大隈重信は早稲田大学の創設者でもあり、日本の政治家であり、日本に立憲政治を導入した人物でもありますが、具体的にどんなことをした人物なのかご存じでしょうか。負けん気の強さで駐日英国公使と英語で一歩も引かない激論を交わしたり、地租改正や貨幣制度、鉄道開通や万博参加など日本の近代化を進めたり、二度首相にも在任しました。一方で事件で右足を失ったり政権から追放されたりといった暗い出来事もありました。今回はそんな大隈重信の革新と情熱と功績をみていきましょう。
大隈重信は何がすごいの?何した人か紹介
大隈重信は、佐賀藩士の大隈信保と三井子の長男として生まれ、7歳で藩校「弘道館」に入学しました。優秀な成績を収めましたが、漢学中心の閉鎖的な教育に反発し、18歳で館を離れました。その後、蘭学寮で洋学を学びながら、佐賀藩の貿易業務を行うなど若いころから商売経験があり、後の大蔵大臣就任へ繋がります。祭同盟で尊王思想も学び、仲間と共に脱藩して京都へ向かうなど、志士としての活動を行っていました。
明治新政府では、外国事務局判事に任じられ、キリスト教徒の処分問題でイギリス公使パークスと激しく対立しました。その後、大蔵卿、外務大臣、農商務大臣を歴任し、グレゴリオ暦の導入、鉄道の敷設、貨幣制度の整備、東京専門学校(後の早稲田大学)の開校など、数多くの重要な功績を残しました。
明治十四年の政変後、大隈は立憲改進党を結成し、第一次伊藤博文内閣で外務大臣を務めました。1898年には板垣退助と共に隈板内閣を組閣し、日本初の政党内閣を成立させました。この内閣は半年で解散しましたが、1914年には再び総理大臣に就任し、2年後に79歳で内閣が解散となりました。これは総理大臣としての最高齢記録であり、現在に至るまで破られていません。
このように、大隈重信は日本の近代化と政治発展に大きく貢献した偉大な政治家であり、その功績は今日に至るまで高く評価されています。
大隈重信の簡単な年表
それでは大隈重信が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。
年 | 出来事 |
1838年 | 2月16日、大隈信保の長男として佐賀城下会所小路に誕生。 |
1844年 | 藩校弘道館の外生寮に入る。 |
1854年 | 義祭同盟に参加。 |
1855年 | 弘道館で南北騒動が起こり、首謀者として退学させられる。 |
1856年 | 蘭学寮に入る。枝吉神陽から国学を学ぶ。 |
1861年 | 鍋島直正にオランダの憲法について進講。蘭学寮を合併した佐賀藩校・弘道館教授に就任し蘭学を講じる。 |
1964年 | 蘭学寮で学んだことを活かし佐賀藩の貿易業務を行い、藩の財政に貢献。 |
1865年 | 長崎に、英学塾「致遠館」を設立、フルベッキより英語を学ぶ。 |
1867年 | 大政奉還を進めるため、副島種臣とともに脱藩して京都へ向かう。 |
1868年 | イギリス公使パークスに対する論客として起用され大激論をかわす。 |
1873年 | 新政府に参画し、大蔵省で実権を握る。 |
1881年 | 伊藤博文によって政府内部で大隈重信を排除する動きが強まり、政界から追放される。 |
1882年 | 現在の早稲田大学に当たる東京専門学校を設立。後に早稲田大学の総長にも就任。 |
1888年 | 東京専門学校設立などによって社会的影響力を増してきたこともあり、外務大臣として再び政府に復帰。 |
1898年 | 6月30日に内閣総理大臣に就任します。しかし内部対立が起こり、同年11月8日に辞任。 |
1914年 | 4月16日に再び内閣総理大臣に就任し、2年半の間、内閣総理大臣として務。 |
1922年 | 1月10日に癌で死去。国民からの人気が大きかったため、1月17日に行われた「国民葬」では30万人が集結。 |
蘭学寮で英語と数学を学び、尊王攘夷の志士として頭角を示す
大隈重信は、佐賀藩(現在の佐賀県佐賀市)の砲術や築城術を担当する家系に生まれました。幼少期から優秀であり、7歳で藩校「弘道館」に入学しました。1854年、朱子学を中心とした教育に反発し、藩校改革を訴えた結果、退学となりました。
