幕末から明治維新を駆け抜けた英雄たちの中でも、維新の三傑の一人である木戸孝允。彼の生涯は、激動の時代における改革と挑戦の連続でした。鋭い剣術と知性を兼ね備えた彼は、政治家としての非凡な才能を発揮しながらも、時には命を懸けた大ロマンスを繰り広げました。華麗な剣技で名を馳せ、革新的な政策で時代をリードし、愛する女性との絆を貫いた木戸孝允。その魅力あふれる人生を紐解くと、日本の近代化における彼の功績と情熱が、今なお鮮明に浮かび上がってきます。
歴史の陰影の中で、彼が果たした役割とは一体何だったのでしょうか?今回はそんな木戸孝允について紹介していきます。
木戸孝允は何がすごいの?何した人か紹介
木戸孝允は、日本の近代化に大きく貢献した政治家であり、維新三傑の一人としてその名を知られています。1833年、長門国(現在の山口県)に生まれ、父親の和田昌景は長州藩の医者でした。木戸は7歳の時に桂家の養子となり、武士の身分を得ました。
若い頃の木戸は剣術の才に恵まれ、1846年に剣術道場に入門し、1848年には元服を迎えた後、一層剣術の修行に励みました。1852年には江戸に剣術修行に赴き、神道無念流免許皆伝の称号を得るほどの腕前となりました。同時に、1849年からは吉田松陰に師事し、山鹿流の兵法を学びました。吉田松陰も木戸の才能を高く評価し、文武に優れた青年時代を過ごしました。
木戸はペリー来航をきっかけに海外の知識や文化に興味を持ち、日本の未来を真剣に考えるようになりました。長州藩内で頭角を現し、「尊王攘夷」の思想を推進するために奔走しました。しかし、八月十八日の政変によって長州藩の権力が失墜し、命を狙われる危機に陥りました。池田屋事件、禁門の変、第一次長州征伐などの困難を乗り越え、薩長同盟の締結後は長州藩の代表的人物として新政府の成立に尽力しました。
新政府樹立後、木戸は参議として版籍奉還や廃藩置県など中央集権体制の確立に努めました。また、岩倉使節団の副使として欧州を訪れ、西洋の知識や技術を日本に取り入れるために尽力しました。1874年には台湾出兵に反対して参議を辞職しましたが、その後も日本の未来を見据えた活動を続けました。晩年は病気がちとなり、1877年5月、西南戦争の最中に亡くなりました。
木戸孝允の簡単な年表
それでは木戸孝允が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。
年 | 出来事 |
1833年 | 長門国萩城下(現在の山口県萩市)に長州藩藩医・和田昌景の長男として生まれる。 |
1844年 | 桂九郎兵衛の養子となり、武士の身分を得る。この時から「桂小五郎」と名乗る。 |
1849年 | 吉田松陰に入門し、山鹿流兵法を学ぶ。 |
1852年 | 江戸に剣術修行に赴く。神道無念流斎藤道場に入門。 |
1858年 | 萩に帰国。以後、長州藩士として本格的に活動を開始する。 |
1862年 | 他藩渉外役となり、藩の中心的人物となる。 |
1863年 | 八月十八日の政変が起こり、長州藩の立場は一変。孝允も命を狙われる存在となる。 |
1864年 | 池田屋事件、禁門の変が起こる。 |
1866年 | 薩摩藩の西郷隆盛と会談し、薩長同盟を締結する。 |
1870年 | 明治新政府の参議に任命される。 |
1871年 | 岩倉使節団副使として、欧州を歴訪する。 |
1874年 | 台湾出兵に反対し、参議を辞任する。 |
1875年 | 参議に復帰し、地方官会議議長に就任するも、病を発症する。 |
1877年 | 西南戦争の終結を見ることなく、亡くなる。 |
幼いころより頭角を示し長州藩で存在感を示していた
木戸孝允、幼名「桂小五郎」は、1833年6月26日に萩城下で町医者の和田昌景の子として生まれました。8歳の時に桂家の養子となり、それから1865年9月29日まで「桂小五郎孝允」として知られていました。
10代の頃からその才能は際立ち、学業優秀者に贈られる褒賞を受けるなど、早くから頭角を現していました。1849年(嘉永2年)には藩校「明倫館」で吉田松陰の教えを受け、正式な松下村塾の塾生ではなかったものの、松陰の門人として学び続けました。
