日本を代表する企業グループといえば三菱グループ。そんな三菱グループの礎を築いた人物をご存じでしょうか。その名は岩崎弥太郎。岩崎弥太郎は、江戸末期から明治初期にかけて日本の経済を一変させた実業家で、その波乱に満ちた人生は多くの人々を魅了します。貧しい地下浪人の家に生まれた弥太郎が、いかにして日本最大の企業集団を築き上げたのか、その秘密と彼の信念、そして卓越した経営手腕に迫っていきます。
岩崎弥太郎は何がすごいの?何した人か紹介
岩崎弥太郎は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した日本の実業家であり、三菱グループの創業者として広く知られています。1835年に土佐藩の地下浪人の家に生まれた彼は、幼少期から貧しい生活を送りながらも、優れた学問の才を発揮し、将来の成功を目指して努力を重ねました。
若い頃、弥太郎は吉田東洋が開設した少林塾に入塾し、ここで後藤象二郎などと共に学びました。後藤象二郎との出会いが彼の出世のきっかけとなり、土佐藩の役人としての道を歩み始めます。さらに、江戸での遊学中に参勤交代の大名行列を見て、徳川幕府の終焉を予見するなど、時代の変革を感じ取る洞察力を持っていました。
明治維新後、弥太郎は土佐藩の商業組織である九十九商会の経営を引き継ぎ、これを三菱商会に発展させました。彼は特に海運業に注力し、西南戦争では政府軍の輸送を担当して莫大な利益を上げました。この利益を元に岩崎弥太郎は多くの分野に実業家として参入しました。彼は東京海上保険会社の設立を援助し、三菱為替店や千川水道会社を設立しました。また、明治生命保険の設立にも力を貸し、幅広い事業展開を行いました。これにより、彼は日本の経済発展に大きな貢献を果たしました。
弥太郎の経営哲学は独裁的であり、権限とリスクを一人に集中させることが企業の活力の源泉であると信じていました。彼は社員に対しても顧客満足を最優先するよう指導し、その結果、三菱商会はお客様本位のサービスで高い評価を得ました。
一方で、三菱商会は政府の助成を受ける中で急成長を遂げましたが、その専横的な経営に対する反発も強まりました。渋沢栄一を中心に設立された共同運輸会社が、三菱商会と激しい競争を繰り広げました。このビジネス戦争は2年半続き、最終的には両社が共倒れの危機に直面し、合併して日本郵船が誕生する結果となりました。
岩崎弥太郎は1885年、50歳で病に倒れましたが、その後も弟の弥之助が三菱を引き継ぎ、さらに発展させました。弥太郎の生涯は、近代日本の経済発展に大きな影響を与えたといえるでしょう。彼の物語は、貧困から始まり、努力と卓越した経営手腕によって成功を収めた波乱に満ちたドラマです。
岩崎弥太郎の簡単な年表
それでは岩崎弥太郎が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。
年 | 出来事 |
1835年 | 土佐国安芸郡井ノ口村の貧しい家で生まれる。 |
1854年 | 奥宮慥斎の従者として江戸へ遊学し、安積艮斎(あさか ごんさい)に学ぶ。 |
1858年 | 家庭問題で江戸から帰国、奉行所に投獄される。同房の商人から算術を学び、出獄後は村を出て吉田東洋の少林塾に入門。 |
1859年 | 藩命で長崎に派遣、金策のため無断帰国したとがで罷免に。郷士株を買い戻し、27歳で喜勢と結婚し、長男・久彌が誕生。 |
1866年 | 藩命により長崎に派遣される。しかし金策のため無断帰国した咎で罷免。 やがて郷士株を買い戻し、27歳で喜勢と結婚、長男・久彌が誕生する。 |
1867年 | 後藤象二郎に開成館長崎商会の主任を命ぜられる。グラバー、ウォルシュ兄弟などの世界の商人と取引。 |
1869年 | 開成館大阪出張所に責任者に抜擢。土佐藩の権少参事に昇格し、海運を主事業とする九十九商会の活動を監督。 |
1873年 | 廃藩置県後、九十九商会の経営を引き受ける。また九十九商会は「三川商会」に社名変更し、その後船旗の三つの菱形にちなんで「三菱商会」へ変更。 |
1874年 | 東京に移転し、三菱蒸汽船会社と改称。国から台湾出兵の軍事輸送を受託し国内屈指の大企業へ成長。 |
1875年 | 上海定期航路開設し、社名を郵便汽船三菱会社に改称。また三菱製鉄所を創設。 |
1876年 | 台湾出兵後、海運会社の育成が急務とされ、船員養成を目的に三菱商船学校を設立。 |