この時期に尊王攘夷思想に目覚めた大隈は、佐賀藩に対して、尊王攘夷の急先鋒であった長州藩(現在の山口県萩市)との和睦を提案し、さらには長州藩と江戸幕府の仲裁を図ることを提言しました。また、英語と数学を学びながら、蘭学寮での学びを活かして佐賀藩の貿易業務に従事し、藩の財政に貢献しました。
1867年には脱藩し、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜に大政奉還を迫るため京都へ向かいましたが、計画が露見し、長崎に連れ戻され謹慎処分を受けました。
明治新政府の大蔵省での活躍
大隈重信は、謹慎が解けた1868年に、江戸幕府の役人が退去した長崎を管理するために派遣されました。そして1869年、大隈重信は、駐日英国大使ハリー・パークスとの「英国公使パークスとの論戦」を通じて政府高官に広く知られるようになりました。キリスト教弾圧に抗議するパークスに対し、大隈はフルベッキから学んだ西洋知識を駆使して過去の歴史家や宗教家の言葉を引用しながらすべて英語で反論し、日本にキリスト教を全面的に開放することの混乱を説きました。その雄弁さと知識に感心した三条実美、岩倉具視、木戸孝允らは、大隈を政府の参議兼大蔵大輔に抜擢し、大隈は急速に出世していきました。
明治政府では、外国官副知事や会計官副知事を歴任し、後に大蔵大輔(現在の大蔵省)に任命されました。1870年には大蔵卿に就任し、「地租改正」を手がけ、地主に土地の所有権を認め、税金を現金で納める税制改革を実施しました。大蔵省の同僚には渋沢栄一や井上馨らがいました。
また、東京と京都を結ぶ鉄道施設計画を主導し、1873年にはウィーン万国博覧会への参加を進めるなど、日本の近代化を推進するための様々な施策を次々と実行しました。
1874年の台湾出兵では、戦費の確保や武器・兵士の輸送、情報収集を担当する蕃地事務局長官としての役割を果たしました。また、1877年の西南戦争では、戦費を調達する征討費総理事務局長官として、財政面から明治政府を支え続けました。
明治新政府から追放される
1878年、明治政府を率いてきた旧薩摩藩(現在の鹿児島県)の大久保利通が暗殺されると、政府の主導権は長州藩の伊藤博文に移りました。このとき、大隈重信は伊藤博文に忠誠を誓い、彼に従うことを表明しました。
しかし、明治政府の中枢を旧薩摩・長州藩出身者が独占する専制政治に不満を抱いた旧土佐藩(現在の高知県)の板垣退助らが、「民選議院設立建白書」を提出し、国民的な自由民権運動が勃発しました。この運動を受け、政府内部でも国会開設に向けた動きが加速しました。大隈重信は、憲法を早急に制定し、国会を開設するべきだと主張し、イギリスを手本とした議会中心の政党政治を提案しました。
一方、伊藤博文は、君主が自ら政治を行うドイツ式の政治体制を支持し、両者の対立は深まりました。同時期、薩摩藩出身の黒田清隆が同郷の政商・五代友厚に官有物を格安で払い下げていたことが発覚し、大問題となりました。この情報が世間に漏れた背景には不明な点が多いですが、伊藤博文はこれを大隈重信の策略と決めつけました。
その結果、1881年、伊藤博文は大隈重信を明治政府から追放しました。この事件は「明治十四年の政変」として知られています。
東京専門学校(現在の早稲田大学)の設立
1882年に大隈重信は早稲田大学の前身である東京専門学校を設立しました。これは明治十四年の政変の翌年であり、大隈がまだ政府の中枢にいた頃から準備を進めていたことが伺えます。
当時、多くの官立大学が官僚や法律家の養成を目標として設立されていましたが、大隈は学問の独立を重視し、学生が自由にさまざまな分野を学べる私学を創設しました。これにより、後に大隈を支える多くの人材が育成されました。
しかし、下野した後も政治家であり続けた大隈は、教育に政治的なイデオロギーを持ち込むことを嫌い、大学の式典などにはあえて参加しませんでした。この姿勢は、学問の自由と独立を守るためのものであり、大隈の教育に対する信念を示しています。
暗殺未遂により右足を失う大怪我を負う
大隈重信は、明治政府から追放された翌年の1882年に立憲改進党を結成し、その総理として活動を開始しました。1888年には立憲改進党を離れ、外務大臣として明治政府に復帰し、江戸時代に締結された列強諸国との不平等条約の改正交渉を担当しました。