1860年には水戸藩の尊皇攘夷派と盟約を結び、高杉晋作や久坂玄瑞と共に長州藩内の尊皇攘夷派の中心人物となりました。一方で、勝海舟や坂本龍馬、横井小楠といった開明的な人物たちとも交流し、その柔軟な思想を受け入れる姿勢が彼の特長でした。
やがて、長州藩が御所警護の任を担うことを利用して朝廷内の尊皇攘夷派公家と連携し、京都における存在感を高めました。その結果、「長州に桂小五郎あり」と広く名前が知られるようになりました。このようにして、木戸孝允は幼いころからその才能を発揮し、長州藩で重要な存在となっていったのです。
京都に潜伏し長州藩の信頼回復に奔走
1863年(文久3年)、朝廷内で「八月十八日の政変」が起こると、京都における長州藩の影響力は一気に失われました。桂小五郎も幕府から追われる身となり、尊皇攘夷運動の高まりに危機感を抱いた孝明天皇が、公武合体派公家と薩摩藩、会津藩の両藩を動かし、尊皇攘夷派公家と長州藩勢力を京都から一掃させたためです。
しかし、長州勢力が京都を追われた後も、桂小五郎は京都に潜伏し続け、藩の信頼回復に奔走しました。1865年(慶応元年)には、藩の命令で名を「木戸貫治孝允」に改名します。これは、桂小五郎の名があまりにも有名であったため、幕府の追跡を逃れるための措置でした。
この頃、木戸孝允となった彼は、土佐脱藩浪士の坂本龍馬を介して薩摩藩との接触を開始しました。薩摩藩は、かつて長州藩を京都から追い出した宿敵でしたが、幕府による「第二次長州征伐」が迫る中、中央政局に大きな影響力を持つ薩摩藩との提携は、長州藩が生き残るために不可欠でした。
1866年(慶応2年)1月、京都で「薩長同盟」の密約が成立すると、長州藩の命運は討幕という大きな目標に向けて大きく動き出しました。このように、木戸孝允は京都に潜伏しながら、長州藩の信頼回復と未来のために尽力していたのです。
明治新政府の目玉政策を統括
「王政復古の大号令」が発せられ明治政府が樹立されると、木戸孝允は参与としてその任に就きました。1868年1月には「五箇条の御誓文」を起草し、秋には大久保利通に封建領主制改革の提案を行いました。その結果、1869年に「版籍奉還」が実現し、諸侯たちは領地と領民を政府に差し出しました。
同年、木戸孝允は参議に就任し、1871年の「廃藩置県」にも大きく貢献しました。その後、「岩倉遣外使節団」の副使として海外を視察し、1873年7月に帰国しましたが、政府内では「征韓論」が議論されていました。
木戸孝允は内治拡充の立場から征韓論に反対しましたが、西郷隆盛や江藤新平らが「明治六年の政変」で下野する事態となりました。その後、木戸は参議兼文部卿となりましたが、この頃から健康面での不安が顕著となりました。
1874年、木戸は大久保利通の台湾出兵に反対して参議を辞職しました。一度は政府に復帰したものの、大久保利通との意見の対立や体調の悪化により、第一線から退くことを余儀なくされました。
そして1877年、西郷隆盛が「西南戦争」を引き起こすと、木戸孝允は病床で「西郷君、分かった。分かったから、いい加減にしないか」と呟きながらこの世を去りました。享年45歳でした。
このように、木戸孝允は新政府の重要な政策を統括し、日本の近代化に大きく貢献しました。その生涯は、多くの困難を乗り越えながらも、日本の未来を見据えた改革を推進するものでした。
木戸孝允の死因
木戸孝允は1877年、43歳の若さでこの世を去りました。その死因は「大腸ガンの肝臓転移」であるという説が有力です。彼の最期には、膿と血が混じった便や肝臓の腫瘍の悪化といった症状が見られました。
木戸の死因については、かつて「胃ガン」とも言われていました。これは、彼を診察したドイツ人医師シュルツが「極めて難治の胃病」と診断したことに基づいています。しかし、実際にはガンの転移が原因で亡くなった可能性が高いとされています。
木戸は様々な病に悩まされていました。明治維新の頃から慢性的な腹痛や下痢に苦しみ、1873年には落馬事故で頭を打ち、その後も頭痛に悩まされ続けました。また、もともと鬱になりやすい性格であり、幕末の激動の時期には血気盛んな藩士をまとめ上げ、明治には政策実行の激務に追われる日々が続きました。そのため、気の休まる時がほとんどなく、酒の量も増えていきました。これらの要因が体に大きな負担をかけていたのです。