1877年 | 三菱が明治政府より西南戦役軍事輸送受命を受ける。 |
1878年 | 三菱商業学校を設立。 |
1879年 | 東京海上保険会社の設立を援助。また三菱為替店や千川水道会社を設立するなどあらゆる分野に実業家として参入。 |
1881年 | 高島炭坑を買収。また明治生命保険会社の設立を援助。 |
1883年 | 共同運輸会社が開業し、三菱会社と争う。共倒れを危惧した政府の仲介で両社は合併を決定し、日本郵船が発足。 |
1885年 | 2月7日病のため、永眠。 |
貧しい幼少期から学問の道へ
岩崎弥太郎は、1835年に土佐藩(現在の高知県高知市)の地下浪人である岩崎弥次郎の長男として生まれました。地下浪人の家庭は非常に貧しく、弥太郎も幼少期から貧困の中で育ちました。そのため、彼は常に豊かさを求め、江戸で学び成功することを夢見ていました。
1854年、その夢が思わぬ形で実現します。土佐藩の学者である奥宮慥斎の従者として、弥太郎は江戸へ行くことになったのです。そして岩崎弥太郎は、駿河台にあった安積艮斎(あさか ごんさい)の「見山塾」に入塾しました。安積艮斎は江戸末期の著名な朱子学者であり、その私塾には岩崎弥太郎をはじめ、吉田松陰や高杉晋作なども門人として学んでいました。
弥太郎は見山塾でも優秀な成績を収めていました。彼の両親は貧しい生活を送りながらも、弥太郎の遊学費用を工面するために先祖伝来の山林を売って資金を捻出したと言われています。このような家庭の支えがあって、弥太郎は学業に専念することができました。
しかし、1年ほど経った頃、故郷の土佐で父が酒の席で喧嘩をしたことがきっかけで統合されたことを知り、急遽帰郷することになりました。
帰郷後、弥太郎は再び学問の道を追求します。1858年には、土佐藩士である吉田東洋が主宰する少林塾に入塾し、学問に打ち込みました。少林塾での弥太郎の明晰さは吉田東洋に高く評価され、彼は土佐藩の役人としての職を得ることになりました。
その後、弥太郎は1867年に土佐藩の商組織である開成館長崎商会の主任に任命されました。この職務において、彼はイギリス商人のトーマス・ブレーク・グラバーをはじめとする海外商人との取引を担当し、貿易業に関する実務経験を積みました。これが、弥太郎の商人としてのキャリアの始まりとなりました。
「三菱」の会社を作り一気に大企業へ
岩崎弥太郎は、1868年に開成館大阪出張所の責任者に就任し、外国商人や大阪商人との取引でその実力を発揮しました。土佐藩の財政を立て直す中、明治政府が藩営事業を禁止しようとしたため、1869年に土佐藩の首脳である林有造の主導で新たな商組織「九十九商会」が設立されました。弥太郎はこの商会の指揮者として活躍し、海運業を軸に事業を展開しました。
その後、九十九商会は「三川商会」と改名し、1873年には「三菱商会」に改称されました。これにより、弥太郎の統率の下で企業は一層成長していきました。1874年には本拠地を東京の南茅場町に移転し、「三菱蒸気船会社」としてさらに発展を遂げました。
同年、明治政府が台湾への出兵を決意し、その軍の移送を三菱蒸気船会社が担当しました。この結果、社名は「郵便汽船三菱会社」と変更され、政府御用達の企業としての地位を確立しました。さらに、1877年の西南戦争では、三菱は日本国内の汽船総数の約73%を独占するまでに成長しました。
この間、三菱は「三菱商船学校」(現在の東京海洋大学)や「三菱商業学校」(現在の慶應義塾大学の分校)を設立し、明治政府との強固な関係を築きました。これは、大久保利通や大隈重信との親交も影響しており、弥太郎の商才だけでなく、政治的手腕も見せることになりました。
三菱財閥の礎を築き日本経済発展へ大きく貢献
1878年の紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、1881年の明治十四年政変で大隈重信が失脚したことで、岩崎弥太郎は明治政府との強力な後援者を失いました。これを機に弥太郎は「政治不関与」を唱えましたが、その間も事業の拡大を続けました。
弥太郎は、東京海上保険(現在の東京海上日動火災保険)に出資し、高島炭鉱や長崎造船所などの重要な資産を手に入れました。これにより、海運業から始まった三菱は多角化を進め、金融や倉庫業、水道事業まで広範な事業を展開する財閥としての基盤を築きました。