しかし、1889年、大隈が列強諸国との交渉で外国人を日本の裁判に参加させるという条件を提示したことに不満を持ったテロリストにより爆弾を投げつけられる事件が発生しました。この「大隈重信遭難事件」により、大隈は一命を取り留めたものの、右足を失うという大けがを負いました。
政界に復帰し日本初の政党内閣を築く
1890年、日本初の国会である帝国議会が発足しました。大隈重信は翌1891年(明治24年)に立憲改進党に復帰し、事実上の党首に就任しました。1896年、立憲改進党は他の党派と合流して進歩党を結成し、国会内での影響力を高めました。同年6月、内閣総理大臣の伊藤博文は、大隈重信を再度明治政府に招き入れることを決定しました。これは、内務大臣として力を持ち始めた自由党の板垣退助の影響力を抑えるためでした。
大隈重信は、伊藤博文の後を継いで総理大臣となった松方正義内閣で外務大臣に就任しました。しかし、1898年の第5回衆議院議員総選挙で、進歩党が与党の第一党となると、大隈重信は板垣退助の自由党と合流して憲政党を結成しました。大隈重信は内閣総理大臣兼外務大臣に、板垣退助は内務大臣に就任しました。
このとき、陸海軍大臣を除く全ての大臣が憲政党出身者で占められ、これが日本初の政党内閣とされています。この内閣は、両者の名前を取って「隈板内閣」と呼ばれました。しかし、憲政党内部での調整に苦しみ、隈板内閣はわずか4か月で崩壊してしまいました。
再び政界を離れる
1898年の末、憲政党内の旧進歩党員は大隈重信を中心に「憲政本党」を結成しました。一方、旧自由党員は伊藤博文とともに「立憲政友会」を結成し、再び分裂しました。両党は国会内で議席数を競いましたが、この頃には憲政本党に勢いはなくなっていました。
1907年の憲政本党大会で、大隈重信は総理を辞任することを宣言し、早稲田大学の総長に就任しました。この時期の総長就任は、学問がすべての権力から独立すべきであるという「学問の独立」を目指す大隈重信の信念を示すものでした。
政界を離れた大隈重信は、多くの書物を執筆し、演説会を開催するなどして、国民文化の向上に尽力しました。彼のこれらの活動は、政治だけでなく教育や文化の分野においても多大な影響を与えました。
晩年再度政界へ戻る
1914年、山本権兵衛内閣が総辞職すると、大隈重信の政界復帰を求める声が高まりました。76歳の大隈重信は何度も辞退しましたが、周囲の要請に抗えず、16年ぶりに総理大臣に就任しました。
同年、第一次世界大戦が勃発し、翌1915年には中華民国に対して権益の譲渡を求める「対華二十一箇条要求」を提出し、日本の陸海軍の拡大に尽力しました。しかし、同年10月、内務大臣が関与した買収事件の責任を取る形で大隈は辞表を提出しました。しかし、123代大正天皇の即位礼の直前での内閣総理大臣の辞職が望ましくないとの理由から辞表は却下されました。
大隈重信は晩年においても、日本の政治と国際関係の発展に尽力し続けました。彼のリーダーシップは、国家の重大な時期においても求められ、その経験と知識が国を支えました。
二度目の暗殺未遂と国民葬
1916年、大隈重信は再びテロリストから爆弾を投げつけられましたが、今回は不発に終わり無事でした。同年、ついに大隈の辞意が認められ、78歳で内閣総理大臣を退任しました。その後、様々な政党から総裁就任の依頼がありましたが、すべて断りました。
政界から完全に離れた大隈重信は、新聞などで論評活動を行いながら静かな生活を送りました。しかし、1921年には持病が悪化し、翌1922年に死去しました。彼の死から1週間後に行われた国民葬には、30万人もの一般市民が参列し、多くの国民が偉大な政治家との別れを惜しみました。大隈重信の生涯は、日本の近代化と政治改革に大きな影響を与え、多くの人々に深く尊敬されるものでした。
大隈重信の死因
大隈重信は1922年1月10日午前4時38分、腹部の癌および萎縮腎のため、享年83歳で亡くなりました。彼は非常に静かに、昏睡状態のまま息を引き取りました。主治医であった稲田龍吉が、死因を直ちに発表しました。
