北条政子をご存じでしょうか?北条政子は鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻で「尼将軍」として鎌倉幕府を支えた強烈なリーダーであり、承久の乱では名演説で御家人たちを鼓舞したことで有名な人物です。一方で、彼女の嫉妬深さや激しい気性から「日本三大悪女」としても有名です。実は夫・源頼朝の死後も幕府を守るために実の息子を幽閉したり父を追放したりとかなり冷酷な決断を下し続けた政子。今回はそんな北条政子がどんな人物だったのか見ていきます。
北条政子は何した人か紹介
北条政子(1157~1225年)は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の正室「御台所」(みだいどころ)として尊敬を集め、また「尼将軍」として日本の歴史において重要な役割を果たした人物です。彼女は、頼朝と共に鎌倉幕府の基盤を築き、その死後も幕府の存続と安定に尽力しました。父の北条時政や弟の北条義時と協力して幕政を主導し、強力なリーダーシップを発揮しましたが、その道には多くの試練が待ち受けていました。
政子は時に冷酷な決断を下すこともありました。特に、息子・源頼家を幽閉し、その後殺害を命じたことや、父・時政を追放して政権を掌握したことは、その代表的なエピソードです。彼女は、感情的な一面を持ちながらも、政治の場では冷静さを保ち、幕府の安定を最優先に行動しました。
北条政子で最も有名なエピソードは承久の乱(1221年)での名演説です。承久の乱では、朝廷に対する鎌倉幕府の防衛を託された御家人たちを奮い立たせるため、政子は名演説を行いました。彼女の言葉は、御家人たちの心を動かし、幕府軍を結束させる原動力となりました。この乱での勝利は、彼女の政治的手腕と強い意志の賜物であり、鎌倉幕府の長期安定に大きく貢献しました。
北条政子の簡単な年表
それでは北条政子が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。
年 | 出来事 |
1157年 | 伊豆国(現静岡県伊豆半島)にて北条時政の長女として生まれる。 |
1177年 | 周囲の反対を押し切り、罪人の立場にあった源頼朝と結婚。 |
1180年 | 北条政子は夫・源頼朝が平家打倒のために挙兵する際に支援。 |
1199年 | 源頼朝死後、北条政子は出家し、尼将軍として幕府を支える。 |
1203年 | 源頼朝との間に生まれた長男・源頼家を伊豆に閉じ込め、最終的に殺害。 |
1205年 | 政権奪取を図る父・北条時政を伊豆に追放。 |
1219年 | 北条政子の次男である源実朝が暗殺され、源氏の直系が絶える。 |
1181年 | 承久の乱による後鳥羽上皇の挙兵に対し、北条政子は幕府の武士を名演説で鼓舞し、幕府の勝利に大きく貢献。 |
1225年 | 病床に伏し、生前の冥福を祈る逆修を執り行った後、亡くなる。 |
周囲の反対を押し切り源頼朝と結婚
北条政子は1157年、静岡県伊豆半島に位置する伊豆国の有力豪族である北条時政の長女として生まれました。1160年、源氏と平氏の対立が激化した平治の乱で敗れた源頼朝が伊豆に配流されることになり、これが政子との出会いのきっかけとなります。当時、頼朝は14歳の少年、政子はわずか4歳の幼子でした。頼朝は約20年間を流刑の地で過ごす中で、2人の関係は次第に深まり、やがて恋仲に発展していきます。
1177年頃には、2人の関係が周囲にも知られるようになりました。しかし、北条氏が平氏の流れを汲んでいたため、頼朝との結婚には激しい反対がありました。父・時政は政子と平氏一族の山木兼隆との婚約を進め、2人の結婚を阻止しようとしました。しかし、政子は自らの意志を貫き、山木邸を抜け出して頼朝のもとへと走り、駆け落ち同然で結婚しました。この逸話は、後に『源平盛衰記』に記される創作とも言われていますが、政子の強い意志と決断力を象徴するエピソードです。
実の息子・源頼家を幽閉
北条政子は、源頼朝との結婚が父に認められた後、愛する夫と共に二男二女の子どもをもうけました。長男の万寿(後の鎌倉幕府2代将軍・源頼家)は1182年に、次男の千幡(後の3代将軍・源実朝)は1192年に誕生しました。
1199年に頼朝が急死すると、頼家がわずか18歳で2代将軍に就任しました。しかし、頼家の独裁を防ぐために、政子の弟・北条義時や父・北条時政、比企能員など13人の有力御家人による合議制が発足し、頼家は訴訟を直接裁断できなくなりました。