1883年、三菱財閥に対抗するために渋沢栄一、三井、大倉などの財閥が手を組んで「共同運輸会社」を設立しました。この新しい会社は、三菱との間で苛烈な価格競争を繰り広げることになりました。熾烈な価格競争で共倒れになることを恐れた政府は共同の海軍出身の社長を更迭した。そして三菱・共同の首脳会談をセットし、川田小一郎と井上馨の緊迫した話し合いで両社の合併が決まった。「日本郵船」が誕生しました。この合併は、三菱グループのさらなる発展の礎となりました。
その最中、病を患っていた弥太郎の体調が急変し、1885年に50歳でこの世を去りました。弥太郎の死後、三菱財閥は弟の岩崎弥之助が引き継ぎました。弥太郎の商才と多角化戦略は、三菱財閥の基盤を築いただけでなく、その後の日本の経済成長に大きく貢献しました。彼の業績は、現在も続く三菱グループの源流として評価され続けています。
岩崎弥太郎の死因
岩崎弥太郎は1885年2月7日胃がんのため亡くなりました。享年50歳でした。1883年、政府は三菱が反政府政党である立憲改進党へ資金提供していると疑い、三菱をつぶす目的で共同運輸海運会社を設立しました。これにより三菱と共同運輸の間で激しい競争が始まりましたが、岩崎弥太郎はその中で体調を崩し、食事もほとんど取れない状態になりました。
弥太郎を診察した医師は、家族に対して弥太郎が回復不可能であることを伝えました。しかし、弥太郎は症状が軽い日には会社に出向き、調子が悪い日には部下を病床に呼んで仕事の指示を続けました。
そして、1885年2月7日、弥太郎は一時呼吸が停止しましたが、カンフル注射で意識を取り戻し、家族や会社の主要な人々が集まる中、最期の時を迎えました。弥太郎は「自分がやりたかったことは、十のうちまだ一か二しかやっていない。だがもうしかたがない」という言葉を残しました。当時、三菱は共同運輸会社と争い、弥太郎が生涯をかけて築いた海運事業が存亡の危機にありました。そして弥太郎は日本の船による世界航路を実現するという夢を果たせないまま亡くなりました。
その後、弟の岩崎彌之助が三菱を引き継ぎ、「亡き兄の宿志を継ぎ、不撓不屈奮励の所存である」と宣言し、社員の士気を高めました。彌之助は国の大計を考慮し、共同運輸会社との合併を受け入れ、明治18年に『日本郵船』が発足しました。出資比率は三菱が5対共同が6で、新社長には共同の森岡昌純が就任しました。
三菱は海運事業部門を手放しましたが、共同の株主には多くの三菱関係者が含まれていたため、日本郵船のマジョリティーは実質的に三菱が握っていました。その結果、日本郵船は時間とともに三菱色を強め、吉川泰二郎や近藤廉平など三菱出身者が社長となり、弥太郎が夢見た日本の船による世界航路を実現しました。
岩崎弥太郎の性格
岩崎弥太郎は、豪快で大胆な気性と緻密な計算力、優れた判断力を併せ持ち、一代で日本最大の企業集団を築き上げました。彼は他人の意見に惑わされず、常に利益の最大化と支配力の強化を追求し、その経営スタイルは日本人離れしていて、むしろ当時のアメリカの企業家たちと共通するものがありました。
象徴的な出来事として、西南戦争があります。この戦争で三菱は政府軍の物資や兵の輸送に全力を尽くし、自社船38隻に加え7隻の外国船を購入し、終戦時には全国の海運の73%を独占しました。政府からの海上輸送費用は戦費の10%以上を占め、三菱は1877年に約120万円という破天荒な利益を計上しました。
同時期、三井物産は西南戦争関連の取引で純益を大きく伸ばしましたが、それでも三菱の成果とは比較にならない規模でした。弥太郎の経営手腕は、新政府の戦略を理解し、大久保利通との人間的つながりを活用して大胆かつ迅速に資源を投入し、巨額の利益を得るというものでした。
また、弥太郎は会社の全権を社長に集中させるという理念を持ち、これは当時の日本にはない新しい経営スタイルでした。1875年に制定された三菱汽船会社の規則には、会社が岩崎一家の所有運営であり、社長が全権を掌握することが明記されています。この独裁的な経営スタイルは、リスク管理を重視し専門管理者による運営を目指す三井や住友などの伝統的な日本企業とは大きく異なり、新しい企業文化の幕開けを象徴するものでした。
岩崎弥太郎のエピソード
それでは最後に岩崎弥太郎のエピソードを見ていきましょう。岩崎弥太郎も様々なエピソードがあるので必見です!