大隈は亡くなる4ヶ月前から腎臓炎と膀胱カタルにより衰弱していました。1911年(大正10年)9月4日に風邪をひいて静養を始め、その後、腎臓炎と膀胱カタルを併発しました。10月12日頃から食欲不振に陥り衰弱していきましたが、10月下旬には一時的に体調が戻りかけました。しかし、12月初めから年始にかけて急速に悪化し、再び食欲を失いました。
大隈が危篤状態に陥った際には、従一位の位階と大勲位菊花章頸飾が授与されました。しかし、彼の体調は回復せず、1922年1月10日に亡くなりました。
大隈の死後、「国葬」とする話が持ち上がりましたが、当時の高橋是清内閣の反対により実現しませんでした。その代わりに、1月17日に「国民葬」が盛大に執り行われました。葬儀場となった日比谷公園には、二十万人以上が参集し、早稲田の大隈邸から日比谷公園、そして埋葬先の護国寺までの沿道は、明治天皇の大葬に次ぐ百万人以上の人々で埋め尽くされました。
この「国民葬」の規模と参加者の数は、大隈重信がいかに多くの民衆から愛され、尊敬されていたかを物語っています。
大隈重信の性格
大隈重信は若い頃から現実的で合理主義者、そして気が強い性格で知られていました。彼が6歳で入学した藩校「弘道館」では、朱子学や武士の心構えを説く『葉隠』に基づいた保守的な教育が行われていましたが、大隈を含む多くの若者がその教育方針に矛盾を感じていました。
幼少期の大隈は温厚で心優しい少年でしたが、成長するにつれて腕力が強くなり、身長も180cm近くに達し、物おじしない青年になりました。学業でも同期の中で一番優秀で、合理的な性格から無駄な努力を嫌い、次第に弘道館の教育方針に嫌気が差していきました。
佐賀藩や弘道館の教育改革を訴える大隈は、寮生たちと論戦を繰り広げるようになりました。ある時、この論戦が弘道館を二分する大喧嘩に発展し、首謀者として退学処分を受けることになりました。しかし、この出来事が転機となり、大隈は「蘭学寮」に入学し、洋学を習得していくことになります。
大隈の気の強さは大人になってからも際立っており、幕末期に志士として活躍した中でも、外国人と堂々と渡り合えるのは彼だけでした。象徴的なエピソードとして、江戸時代から続く日本でのキリスト教弾圧に強く抗議する駐日英国大使ハリー・パークスに対し、大隈は自ら交渉役を買って出た出来事があります。彼はフルベッキから学んだ西洋知識を活かし、ハリー・パークスに一歩も引かぬ論戦を展開しました。パークスが「キリスト教を迫害する日本は野蛮だ」と主張すると、大隈は「キリスト教の歴史は戦乱の歴史であり、神道や仏教が普及している日本にキリスト教を全面的に開放すれば、大きな混乱を招く」と反論しました。
この場に居合わせた三条実美、岩倉具視、木戸孝允ら政府高官は、大隈の雄弁さと西洋知識の豊富さに感心し、彼を政府の参議兼大蔵大輔に抜擢しました。このように、大隈重信はその気の強さと卓越した知識により、異例のスピードで出世していったのです。
大隈重信のエピソード
それでは最後に大隈重信のエピソードを見ていきましょう。大隈重信も様々なエピソードがあるので必見です!
実は福沢諭吉と仲良し
福澤諭吉が創設した慶應と早稲田は現在はライバル校とされていますが、大隈重信と福澤諭吉の関係はむしろ親密なものでした。大隈と福澤は互いの自宅を訪問し合い、家族を交えて酒を酌み交わすこともありました。大隈はこの関係を「ほとんど親族同士の懇意さ」と語っています。二人は単に気が合っただけでなく、共に開明的な思想を持つ同志でもあったのです。
野党政治家となった大隈を支えた福澤は、彼のアドバイザーとしても活躍しました。大隈はまた、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎とも明治時代を通じて関係を保ち、岩崎は立憲改進党の後援者となりました。さらに、大隈は実業家の渋沢栄一とも交流があり、自邸が火事で焼失した際には、渋沢が無抵当で資金を援助しています。
大隈は政治的対立を超えて個人的な関係を重視する人物でした。彼を政府から追放した伊藤博文を早稲田大学の演説に招いたり、信じられないかもしれませんが自身を暗殺しようとした来島恒喜の供養料を毎年支払ったりと、政治的立場と個人的感情を切り分けることができたのです。
右足を失うきっかけになったテロ犯人に対し「憎いとは思わない」?