木戸が亡くなる直前、九州では西郷隆盛を総大将とする西南戦争が勃発していました。木戸は薄れゆく意識の中で、大久保利通の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」と呟きました。彼は最後まで日本の将来を憂いながら、この世を去ったのです。
このように、木戸孝允は多くの病に苦しみながらも、日本の未来を見据えて最後まで尽力し続けた人物でした。
木戸孝允の性格
木戸孝允は、周囲の人々と親密にコミュニケーションを取り、信頼を得ることに非常に長けた人物でした。彼は人の肩書にこだわらない性格であり、当時の役職や肩書が重視される社会においては珍しい存在でした。木戸は上下関係に関わらず、相手に対して傲慢な態度を取らず、必要とあれば飲みにケーションを行い、自宅に招くなどして、関係を築いていました。これにより、自分よりも上の役職の人とも、また下の役職の人とも円滑にコミュニケーションを取ることができました。
特に明治新政府においては、多くの異なる立場や役職の人物から信頼され、仕事の調整をバランスよくこなしていました。中でも、他人を認めることが稀な大久保利通も、木戸孝允については一目置いていました。
しかし、木戸はもともと鬱になりやすい性格でもありました。多くの人々との調整役を務める中で、そのストレスが彼自身に大きな負担をかけていたことは否めません。晩年に体調を崩した原因も、こうした精神的ストレスによるものであったと考えられています。
木戸孝允のエピソード
それでは最後に木戸孝允のエピソードを見ていきましょう。木戸孝允も様々なエピソードがあるので必見です!
10もの名前を持っていて異称は「逃げの小五郎」
大久保利通の唯一の趣味と言われていたのが囲碁です。次男の牧野伸顕は、父が「退屈したり、頭を使い過ぎたりした時に碁を囲んでいた」と語っており、当時愛用していた碁盤と碁石は国の重要文化財に指定されています。
しかし、囲碁は大久保が単なる趣味として楽しんでいただけではありませんでした。若い頃、大久保はこの趣味を藩主に近づくための手段としても利用していました。当時、薩摩藩主であった島津斉彬は、名君として知られ、殖産興業や洋学研究に力を入れていました。大久保は謹慎が解けた後、斉彬の事業を手伝いながら「開国派」として目覚めていきましたが、まだ藩政の中枢には入っていませんでした。
斉彬の急死後、弟の久光が藩のトップに就きました。大久保は久光に近づくため、囲碁を利用することを考えました。囲碁好きの久光が吉祥院というお寺の住職のところで碁を打っていることを知った大久保は、この住職に囲碁を教えてもらうよう頼みました。さらに、久光が読みたがっていた国学者・平田篤胤の『古史伝』を友人から借りて住職に渡しました。
この努力が実を結び、「面白い男がいる」として久光に紹介されることになります。こうして大久保は久光に認められ、勘定方小頭格という大出世を果たしました。これを機に、久光を説得しながら薩摩藩の改革を進めることができるようになったのです。
大久保利通の活躍は、囲碁を通じて得た信頼関係から始まったと言えるでしょう。西郷隆盛なら決して取らないであろう手段を使ってでも、目的を達成する大久保の柔軟さと決断力がここに表れています。
芸妓・幾松と逃亡中の木戸孝允の身分の差を超えた大ロマンス
木戸孝允は、京都の花街で人気の芸妓・幾松と恋に落ち、身分の差を超えた大ロマンスを繰り広げました。二人が運命的に出会ったのは1862年、幾松が20歳の頃でした。当時29歳の桂小五郎(後の木戸孝允)は、長州藩で尊王攘夷を掲げ、久坂玄瑞らとともに朝廷に影響力を及ぼし始めていました。
しかし翌年の文久3年、薩摩藩と会津藩が長州藩を排斥するために八月十八日の政変を起こし、長州藩は失脚しました。元治元年1864年には、長州藩が巻き返しを図って禁門の変を起こしますが敗北。桂は乞食の姿で二条大橋の下に潜み、幾松がひそかに握り飯を届けたという逸話が残っています。また、芝居などでは幾松が新選組の近藤勇の踏み込みから桂を隠し、彼を助けた話も語られています。史実としての確証はないものの、幾松が命の危険にさらされていた桂を助けたことは確かです。
その後、桂は但馬出石に単身で潜伏し、幾松はしばらく対馬藩邸に匿われましたが、幕府の探索の目が厳しくなり、対馬藩士によって下関へ送られました。やがて幾松自ら出石へ桂を迎えに行き、二人で萩城下へ向かう旅が、日本初の新婚旅行とも言われています。
