志賀潔をご存じでしょうか?あの北里柴三郎の門下生で、世界で大流行していた赤痢菌の原因を突き止めた世界に誇る細菌学者です。その功績から赤痢菌は志賀の名を取って「Shigella」(シゲラ)と命名されました。病名に日本人の名前を使っているのは志賀潔以外誰もいません。このように伝染病研究の世界において燦然と輝いている志賀潔も意外と知らない方も多いと思います。
そこで今回はそんな志賀潔の生涯をたどっていきます。さあ、志賀潔の世界へ足を踏み入れてみませんか?
志賀潔のすごいところは?功績や何した人か紹介
志賀潔は、明治の初めに仙台市で生まれ、少年時代には昆虫を追いかけて野山を駆け回る活発な子供でした。県立宮城中学(現在の仙台一高)に12歳で入学しましたが、特に優れた成績を残すことはありませんでした。それでも、彼は一歩一歩着実に努力を重ねていく生徒でした。
15歳で東京に出て大学予備門(後の第一高等学校)に進み、やがて東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に進学しました。26歳で卒業後は、尊敬していた北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所に入りました。
研究を始めた翌年、日本全国で赤痢が流行し、患者は約9万人、死者は1万人以上に上る深刻な事態となりました。志賀潔は赤痢の原因を突き止めるため、患者の大便や死亡者の腸から取り出したサンプルを研究し、顕微鏡を覗き続けました。そして、長さわずか0.003ミリの小さな菌を発見し、動物実験を通じてこの菌が赤痢の原因であることを証明しました。
彼の研究成果は1897年11月に大日本私立衛生会総会で発表され、翌年にはドイツの細菌学会雑誌に論文が掲載され、志賀の名は世界に広まりました。この赤痢菌は志賀の名を取って「Shigella」(シゲラ)と命名されました。
その後、志賀潔はドイツに留学し、細菌学者エールリヒの教えを受け、免疫学やアフリカで流行していた睡眠病の研究においても大きな成果を上げました。約5年間の留学を終えて帰国後は、北里研究所の創立に尽力し、さらに慶応義塾大学の教授として若い医学生の指導にも尽力しました。1957年に86歳で世を去りましたが、日本の近代化の中で世界に通用する科学研究の成果を成し遂げた偉大な人物でした。
志賀潔の簡単な年表
それでは志賀潔が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。
年 | 出来事 |
1870年 | 仙台藩(現在の宮城県)の藩士の佐藤 信の4男として生まれる。幼名は直吉。 |
1886年 | 東京に出て大学予備門(のちの第一高等学校)に入学。 |
1887年 | 母方の志賀家の養子となり、潔と名前を変える。 |
1896年 | 東京大学医学部を卒業し、伝染病研究所に入所。北里柴三郎から細菌学を学ぶ。 |
1897年 | 日本全国に原因不明の病気(赤痢)が広がり、志賀潔がその原因である赤痢菌を発見。世界に名前が広まる。 |
1901年 | ドイツへ留学し、エールリヒに細菌学を学ぶ。 |
1904年 | エールリヒとともにアフリカの睡眠病の治療薬トリパンロートを発見。 |
1914年 | 伝染病研究所を辞職。 |
1915年 | 新設された北里研究所に入所。 |
1920年 | 慶応義塾大学医学部教授となる。 |
1925年 | 京城帝国大学の初代医学部長となり、後に学長になる。 |
1957年 | 88歳で病死。 |
帝国大学医学部へ入学
志賀潔は、1870年12月18日に佐藤信の五男として仙台市に生まれました。幼少期から、生母の実家である志賀家の養子になることが決まっており、8歳のときに志賀家の養子となり、名を潔と改めました。
志賀家は仙台藩の藩医を務めていましたが、明治維新後に藩士たちは職を失い、家は貧困に苦しんでいました。それでも志賀潔は、育才小学校(現在の仙台市立片平丁小学校)を卒業し、宮城中学(現在の宮城県仙台第一高等学校)に進学しました。
その後、第一高等中学校を経て、1892年に帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に入学しました。
赤痢菌を発見し世界から注目を浴びる
志賀潔は、1896年に26歳で東京帝国大学医科大学を卒業し、私立伝染病研究所に入所して北里柴三郎に師事しました。翌年、1897年6月に関東を中心に全国的に赤痢が大流行し、総患者数は9万人に達し、死亡率は25%にのぼりました。特に東京では2000人以上が死亡しました。
伝染病研究所に入ったばかりの志賀潔は、北里柴三郎から赤痢の病原体を探すよう指示されました。志賀は研究室に寝泊まりしながら、患者から集めた検体をすべて培養し、分離、染色、顕微鏡で調べるという徹底した研究を行いました。最終的に、ある桿菌が病原体である可能性が高いことを突き止めましたが、動物実験では赤痢の症状を示さず、確信を得るには至りませんでした。