後藤象二郎のカンニングで優秀さがバレる!?
岩崎弥太郎は幼少期、吉田東洋が開いていた少林塾に入塾しました。この塾には後に明治政府で活躍する土佐藩士の後藤象二郎も在籍しており、岩崎弥太郎は後藤象二郎と吉田東洋との出会いを通じて出世していきました。
あるとき、吉田東洋は後藤象二郎に与えた宿題の答えが非常に優れていることに不審を抱きました。問いただしたところ、象二郎は答えを考えたのは自分ではなく岩崎弥太郎であると告白しました。これを機に、吉田東洋は岩崎弥太郎の才能を認め、一目置くようになりました。その結果、弥太郎は土佐藩の役人としての道を歩むことになりました。
たまたま同じ牢獄にいた商人から算術を教わった!?
岩崎弥太郎は少年時代、念願の江戸遊学を果たし、朱子学者の安積艮斎のもとで学問に励んでいました。しかし、1年ほど経った頃、父・岩崎弥次郎が酒の喧嘩で重傷を負ったと知らせが入り、急遽土佐藩へ帰郷することになりました。
帰郷後、弥太郎は父の喧嘩相手である庄屋との間に仲裁に入りましたが、証人は皆庄屋の味方をし、弥太郎の訴えは奉行所で認められませんでした。腹を立てた弥太郎は奉行所の壁に痛烈な批判を書き込み、その行動が原因で投獄されてしまいました。
しかし、弥太郎は投獄中に同じ牢獄にいた商人から算術を学ぶ機会を得ました。これにより、商売の基本を身につけた弥太郎は、後にその知識を活かして大きな成功を収めることになります。彼のこの経験が、後の三菱財閥の基礎を築く一助となりました。
日本で初めてボーナスを導入したのは岩崎弥太郎
日本のボーナス文化の始まりは1876年の三菱会社だとされています。1874年、三菱は台湾出兵に協力し、政府の信頼を得ました。翌年には上海航路を開設し、政府の支援を受けてパシフィック・メイル社の権益を買収することに成功しました。しかし、1876年には英国のピー・アンド・オー社が日本航路に進出し、三菱は激しい価格競争に巻き込まれました。
この時、岩崎弥太郎は大胆なリストラと経費削減を行い、自身の給与を50%減額するなどの対策を取りました。社員も給与の一部を返上し、一丸となって競争に立ち向かいました。6カ月の激戦の末、ピー・アンド・オー社は撤退し、三菱は勝利を収めました。
弥太郎は社員の奮闘に報いるため、1876年12月28日に年末賞与を支給しました。これは社員の働きを評価し、資格ごとに一律に支給されたものです。この賞与は各人の月給のおよそ1カ月分に相当しました。
この賞与が毎年恒常的に支給されるようになったのは1888年からですが、日本で初めてボーナスを導入したのは、社員の努力に報いたいという岩崎弥太郎の意思によるものでした。
お店の前におかめの面を置いた!?