頼家は乳母の夫である比企能員を重用し、側室も比企一族から選ぶなど、比企氏を贔屓しました。頼家と比企能員の娘との間に長男・一幡が生まれ、比企氏の勢力が増大しました。1203年に頼家が急病で倒れると、政子と時政は比企氏の台頭を恐れ、弟の実朝を3代将軍に擁立しました。
回復した頼家はこれを知り、比企能員に北条氏討伐を命じ反乱を起こしますが失敗。結果、頼家は母である政子によって修善寺に幽閉され、殺害されました。政子は息子に対しても情け容赦なく、政局の安定を最優先したのでした。
父・北条時政を追放
源頼家の没後、源実朝が正式に鎌倉幕府の3代将軍となりましたが、実朝はわずか12歳でした。そのため、初代執権として北条政子の父である北条時政が実質的に幕府の政治を取り仕切っていました。しかし、時政とその後妻である牧の方は、娘婿の平賀朝雅を次期将軍に擁立しようと画策していました。
この陰謀に気付いた政子は、弟の北条義時と相談し、父の時政と牧の方を出家させ、伊豆国へ追放しました。これにより、義時が2代執権に就任し、幕府の実権を握ることとなりました。政子がこのような厳しい措置を取ったのは、幕府の安定を最優先に考えた結果でした。
1219年には、実朝が鶴岡八幡宮で源頼家の次男・公暁に暗殺される事件が起こり、源氏の嫡流が途絶えました。愛する息子の死に深い悲しみに暮れた政子でしたが、次期将軍を探すために奔走し、最終的に藤原頼経を京都から招いて4代将軍に据えました。
当時、藤原頼経はまだ乳児であったため、政子がその後見となり、2代執権の義時と共に幕府の実権を握りました。この頃には政子も出家して尼となっていたため、「尼将軍」と呼ばれるようになりました。
承久の乱で名演説で御家人達の心を動かす
鎌倉幕府は朝廷から政権を奪う形で成立したため、天皇家や朝廷側は権力奪回の機会を狙っていました。源氏は元々天皇家の流れを汲んでいましたが、源実朝の暗殺によりその血筋が途絶え、両者の関係は断絶しました。これを好機と見た後鳥羽上皇は1221年、御家人たちに鎌倉幕府討伐を命じ、「承久の乱」が勃発しました。
御家人たちは、天皇の命令に従うべきか、幕府に忠誠を誓うべきか悩みました。そんな中、北条政子は御家人たちを奮い立たせるため、一世一代の演説を行いました。「これが私からの最期の言葉です」と前置きし、彼らに向かってこう呼びかけました。
吾妻鏡の原文より
皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。
故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ浅からんや。
而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし。
現代語訳
皆、心をひとつにして聞きなさい。これが私からの最後の言葉です。
今は亡き頼朝様が朝敵であった平家を討ち取り、関東に鎌倉幕府を築いて以来、皆の官位は上がり、十分な俸禄が与えられ、不自由のない生活を送っていることでしょう。この恩は、海よりも深く、山よりも高いものです。頼朝様の恩に報いる気持ちが薄れてはいませんか。
ところが今、逆賊の讒言によって上皇様が惑わされ、道理に反した綸旨を下されました。幕府討伐を命じています。悪いのは上皇ではなく、その周囲の者たちです。我々の務めは幕府を守り、将軍からの恩に報いることです。しかし、もし朝廷側に加わりたい者がいるならば、今すぐ名乗り出なさい。
御家人たちが最も恐れていたのは、幕府側に付くことで朝廷に背く「朝敵」と見なされることでした。政子は、後鳥羽上皇自身ではなく、その周囲の者たちが悪いと強調し、幕府側に付くことで上皇の敵になるわけではないと伝えました。この演説を聞いた御家人たちは涙を流し、朝廷側に付く者はひとりもいませんでした。
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』によれば、この名演説により御家人たちの結束が強まり、承久の乱は幕府側の勝利に終わりました。政子のリーダーシップと人心を的確に掴む力が、鎌倉幕府の武家政権の存続を支えたと言えるでしょう。
北条政子の死因