四境戦争(第二次長州征伐)や戊辰戦争の頃、二人は長州で過ごし、1870年に正式に結婚しました。しかし、結婚生活は長く続かず、1877年に木戸は旅先の京都で病に倒れ、松子(幾松)の看病の甲斐なく亡くなりました。松子はその後、木戸の墓を守り、9年後に京都で病没しました。享年44歳でした。
木戸孝允と松子にとって、思い出深い京都は連れ添って眠るのにふさわしい場所であり、彼らの大ロマンスはその地で永遠に刻まれています。
ちょんまげを廃止させたのは木戸孝允
明治維新を成し遂げた新政府は、西洋化を進める方針をめぐり、一つの重要な課題に直面していました。それは「ちょんまげ」の廃止です。「ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」明治文明開化の象徴のように言われた男の断髪スタイルですが、チョンマゲを切り落とすのに、最初はかなり抵抗もあったようです。
しかし西欧諸国に蔑まれたちょんまげでは、欧米列強と対等の近代国家を建設することはできないと考え、断髪を推進したのが木戸孝允でした。木戸は自ら断髪し、明治4年8月に「散髪帯刀勝手令」、いわゆる断髪令を発令しました。しかし、ちょんまげは当時の日本人にとって魂の象徴でもあり、新政府内でも木戸が進める急激な改革に対して岩倉具視らが反発していました。
このちょんまげ問題を解決するために、木戸が注目したのは明治天皇でした。天皇が髷を落とせば、それは新生日本が歩むべき道を国中に明確に示すことになると考えたのです。伝統と儀礼を重んじる宮中を変えるのは至難の業でしたが、木戸の挑戦は続きました。
ついにその時がやってきました。貴族たちが「髷」を結ったのは、冠を戴き易いように髪を頭上で束ねたためで、これは聖徳太子より以前から続く1000年以上の伝統でした。しかし、明治6年3月20日、ついに明治天皇は断髪されました。
新聞で天皇断髪の報道が流れると、ちょんまげを切る動きは全国に広まりました。この断髪の動きは日本全土に広がり、街並みも西洋風に変わっていきました。特に銀座はレンガ造りの街並みへと変貌し、日本は西洋化を一気に加速させました。
このようにして、木戸孝允はちょんまげを廃止することで、日本の近代化と西洋化を推進する重要な役割を果たしました。
日本刀の目利きに長けていた
桂小五郎、後の木戸孝允は、剣豪としても知られ、「神道無念流」を修めました。長州から江戸に出向き、斎藤弥九郎が営む同流道場「練兵館」に入門すると、わずか1年で免許皆伝を許され、その後5年間にわたって塾頭を務めました。
彼の得意とする構えは大上段であり、当時としては高身長の5尺8寸(約174cm)であったことも相まって、竹刀を振りかぶるだけで相手を圧倒しました。塾頭期間中には頻繁に剣術教授を行い、「直心影流男谷派」の剣豪、男谷信友の直弟子を打ち負かしたという伝説も残っています。
木戸孝允の愛刀は「備前長船清光」でありました。備前長船は、現在の岡山県東部に位置し、平安時代中期から日本刀の主要産地として知られていました。中国山地で良質な砂鉄が採取できること、鍛刀の燃料となる炭が生産できること、吉井川の水運が利用できること、そして中国山地の伏流水が焼き入れに必要な良質な水として湧くことなど、好条件が揃っていたのです。
備前刀は日本刀の代表的なブランドであり、備前長船清光はその中でも「末備前」(応仁の乱、文明の乱から室町時代末期に至る時期の備前刀)を代表する名工の一人です。粗悪刀も多かった末備前の時代において、木戸が「注文打」の備前長船清光を愛刀として選んだことは、彼が日本刀の目利きであったことを示しています。
このように、木戸孝允は剣豪としての技量だけでなく、日本刀に対する深い知識と鑑識眼を持った人物であり、その見識は名刀「備前長船清光」を愛用することに表れていました。
木戸孝允と大久保利通
木戸孝允と大久保利通は、ともに長州藩出身であり、維新の三傑として知られていますが、その性格や役割は対照的でした。明治政府の歴史は、攻めの木戸と守りの大久保の綱引きによって形作られたとも言えます。