岩崎弥太郎が経営していた三菱商会の主な事業は海運業でした。当時、海運業の最大手は国有企業の「日本国郵便汽船会社」でしたが、その企業は横柄な態度で評判が悪かったです。そこで、三菱商会はお店の正面に「おかめのお面」を掲げました。このお面には、「店員たちが温和な顔つきでお客様に接し、和やかな気分を提供する」という願いが込められていました。
このおかめのお面を見た福沢諭吉は、「店内に愛敬を重んじさせるのは、近ごろの社長にはできぬこと。岩崎は商売の本質を知っている」と感心したと言われています。実際、三菱商会の社員はお客様に対して常に笑顔で接し、お客様本位のサービスを提供することで好評を得ていました。
岩崎弥太郎のこのような商才は、単に利益を追求するだけでなく、顧客満足を重視する姿勢からも明らかです。彼の経営哲学は、三菱商会の成功の一因となりました。
ちなみにそのおかめの面は三菱一号美術館で見学することが出来ます。興味ある方はぜひ訪れてみてください。
三菱マークの起源
今の三菱グループの起源は、土佐藩藩士たちが立ち上げた九十九商会にあります。九十九とは土佐湾の別名です。後に岩崎弥太郎が藩の立場から事業を監督する役職に就き、廃藩置県後、彼が九十九商会の経営者となり、社名を三菱商会へと変更しました。
三菱のマークの起源については、岩崎家の家紋「三階菱」(正確には「重ね三階菱」)と、岩崎弥太郎の出身藩である土佐藩藩主の山内家の家紋「三ツ柏」を組み合わせたものだと説明されることが多いです。
しかし、実際にはいくつかの疑問が残ります。明治3年の九十九商会発足時点では、弥太郎はまだ藩の代表として経営を監督する立場にあり、オーナー的立場にはありませんでした。また、主君に仕える身でありながら自分の家紋と主君の家紋を組み合わせるという発想をするのは考えにくいです。
もともと「三ツ柏」は丸に入っていないと遠くからは三つのひょろ長い菱形に見えます。初期の九十九商会のマークも菱形がひょろ長く、中心に円がある点で三ツ柏と似ています。このことから、三菱のマークは山内家の家紋「三ツ柏」をデザイン化したものと考える方が自然ではないでしょうか。
紀州藩の船にぶつけ、多額な賠償金を支払わされそうになった!?
坂本龍馬が設立した日本最古の商社である亀山社中は、後に海援隊という会社に変わりました。岩崎弥太郎はこの海援隊の会計を務めていました。
海援隊が使用していた「いろは丸」は、伊予大洲藩から借りた45馬力・160トンの船でしたが、初航海中に150馬力・887トンの紀州藩船「明光丸」と衝突し、沈没してしまいました。この事故で、岩崎弥太郎や坂本龍馬、後藤象二郎は紀州藩との交渉に臨みました。
交渉は困難を極めましたが、最終的に紀州藩が7万両の賠償金を支払うことで解決しました。この交渉が成功した背景には、岩崎弥太郎の手腕が大きく影響していました。坂本龍馬は一時、紀州藩との戦いを覚悟し、妻に「万が一の時はよろしく」という手紙を送るほど、当時の海援隊は危機的な状況にありましたが、弥太郎の交渉により事態は収束しました。
岩崎弥太郎と台湾出兵
1871年、台湾に漂着した琉球の島民54名が殺害される事件が発生し、日本と清の国交が緊張状態に陥りました。これを受けて、1874年、明治政府は台湾への出兵を決意しました。当初、兵の輸送を米国や英国の船会社に依頼しましたが、中立の立場を理由に協力を拒まれました。そのため、政府はやむを得ず「日本国郵便蒸汽船会社」に依頼することにしました。
明治政府は大型船を購入し日本国郵便蒸汽船会社に提供しましたが、同社は三菱蒸汽船会社との対立関係にあり、軍事輸送中に沿岸航路の顧客を三菱に奪われることを懸念して協力を渋っていました。
政府は日本国郵便蒸汽船会社に見切りをつけ、大隈重信自らが三菱蒸汽船会社に協力を要請しました。岩崎弥太郎は「国あっての三菱」と応じ、台湾への軍事輸送を引き受けました。この任務により三菱蒸汽船会社は3隻の大型船を手に入れ、沿岸航路での競争力を一層強化しました。結果として、日本国郵便蒸汽船会社は1875年に解散しました。
渋沢栄一と対極の経営方針
岩崎弥太郎と渋沢栄一は、明治の日本経済を代表する二人の実業家でありながら、全く異なる経営信念を持っていました。岩崎弥太郎は権限とリスクを一人に集中させる独裁的な経営を信じ、三菱商会を率いました。一方、渋沢栄一は、多くの人々の資本と知恵を結集する合本主義を唱え、多数の株主による会社設立を推進しました。