北条政子の詳細な死因は明らかではありませんが、『吾妻鏡』によれば、彼女は承久の乱から4年後の1225年5月に病床に伏したとされています。一時的に回復したかに見えましたが、再び病状が悪化し、生前に自身の冥福を祈るための仏事「逆修」を行いました。その約1ヵ月後、政子は危篤状態に陥り、そのまま帰らぬ人となりました。
彼女の死は翌日に発表され、多くの人々が追悼の意を表すために出家しました。特に鎌倉幕府の要職である政所執事の二階堂行盛を始め、多くの人々が彼女を偲びました。このことから、政子が源頼朝の正室として、また尼将軍として鎌倉幕府の発展に多大な貢献をし、御家人や民衆から慕われていたことが伺えます。
北条政子の性格
北条政子の性格は、『曾我物語』や『吾妻鏡』の逸話から見て取れるように、非常にしたたかで嫉妬深く、直情径行な一面がありました。これらの性格は、必ずしも良いとは言えませんが、彼女はピンチの際に動じず、機転を利かせることができました。
承久の乱が勃発した際、弟の北条義時は迷っていました。有力武士の会議では「関東にとどまって朝廷軍を迎え討つか、京都に出撃するか」という二つの案が出されましたが、義時は決断を下せずにいました。そこで彼は政子のもとを訪れ意見を求めました。政子は「上洛しなければ官軍を討つことは難しい。速やかに出撃すべきだ」と的確に助言し、義時はその助言に従って行動し、結果として朝廷軍を撃破して幕府を安泰にしました。
また、建仁3年(1203年)には、2代将軍・源頼家と比企能員が北条時政追討を密談しているのを障子の影から立ち聞きし、すぐに父・時政に知らせるよう手配したという逸話もあります。これも政子の先見の明や、物事に動じない性格を示しています。
さらに、政子は嫉妬深い一面も持っていました。第2子を妊娠中に、源頼朝が「亀の前」という女性を近所の屋敷に住まわせていたことを知り、出産後に嫉妬に駆られた政子は親族に命じてその屋敷を襲撃させました。屋敷は破壊され、亀の前は命からがら逃げ出しました。この行動に、頼朝や周囲の人々は驚かされました。
政子の生涯は波乱万丈であり、夫の頼朝が平家に対して挙兵し幕府を創設するも間もなく亡くなり、息子の頼家は将軍となった後に北条氏と対立して殺害され、次男の実朝も甥に殺されるという悲劇が続きました。普通の女性なら悲嘆に暮れて隠遁生活を送るところですが、政子は政治の表舞台に立ち続けました。これにより、「尼将軍」と呼ばれるにふさわしい胆力の持ち主であったことが伺えます。彼女の恐ろしくもすさまじい女性の情念が、多くの逸話から感じられます。
北条政子のエピソード
それでは最後に北条政子のエピソードを見ていきましょう。北条政子も様々なエピソードがあるので必見です!
日本三大悪女の一人
日野富子、淀殿と並び北条政子は日本三大悪女と呼ばれています。「悪女」として語られる理由の一つには、彼女の嫉妬深さが大きく関係しています。夫・源頼朝の愛人であった亀の前が伏見広綱の邸に囲われていた際、政子はその邸を襲撃させました(『吾妻鏡』1182年11月10日条)。亀の前は命からがら大多和義久の邸に逃れたと伝えられています。
さらに、頼朝には亀の前以外にも女性が存在しました。その一人が鎌倉の御所に仕えていた女官・大進局です。大進局は文治2年(1186年)に男子を出産しましたが、この報を聞いた政子は激怒し、通常なら行われるべき出産祝いの儀式をすべて省略させました。その後、大進局は5年後に鎌倉から追放され、彼女が産んだ子・貞暁も出家させられ、京都の仁和寺に入れられました。貞暁は仏門に入り、妻子を持たないまま亡くなり、頼朝の家系は早々に断絶してしまいました。
確かに政子の行動は苛烈でしたが、彼女の立場を考えれば、そうせざるを得なかったのかもしれません。政子はもともと伊豆の小豪族の娘に過ぎませんでしたが、頼朝が挙兵に成功し、流人から武家の棟梁へと成り上がるにつれて、二人の間には身分の差が生じました。頼朝には複数の愛人がいたため、政子は頼家を産んでいたとはいえ、正妻の座を脅かされる可能性が常に存在していたのです。頼朝の女性問題に対して政子が強く介入したのは、自らの立場を守るための必死の行動だったといえます。
こうした経緯から、後世において北条政子は「悪女」として語られることが多いのです。
実は本名は誰も知らない
北条政子は日本史上で最も知られた女性政治家の一人ですが、実は彼女の本名は誰にも知られていません。当時の社会では、女性の本名を公にしない慣習があり、政子も例外ではありませんでした。「政子」という名前が付けられたのは、彼女が62歳になった1218年、朝廷から従三位に叙された際に、記録用の名前が必要になったためです。それまでは、彼女にはいくつかの異なる呼称が使われていました。