ある日、図書館でビダールの腸チフス血清凝集反応に関する論文を見つけ、これを赤痢菌に応用することを思いつきました。約1ヶ月の研究の結果、志賀は赤痢患者の血清が特異的に反応する桿菌を見つけました。そして、赤痢の流行から半年後の12月に、日本細菌学雑誌第一号で赤痢菌発見の報告を行いました。この発見により、1880年代から結核、コレラ、腸チフスなどの感染症の原因菌が次々と明らかにされる中、長い間謎とされていた赤痢の原因が解明されました。
赤痢菌の正式名称「Shigella」(シゲラ)は、志賀潔の名前に由来することでも知られています。
化学療法を確立する
志賀潔はドイツ留学中に、エールリッヒの下で「病原体にのみ特異的に作用する物質を合成化学的に創出する」という研究に従事しました。この研究では、細菌よりも複雑な構造を持ち、血清療法が効果を示さないトリパノソーマが対象に選ばれました。助手に抜擢された志賀は、毎日数百のマウスの尾から血液を採取しながら、500以上のアニリン色素誘導体を試し続けました。
約1年半の研究の末、最初の有効薬「トリパンロート」を発見しました。この成果は1904年の春に、エールリッヒと志賀の共著としてベルリン臨床週報に報告されました。エールリッヒは報告の冒頭で「志賀と私とは遂にトリパンロートを得ることができた」と述べ、志賀の貢献を称えました。一方、志賀は後の回顧録で「短時間の助手に過ぎない私の労をねぎらって下され、おのずから頭の下がる思いである」と記し、エールリッヒへの尊敬と謙虚な姿勢を示しました。
慶應義塾大学医学部教授や朝鮮総督府医院長に就任
志賀潔は1905年に帰国し、医学博士の学位を取得しました。その後、脚気に関する追実験を行い、脚気細菌起源説を否定しました。1912年には再びドイツに渡り、パウル・エールリヒに師事しました。
1914年、志賀は北里柴三郎らと共に伝染病研究所を退職しました。翌年、1915年に新たに創設された北里研究所に入所しました。この北里研究所は現在の北里大学の母体となる施設です。
その後、1920年には慶應義塾大学医学部教授に就任しましたが、同年秋には朝鮮総督府医院長・京城医学専門学校長に転じました。志賀は1924年に国際赤痢血清委員会に出席するためにヨーロッパを訪れ、その際にアルベール・カルメットからBCGワクチンの株(Tokyo 172)を日本に持ち帰りました。
1926年には新たに創立された京城帝国大学(現在のソウル大学校)の医学部長に就任し、1929年には同大学の総長となりました。しかし、1930年に「らいの歴史とらい病の研究」という開学記念講演での発言が一部の教授たちから非難を浴び、任期を満たさずに辞任することとなりました。
磯浜での晩年
志賀潔は1915年(大正4年)に家族で訪れた坂元村磯浜の美しい海岸に魅了され、翌年、故郷仙台に近いこの地に別荘を建てました。別荘は「貴洋翠荘」と名付けられ、毎夏、家族で訪れる場所となりました。志賀はこの地を理想郷と見立て、「無可有之郷」と呼びました。
1944年(昭和19年)には文化勲章を授与されましたが、同年、妻の市子を病気で失い、その翌月には長男も船の事故で亡くしました。翌年、1945年(昭和20年)には戦火を逃れて仙台に疎開し、東京大空襲で家財を失い、磯浜の別荘に移り住みました。
1949年(昭和24年)には三男が結核で亡くなるという悲劇が続きましたが、志賀は次男家族と共に磯浜で暮らし、豊かな自然の中で穏やかな余生を過ごしました。彼は4畳半の居室から庭のウメモドキに集まる鳥や海原を眺めながら、読書や執筆に没頭しました。そして1957年(昭和32年)、86歳で永眠しました。
志賀潔の死因
志賀潔は1957年、磯浜の別荘で老衰により亡くなりました。享年85歳でした。彼は生涯を通じて様々な細菌に関する研究を行いましたが、自身がその細菌によって体調を崩すことはなく、85年もの長い人生を全うしました。その功績を称え、仙台市によって市葬が行われました。志賀の墓所は仙台市青葉区北山の輪王寺にあります。
志賀潔の性格
志賀潔は器用で粘り強く、研究に対する強い探究心を持っていました。この性格と考え方が、彼の偉大な発見に大きく寄与したと考えられます。
特に赤痢菌の原因をわずか1か月で特定した出来事は、彼の研究への情熱と粘り強さを象徴しています。志賀は研究室に寝泊まりしながら、患者から集めた検体を培養し、分離、染色、顕微鏡で徹底的に調べました。また、ビダールの腸チフス血清凝集反応に関する論文を参考にして、それを赤痢菌に応用することを思いつき、実験を繰り返しました。
しかし、志賀はその実力に驕ることなく、常に謙虚な姿勢を持ち続けました。彼は自身の研究生活や恩師、仲間について多くの学術誌に寄稿し、研究生活が非常に幸運だったと述べています。赤痢菌の発見においても、北里柴三郎から直接指導を受けられたことや、赤痢がその年東京で大流行していたことなど、様々な幸運が重なったことを強調しています。また、通常なら先輩が担当するはずだった赤痢の原因菌探索のテーマが、先輩の留学により志賀に与えられたことも幸運の一つであると述べています。
志賀潔のエピソード
それでは最後に志賀潔のエピソードを見ていきましょう。志賀潔も様々なエピソードがあるので必見です!
