm以上や174cmと高身長であったことも、晋作のコンプレックスを助長したと考えられます。幕末の他の志士たちも西郷隆盛(約180cm)、大久保利通(約178cm)、坂本竜馬(約170cm)と高身長の者が多かったことも影響したかもしれません。

寺田屋事件で坂本龍馬の命を救ったのは高杉晋作がプレゼントしたピストル!?

1866年1月23日、土佐藩の坂本龍馬が伏見の船宿寺田屋で捕り方に襲われる事件が起きました。実はこの寺田屋襲撃事件で龍馬の命を救ったのは、高杉晋作から贈られた一挺のピストルでした。

このピストルは、当時の日本ではほとんど見られなかった最新式の武器であり、アメリカのスミス&ウェッソン社が製造した「スミス&ウェッソンNo.2」でした。龍馬はこのピストルを高杉晋作から贈られたものであると手紙に記しています。

「かの高杉より送られ候ビストールをもって打ち払い――」(慶応2年2月6日付・木戸孝允あて書簡)

このように、高杉晋作が贈ったピストルが寺田屋襲撃事件で坂本龍馬の命を救ったというエピソードは、幕末の激動の時代における英雄たちの絆と運命を象徴しています。

結婚相手はくじで決めた!?

万延元年(1860年)、江戸遊学から帰国した直後、高杉晋作は22歳で妻まさとの婚礼を挙げました。まさは16歳で、萩城下でも指折りの美人とされ、その家柄の良さから縁談が引きも切らず、最終的にはくじ引きで晋作との結婚が決まったという説もあります。

結婚後、晋作とまさはすれ違いが多く、実質的な結婚生活はほとんど送れませんでした。それでも、晋作はこまめに妻に手紙を書き、喜びそうな品物を送るなど、妻への心遣いを忘れませんでした。

一度、結成当初の奇兵隊が死者を出す惨事を起こし、晋作は切腹を覚悟して遺書をしたためました。その遺書には、自分が死んだら家を守り、供養を続けてほしいと武士の妻としての心得を説き、「死んでもあなたのことは忘れない」と妻への深い思いが記されていました。この遺書を読んだまさは、涙を流さずにはいられなかったことでしょう。

このように、高杉晋作は忙しい中でも妻まさへの思いやりを欠かさず、深い絆を保ち続けました。彼の妻への配慮と愛情は、彼の人間性をよく表しています。

高杉晋作は三味線を持ち歩く風流人!?

高杉晋作は、どこに行くにも自前の三味線を持ち歩く風流人でした。愛人おうのと四国へ逃避行する際にも、そして奇兵隊を率いて戦場に出るときにも、三味線は常に彼の手元にありました。

晋作は「三千世界のからすを殺し君と朝寝がしてみたい」や「何をくよくよ川ばた柳水の流れを見てくらす」など、多くの都々逸(どどいつ)を作ったと言われています。当時、三味線に合わせて歌われていた唄が晋作の作として後世に伝わったのではないかとも考えられています。これほどまでに晋作は風流を愛し、楽しみを見出していたのです。

晋作のこの風流な一面は、彼の人間性を豊かにし、多くの人々に愛される要因の一つでした。彼の生涯には多くの戦いや困難がありましたが、三味線の音色とともに楽しみを見つけることを忘れなかったのです。

愛刀は「安芸国佐伯荘住藤原貞安」

高杉晋作は、柳生新陰流の免許皆伝者であり、その愛刀として「安芸国佐伯荘住藤原貞安」を所有していました。この刀は、もともと薩摩藩士の梶原哲之助の差料でしたが、土佐藩士の田中光顕が自身の差料と交換し、さらに高杉晋作が「ぜひに」と譲り受けたものです。

「安芸国佐伯荘住藤原貞安」は、晋作が日本刀を握りしめて写っている写真に収められている刀と推定されています。この刀は、波平鍛冶の流れを汲む刀匠によって鍛えられたと考えられています。波平鍛冶は、平安時代末期に京都から薩摩国に下向した初代行安を始祖とする刀匠群で、薩摩国谷山郡波平に居住して作刀を続けました。波平鍛冶の刀匠が安芸国で作刀した一振とも言われていますが、高杉晋作の死後、この刀は所在不明となり、現在も見つかっていません。

また、晋作は「粟田口」という日本刀も所有していました。「粟田口」は京都市東山区の地名から名付けられた刀工の流派で、平安時代から朝廷に日本刀を納めていました。粟田口派の日本刀は地鉄の精緻さで知られており、全時代・全流派を通じて最高峰と評価されています。ただし、晋作が所有していた具体的な粟田口の作例については不明です。

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回は高杉晋作について見ていきました。高杉晋作は幕末の日本で、長州藩士として活躍した風雲児でした。彼は吉田松陰の教えを受け、奇兵隊を結成し倒幕運動を推進しました。上海視察を経て西洋の脅威を実感し、攘夷と開国の必要性を強く訴えました。また、彼は風流人として三味線を愛し、多くの都々逸を残しました。身長へのコンプレックスや困難を乗り越えつつも、高杉晋作はその強い意志と行動力で日本の近代化に大きな影響を与えました。

本サイトでは高杉晋作以外にも様々な日本の面白い歴史や文化を紹介しています。もし興味ございましたら、他の記事も読んでいただけたら嬉しいです!

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