例えば、源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は「御台所」と呼ばれ、これは将軍や大臣の妻に対する敬称です。また、頼朝の死後に出家してからは「尼御台」と呼ばれ、幕府の実権を握った際には「尼将軍」と称されるようになりました。
「政子」という名前が定着したのは、昭和期に入ってからと言われており、それ以前は彼女の本名は明らかにされていませんでした。政子の家族ですら、その名前を知らなかった可能性があります。
静御前に同情
北条政子は「日本三大悪女」として知られる一方で、辛い立場にある女性には深い同情心を見せることもありました。平家を滅ぼした後、源頼朝は弟・義経を追討し、義経が愛していた白拍子の静御前も鎌倉に連行されます。義経の行方を問い詰める頼朝に対し、静御前は何も語らず、逆に義経を想う歌を舞に乗せて披露しました。この挑発に頼朝は激怒し、彼女を処刑しようとしますが、政子がそれを止めました。
政子は、静御前の姿にかつての自分を重ねていたのです。周囲の反対を押し切り頼朝と結ばれた過去があり、愛する男性を想う女性の心情を理解していたのでしょう。静御前が鎌倉を去る際には、政子は彼女に宝石を与え、生活の支えとしました。このエピソードは、冷酷さの裏に秘められた政子の人間らしい一面を感じさせます。
北条政子の墓所「寿福寺」
北条政子の墓所とされる場所の一つが、鎌倉市扇ガ谷にある臨済宗建長寺派の「寿福寺」です。この寺院は、鎌倉五山の第三位に位置し、鎌倉の歴史と深い関わりを持っています。寿福寺は、源頼朝が亡くなった翌年の1200年に、北条政子が伽藍を建立したことに始まりました。開山には、臨済宗の開祖である栄西を招いています。
寿福寺が建てられた場所は、源氏に代々受け継がれてきた土地で、源頼朝の父・源義朝がかつて住んでいた屋敷があったとされています。そのため、頼朝は当初、この地に鎌倉幕府を造営しようと考えていたとも伝えられています。また、寿福寺は、源実朝がよく訪れていた寺院でもあり、その全盛期には十数ヵ所の塔頭を有する大寺でした。
現在、寿福寺には仏殿や客殿、山門、総門、中門、庫裡などが遺されており、北条政子と源実朝の墓所とされる五輪塔が、境内の裏山に造られたやぐらの中に納められています。やぐらとは、鎌倉地方特有の横穴式墓所のことです。
中門から内側の境内は通常立入禁止ですが、総門から中門にかけての参道と裏山は一般公開されており、訪れる人々は北条政子と源実朝の墓所にお参りすることができます。
北条政子のゆかりのお寺「安養院」
北条政子ゆかりのお寺の一つである浄土宗の「安養院」(鎌倉市大町)は、1225年に建立された「祇園山長楽寺」が前身とされています。この長楽寺は、北条政子が夫・源頼朝の菩提を弔うために発願して造られたもので、彼女が生涯で建てた最後のお寺とも言われています。
もともと佐々目ヶ谷にあった長楽寺は、鎌倉幕府が滅亡した1333年に兵火で焼失しましたが、当時鎌倉市大町にあった善導寺と統合されて再建され、それ以降「安養院」と号するようになりました。しかし、1673年には再び火災に見舞われ、この時には比企ヶ谷にあった田代寺から観音堂が移築されました。現在、本堂には北条政子像と共に「田代観音」と呼ばれる千手観音像が安置されています。
安養院を象徴するのが、毎年5月頃に華やかに咲き誇る「オオムラサキツツジ」です。その圧倒的な大きさから「オバケツツジ」とも呼ばれ、鎌倉の春を彩る風物詩として多くの人々に親しまれています。
また、安養院の墓地には日本映画界の巨匠、黒澤明監督の墓所もあり、多くのファンが訪れる場所となっています。
まとめ
いかがでしたでしょうか?北条政子は、鎌倉幕府を支えた強烈なリーダーシップを持つ「尼将軍」として、また「日本三大悪女」としても歴史に名を残しました。夫・源頼朝の死後も冷静かつ冷酷な決断で幕府を守り抜いた彼女の生涯は、波乱に満ちています。名演説で御家人たちを奮い立たせたその強さと、裏に隠された人間性は、今なお多くの人々に考察され続けています。政子の生涯は、日本史における特異な光を放ち続けています。
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