大隈重信は両者について次のように評しています。「木戸は創業の人、大久保は守成の人。木戸は自動的で、大久保は他動的。木戸は慧敏闊達で、大久保は沈黙重厚。木戸は進歩主義を持ち、大久保は保守主義を奉じていた」と。木戸は旧体制を破壊し、新しいものを創り出す王政維新の論を掲げ、大久保は漸進的に過去の良き時代に戻そうとする王政復古の説に傾いていました。そのため、進歩的改革論者は木戸を支持し、保守的復古論者は大久保を擁護するという構図が生まれました。
しかし、両者はその性格や主義の違いにもかかわらず、互いに補完し合い、独力では成し得なかった業績をともに築き上げました。大隈の評によれば、木戸と大久保の衝突は薩長の軋轢となり、進歩主義と保守主義の一消一長を生み出したとされています。
木戸孝允はその美貌、温和な性格、文化・学問の素養、そして経済的な安定から、明治の三傑の中では個性に欠けると見られることもありました。しかし、彼は若手を集めて飲食の面倒を見たり、長州ファイブがロンドンに渡航する際の資金を工面するなど、若手の育成に力を注いでいました。このような温和でバランスの取れた人物像とともに、大隈が「慧敏闊達」で「旧物を破壊して百事を改革せんとする進歩的改革論者」と評した木戸の側面もあります。
木戸は藩内の過激な攘夷論者をなだめる調整役としての役割も果たしつつ、江戸の三大道場の一つである斎藤弥九郎の練兵館で、わずか一年で塾頭に昇進するほどの剣術の腕前も持っていました。
このような木戸の進歩的改革論者としての情熱は、藩校明倫館で山鹿流兵法を教える吉田松陰からの影響を受けたものであると言えます。吉田松陰から受け継いだDNAが、木戸を熱い改革者として導いたのかもしれません。
このように、木戸孝允と大久保利通の関係は、相反する性格と主義を持ちながらも、互いに補完し合い、明治政府の形成に大きく寄与したものでした。
木戸孝允と西郷隆盛
木戸孝允と西郷隆盛は、維新の三傑として共に明治維新を推進し、薩長同盟を結んで幕府を倒し、明治政府を樹立する上で重要な役割を果たしました。しかし、彼らの関係は意見のすれ違いから次第に険悪なものとなっていきました。
明治政府が成立すると、西郷隆盛は国内で政治を行う一方、木戸孝允(桂小五郎)は岩倉使節団に加わり、欧米の視察に出かけました。木戸ら岩倉使節団が帰国すると、西郷ら征韓論派と対立が深まりました。西郷隆盛らは李氏朝鮮との国交を武力で開き、勢力を伸ばすべきだと主張しましたが、木戸孝允らは視察したヨーロッパと比べて日本の政治体制が脆弱であることを痛感し、国内政治の整備を優先するべきだと主張しました。この対立は最終的に、征韓論が退けられる結果となり、征韓論を主張した西郷らは明治政府を去ることになりました。
政府を去った政治家の中には不平士族に担ぎ出されて反乱を起こす者も現れました。1874年の江藤新平による佐賀の乱から始まり、1876年の萩の乱、神風連の乱、秋月の乱が続きました。そして1877年、西郷隆盛は自ら開いた私塾の生徒と不平士族を率いて反乱を起こしました。この反乱が西南戦争です。
西南戦争で、西郷隆盛はかつての盟友である木戸孝允の政策と対立し、敵対することになりました。結果として西郷は西南戦争で敗れ、自害することとなりました。西南戦争によって不平士族の反乱は終息しました。
木戸孝允も西南戦争が始まる直前に病に倒れ、亡くなりました。征韓論での意見の違いから対立したものの、木戸は西郷に対して特別な思いを抱き続けていました。彼が亡くなる直前に呟いたとされる言葉は、「西郷もいいかげんにしないか」でした。この言葉には、かつて共に戦った友への複雑な思いが込められていたのかもしれません。
まとめ
いかがでしたでしょうか?木戸孝允は、日本の近代化を牽引した重要人物です。幕末に桂小五郎として名を馳せ、鋭い知性と剣術で尊王攘夷を推進。明治維新後は政府の改革を推進し、断髪令を発令して西洋化を進めました。また、京都の芸妓・幾松とのロマンスは、彼の人間味あふれる側面を示しています。彼の功績は、日本の未来を見据えた大胆な行動と情熱に満ちており、今日も多くの示唆と感動を私たちに与え続けています。木戸孝允の物語は、近代日本の礎を築いた英雄の姿を再認識させます。
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