渋沢栄一は、岩崎弥太郎の誕生から6年後に埼玉県深谷の富農の家に生まれました。若い頃は尊王攘夷運動に関わりましたが、後に一橋家に仕え、徳川慶喜の弟・昭武の訪欧に随行し、各地で近代国家のシステムを学びました。維新後は大蔵省に入り、財政金融制度の確立に尽力しましたが、1873年に辞職し、その後は民間で多数の会社設立に関与しました。
一方、岩崎弥太郎は、明治8年に制定した三菱汽船会社規則に「会社の名を命じ会社の体をなすといえども、その実全く一家の事業にして、会社に関する一切のことは全て社長の特裁を仰ぐべし」と明記し、独裁的な経営を貫きました。
両者は向島の料亭で酒宴を共にしたことがありますが、会社の経営体制について議論が及ぶと雰囲気が一変し、最終的には喧嘩別れとなってしまったようです。渋沢はその詳細を日記に記しましたが、弥太郎側には記録が残っていません。
二人の信念の違いは、共同運輸会社と郵便汽船三菱会社の戦いとして表面化しました。渋沢は、岩崎三菱の独裁的な経営に反発し、政府の助成を受けて共同運輸を設立しました。このビジネス戦争は2年半続き、最終的には両社が合併して日本郵船となりました。
渋沢栄一は、「国家社会があっての企業」という共通の哲学を持ちながらも、岩崎弥太郎とは経営の信念で多くの対立を抱えていました。渋沢は長生きして昭和初期まで日本の発展を見届けましたが、もし彼がGHQによる財閥解体の時代を見ていたら、三菱が最も株式公開が進んでいたことに何を感じたでしょうか。
西南戦争で得た莫大な利益で六義園と清澄庭園を造った
1877年の西南戦争で、三菱は政府軍の輸送を担当し「莫大な利益」を得たとされました。戦費総額は4156万円、三菱の収入は299万円で、当期利益は93万円でした。この利益は当時の東京市の年度予算を超えるものでした。
岩崎弥太郎はこの利益を鉱山事業などに投資し、さらに東京に大きな屋敷を三つ購入しました。まず一つ目は、上野の不忍池に近い下谷茅町の屋敷です。これは元々高田藩榊原家の江戸屋敷で、明治11年に購入されました。8500坪以上の広大な敷地で、弥太郎はここに新しい母屋を建て、明治15年に駿河台から移り住みました。この屋敷で弥太郎は病に倒れ、明治18年2月に家族と三菱幹部に見守られながら亡くなりました。後にこの屋敷は長男の久弥により洋館と和館に建て替えられ、現在は「旧岩崎邸庭園」として公開されています。
二つ目は、深川清澄にある屋敷です。彌太郎はここにいくつかの下屋敷跡を購入し、和風庭園「深川親睦園」を作りました。この庭園は三菱の社員の親睦の場として利用され、「放歌狂吟、人の歓びを破るなかれ」「人に酒を強いるなかれ」などの利用規程が設けられました。後にジョサイア・コンドル設計の洋館が建てられ、社員クラブ兼ゲストハウスとして使用されました。現在は「清澄庭園」として知られています。
三つ目は、駒込の六義園です。元々は五代将軍綱吉の側近柳沢吉保が造った回遊式庭園で、維新後に荒れていました。彌太郎はここに数万本の樹木を移植し、池の周りに巨石を配置して修復に努めました。後に六義園は久弥から東京市に寄付され、現在も市民の憩いの場として利用されています。
幼少期に参勤交代を見て未来を予測した
江戸で遊学していた際、岩崎弥太郎は参勤交代の大名行列を目にし、「こんな形だけのものに力を入れ、いつまでも平和を夢見ているようでは、徳川の時代も終わるのではないか」と語ったとされています。当時はペリー来航後、アメリカに開国を迫られていた時期であり、弥太郎はこの危機的状況にも関わらず、危機感を持たない幕府や幕臣たちに失望していました。彼の洞察は、時代の変革を予見するものでした。
まとめ
いかがでしたでしょうか?岩崎弥太郎は、貧しい出身ながら三菱という日本最大の企業集団を築き上げた経営者でした。幼少期から優れた学問の才を発揮し、土佐藩士として出世した後、三菱商会を立ち上げ、特に海運業で大成功を収めました。西南戦争で政府軍の輸送を担当し、莫大な利益を得た弥太郎は、この利益を元に鉱山事業や東京に広大な庭園を購入するなど、多角的に事業を展開しました。弥太郎の経営哲学は、顧客満足を重視し、社員には温和な態度で接するよう徹底させるものでした。彼の手腕は日本の近代経済に大きな影響を与え、現在も三菱グループの礎として語り継がれています。
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