インドの王国から国賓として招かれた
志賀潔は実はインド南部のマイソール王国から国賓として招かれたことがあります。防疫施設の助言をするために招待された志賀は、王宮に宿泊することになりました。豪華でありながら瀟洒な造りの寝室には、天蓋とレースの掛かったベッドが置かれていました。王様用のベッドに横たわり、普段の真面目な顔とは異なり、純粋に喜びを感じている姿が想像できます。
妻と子供に先立たれてしまった
研究者としての志賀潔は恵まれた指導者に支えられ、幸運に恵まれた人生を送りましたが、個人的には多くの悲劇に見舞われました。最愛の妻に先立たれた後、戦争で長男を失い、さらに三男を結核で亡くしました。特に三男の死については、深い無念と悲しみを抱いていたことでしょう。
赤痢菌の原因を特定できたのは患者が多い東京にいたから!?
志賀潔が赤痢菌の原因を特定できたのは、東京に多くの患者がいたことによる皮肉な幸運も大きな要因でした。赤痢菌は特定の動物にしか感染せず、一般的な実験動物では再現実験が難しかったため、志賀は試行錯誤を繰り返していました。
しかし、ビダールの凝集反応法を応用することで、患者の血清と病原体が特有の反応を示すことを利用して問題を打開しました。夏の初めに東京で赤痢が流行し、志賀は寝食を忘れて研究に没頭しました。秋も過ぎようとする頃、志賀は伝染病研究所の図書室で前年発表された腸チフスの研究を見つけ、それを赤痢にも応用できると直感し、実験を進めました。
この結果、志賀の発見した菌が赤痢菌であると国際的にも認められました。この成功には、彼の能力と努力だけでなく、指導者である北里柴三郎の適切な指導や研究環境の整備、そして赤痢の流行に悩まされていた東京という地の利が大きく寄与していたのです。
野口英世との関係
志賀潔、北里柴三郎、野口英世の関係は、彼らが共に研究に取り組んだ伝染病研究所を中心に展開されました。
北里柴三郎が所長を務めた伝染病研究所では、志賀潔が赤痢菌を発見し、野口英世は黄熱病の研究で知られています。野口英世は英語が堪能で、研究所では研究者というよりも通訳として北里に仕えていました。志賀潔は野口英世より6歳年上で、研究所でも2年先輩でした。
志賀潔の回想録によれば、フレキスナーが日本に来たのは志賀に会うためであり、その訪問がきっかけで野口英世とフレキスナーが出会い、野口の研究の道が開かれました。これは志賀の赤痢菌発見がなければ起こらなかったと述べています。
志賀は野口について、「東北出身という共通点から時々下宿に訪ねてきた」と述べ、また野口がイタリア語の手紙をフランス語の知識を使って訳したエピソードを紹介し、野口の語学の才能と努力を称えました。
野口英世が横浜海港検疫所に転任した際、ペスト患者を発見し、その検査を志賀に依頼しました。志賀はペストと断定し、野口の決断を支持しました。
1915年、大正4年に野口が帰国した際、伝染病研究所は内務省から文部省に移管され、北里柴三郎所長と志賀潔を含む研究者たちが辞任しました。野口はその時に彼らを訪れ、「自分も北里博士の身内だ。諸君、僕はいつまでも諸君の仲間だよ」と激励し、一同は感激しました。
このように、志賀潔、北里柴三郎、野口英世は互いに支え合い、影響を与え合いながら、それぞれの研究に邁進していました。
まとめ
いかがでしたでしょうか?志賀潔の生涯は、科学への情熱と不屈の精神に満ちていました。赤痢菌の発見は彼の探究心と粘り強さの賜物であり、伝染病研究に画期的な進展をもたらしました。北里柴三郎や野口英世といった偉大な師や仲間に支えられながらも、最愛の妻や息子たちを失う悲劇を経験しました。それでも志賀は科学への熱意を失わず、研究に没頭し続けました。その謙虚でひたむきな姿勢は多くの後輩に影響を与え、科学の進歩に貢献しました。志賀潔の生涯は、困難に立ち向かう勇気と探求の大切さを教えてくれます。
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