大隈重信は1889年、爆弾を投げつけられるテロ行為を受けて右足を失いました。しかし、犯人に対して「憎いとは思わない」「その勇気に感服する」と述べています。この事件は、欧米列強に対する領事裁判権(治外法権)を撤廃する代わりに、裁判官に外国人を任用するという条約案に激怒した福岡玄洋社の社員、来島恒喜によるものでした。
事件後、大隈は次のように語っています。「吾輩は吾輩に爆裂弾を放りつけたやつを憎い奴とは寸毫(すんごう)も思わぬ。却って今の軟弱な青年弱虫よりは、よっぽど偉い者と思うて居る。苟(いやしく)も外務大臣なりし我輩に爆裂弾を喰わして、当時の輿論を覆さんとするその勇気は蛮勇でも何でも、吾輩はその勇気に感服するのである」(講演録『青年の為に』大正8年発行)。
このような犠牲を強いた相手に対して「憎いとは思わない」「その勇気に感服する」と言える人物が、果たして世の中にどれほどいるでしょうか。この言葉一つからも、大隈の度量の大きさと、損得ではなく常に国の未来を考え続けた人物であることが伺えます。
ちなみに、大隈が右足を失った後に生涯使い続けた義足は、現在も佐賀市の大隈重信記念館に保存されています。
母親の工夫した勉強部屋で優秀になれた?
大隈重信は12歳の時に父を亡くし、母親の愛情を一身に受けて育ちました。母の三井子は、息子のために生家の二階に勉強部屋を増築しました。その部屋には勉強に集中できるよう数々の工夫が施されていました。例えば、部屋を明るくするために大きな窓を設けながらも、外の景色に気が散らないよう窓の高さを工夫しました。また、勉強机の前には大きな梁が突き出しており、居眠りをすると頭がぶつかって目が覚める仕掛けが施されていました。このような母の期待と工夫に応え、大隈は藩校「弘道館」で優秀な成績を収めることになりました。
若くして英語堪能で商売人としても活躍
青年時代の大隈重信は、「義祭同盟」という尊王論者の集まりに参加し、副島種臣や江藤新平など同世代の仲間たちと議論を重ねていました。20歳を過ぎた頃、彼は閑叟に才能を見いだされ、長崎に派遣されます。ここでオランダの宣教師グイド・フルベッキと出会い、英語や西洋の近代思想を学びました。1865年(慶応元年)には、佐賀藩が創設した英語学校「致遠館」で経営手腕を発揮し、蘭語が主流だった当時としては画期的な教育を提供しました。
大隈が過ごした時代の長崎は、江戸、京都に次ぐ第三の都市であり、彼はそこで三菱財閥の創業者岩崎弥太郎、スコットランド出身の商人トーマス・グラバー、そして坂本龍馬と出会い、ビジネス力を磨いていきました。英語に堪能な大隈は、外国商人との交易や藩札を用いた金融手法を駆使し、佐賀藩の財政を大いに潤しました。
これにより、佐賀藩は財を築き、洋式部隊を編成。戊辰戦争では、その洋式部隊の活躍によって、「薩長土肥」(薩摩・長州・土佐・肥前の四藩の総称。肥前は佐賀藩の旧称)の一角として名を馳せ、明治維新への貢献度が大きな四藩の一つとなりました。維新後も薩長土の三藩とともに政府内で主要なポストを占めることができました。このように考えると、佐賀藩に対する大隈の貢献は非常に大きかったと言えます。
愛妻家で園芸マニアで、メロンも育成していた
明治十四年の政変で下野した後、大隈重信は自邸を早稲田に移し、庭園には温室や菜園を造って園芸を楽しみました。彼は「花を愛する人に悪人はいない」と常々語り、バラ、ラン、ヤシ、キク、メロンなど多様な植物を栽培し、盆栽にも手を掛けていました。この庭園は多くの友人が訪れる場所となり、現在は「大隈庭園」として知られています。
大隈重信は二度結婚しており、最初は幕末期に佐賀で美登という女性と結婚しましたが、後に離縁しました。理由は不明ですが、活発に長崎などを飛び回っていた大隈は、家庭を顧みる余裕がなかったのかもしれません。明治時代に入り、綾子という女性と再婚すると、愛妻家として知られるようになりました。綾子は度量が大きく几帳面な性格で、大隈の行く先々に付き添い、まるでビジネスパートナーのような存在でした。大隈の活躍は、綾子の支えがあったからこそと言っても過言ではありません。
国民から大人気の総理大臣だった
1898年に誕生した第一次大隈内閣は短命に終わりましたが、大正時代に入ると、大隈重信は幕末から活躍する数少ないベテラン政治家として、政界と民衆の双方から大きな支持を受けました。当時、政府の中心には薩摩や長州出身の軍人たちがいて、軍部の権力が強まっていました。しかし、国民の意思によって国家の舵取りを行おうという「大正デモクラシー」運動が勃興し、この動きに大隈も共鳴しました。この時期には、原敬や尾崎行雄といった新進気鋭の政治家たちが活躍し、大隈の影響を受けた新世代のリーダーが登場してきました。
大隈が掲げた目標は、「議会制民主主義の定着」「軍部の暴走の阻止」「人材の育成」でした。軍部の権力拡大に強い危機感を抱いていた彼は、常に開明的な姿勢で国民第一を訴え、広く支持を集めました。遠方への移動時には、鉄道の主要駅に停車するたびに短い演説を行い、地道に知名度を高める努力も惜しみませんでした。現代でいえば、YouTubeやSNSを駆使して情報を発信するインフルエンサーのような存在でした。
1914年、第2次大隈内閣を組織し、76歳にして再び総理大臣に就任しました。第一次世界大戦が勃発すると、「対華二十一カ条の要求」を提出し、硬軟織り交ぜた外交政策でバランスを取りました。
1922年、大隈は83歳でその生涯を閉じました。彼の葬儀は国民葬として執り行われ、日比谷公園には約30万人もの民衆が集まりました。これは大隈が国民から絶大な人気と愛情を受けていたことを示しています。しかし、その後の日本では大隈のような大政治家が現れず、軍部の台頭を止めることができずに、第二次世界大戦へと突き進んでいくことになりました。
字が下手で周りの人に書かせていた
大隈重信は数多くの著作を残していますが、「直筆」の文書はほとんど残っていません。これは、学生時代に字が上手でなかった彼が、学友の字を見て自分には敵わないと悟り、それ以来「終生筆を執らない」と決意したためです。彼の著作集は、すべて周囲の人々に口述筆記させたものです。
しかし、そんな大隈の貴重な自署を見ることができる場所があります。それが「大日本帝国憲法」の原文です。彼は黒田清隆内閣の外務大臣として、この歴史的文書に署名しました。百聞は一見に如かず、ぜひその署名を確認してみてください。
スイーツが大好きだった
佐賀を通る長崎街道は「シュガーロード」とも呼ばれ、豊かな菓子文化が栄えた地域です。その中でも大隈重信の大好物だったのが、佐賀銘菓の丸ぼうろです。彼は明治29年の帰郷の際にこの菓子に惚れ込みました。東京で故郷の味を懐かしんでいる大隈の話を聞いた菓子屋「鶴屋」の主人は、職人を連れて上京し、大隈邸内に窯を築いて丸ぼうろを振る舞いました。佐賀から東京へのこの贅沢なデリバリーサービスは、大隈がどれほどスイーツを愛していたかを物語っています。
大隈重信が今のお札の単位「円」を作った
日本銀行が発行するお札の単位「円」は1871年に制定された「新貨条例」に由来します。この条例の制定に主導的な役割を果たしたのが、佐賀市出身の大隈重信でした。当時、大隈は明治政府の役人として金融・財政に関する仕事を担当しており、新しいお金の単位を「円」と定めました。
大隈が「円」という単位を選んだ理由には諸説ありますが、彼が極端な筆不精であったために記録が残されておらず、真の理由は不明です。その後、大隈は政治家に転身し、総理大臣や外務大臣を歴任しました。
大隈重信は、現代の日本円の源流を作った人物ですが、筆不精であったことも理由の一つとされ、福沢諭吉や渋沢栄一のようにお札のモデルにはなっていません。それでも彼の功績は、日本の金融・財政の基盤を築いた重要なものであり、現在の円の存在は大隈の影響を色濃く受けています。
まとめ
いかがでしたでしょうか?大隈重信は、日本の近代政治の基礎を築いた政治家であり、早稲田大学の創設者です。筆不精ながらも数多くの功績を残し、爆弾テロで右足を失っても犯人の勇気を称賛する度量の大きさを持っていました。晩年は国民から絶大な支持を受け、彼の死後もその影響力は計り知れません。大隈の生涯は、日本の未来を見据えた偉大な軌跡でした。
本サイトは大隈重信以外にも様々な日本の面白い歴史や文化を紹介しています。もし興味ございましたら、他の記事も読んでいただけると嬉しいです!
コメント