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足利尊氏は何した人か簡単な年表、死因、性格やエピソードを紹介!強すぎてカリスマ性があったかも紹介!?

足利尊氏が室町幕府を開いたことは有名ですが、実は鎌倉幕府の忠実な家臣だった彼が、後醍醐天皇に背いて反旗を翻して室町幕府を開いたことはご存じでしょうか。そういった経緯もあるので足利尊氏は実は「日本三大悪人」の一人でもあります。また勇敢な武将のイメージが強いですが、実は気弱で戦で窮地になると切腹すると泣きだす一面も。なのに戦で窮地に陥ると神風が吹く幸運の持ち主でもあります。今回はそんな意外と知らない足利尊氏について見ていきます。

足利尊氏は何がすごいの?何した人か紹介

足利尊氏は、日本の歴史において鎌倉幕府に続く武家政権である室町幕府を開いた武将です。彼は、96代天皇である後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の掲げた鎌倉幕府打倒の動きである元弘の乱(げんこうのらん)において、当初は幕府側に従軍していました。しかし、その後、足利尊氏は幕府を裏切り、後醍醐天皇側に転じました。

後醍醐天皇による新たな政治体制「建武の新政」(けんむのしんせい)の中で、足利尊氏は第一の功臣として活躍しましたが、公家や天皇家を優先する天皇の政治姿勢に不満を抱くようになります。ついに彼は後醍醐天皇に反旗を翻し、湊川の戦い(みなとがわのたたかい)を起こしました。この戦いで足利尊氏は、天皇の側近である新田義貞(にった よしさだ)や楠木正成(くすのき まさしげ)の軍勢を打ち破り、勝利を収めました。

その後、足利尊氏は光明天皇(こうみょうてんのう)を擁立し、室町幕府を設立しました。この結果、後醍醐天皇は奈良県吉野郡へ逃れ、南朝を開き、北朝として足利尊氏を中心とした政権との対立が生まれました。

1338年、足利尊氏は初代征夷大将軍に就任し、弟である足利直義(あしかが ただよし)と共に二元政治を行いましたが、最終的には1352年に足利直義を暗殺し、権力を自身に集中させることに成功しました。このようにして足利尊氏は、室町幕府の基盤を築き、日本の武家政権の歴史に大きな影響を与えた人物として知られています。

足利尊氏の簡単な年表

それでは足利尊氏が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。

足利尊氏の生い立ち

足利尊氏(あしかがたかうじ)は、1305年に鎌倉幕府の御家人である足利貞氏(あしかがさだうじ)の次男として誕生しました。1319年、15歳で従五位下に任じられ、元服を迎えた際に、鎌倉幕府第14代執権である北条高時(ほうじょうたかとき)から「高」の字を授かり、初名の「又太郎」から「足利高氏」(あしかがたかうじ)へと名を改めました。当時の足利家は、北条氏に次ぐ高い家格を持ち、足利尊氏も幼い頃から幕府内で特別な待遇を受けていたと考えられます。

その後、尊氏は北条氏の中でも特に権威を持つ赤橋流北条氏の「北条守時」(ほうじょうもりとき)の妹である「赤橋登子」(あかはしとうし/あかはしなりこ)を正室として迎えました。北条守時は後に鎌倉幕府最後の執権となりますが、皮肉にも義弟である尊氏によって幕府は滅ぼされることとなります。彼らがこのような運命をたどるとは、当時は誰も予想していなかったことでしょう。

1331年、足利尊氏は27歳の時、父・貞氏の死去に伴い、家督を継いで足利家の当主となりました。それまでの尊氏の歩みは、彼が後に日本の歴史に大きな影響を与える存在になることを予感させるものでした。

足利尊氏の寝返りと鎌倉幕府の終焉

1331年、足利尊氏は足利家の8代目当主となった同年、後醍醐天皇が笠置山で倒幕の挙兵を行ったことに対応するため、鎌倉幕府から軍の大将として出陣を命じられました。尊氏は幕府の命に従い、笠置山を包囲して後醍醐天皇を捕らえ、その後、楠木正成が挙兵した下赤坂城での戦いにも参戦し、反乱を鎮圧しました。これにより、尊氏は「元弘の乱」での功績を認められ、名声を得ることとなります。

しかし、1333年、隠岐島に流されていた後醍醐天皇が船上山に逃れて再び挙兵すると、鎌倉幕府は再び尊氏に討伐を命じます。尊氏は幕府軍を率いて上洛しますが、情勢の変化を見て鎌倉幕府を見限り、ついに反幕府軍に寝返る決断を下しました。後醍醐天皇から綸旨を受け取った尊氏は、北条氏討伐のため挙兵し、諸国に倒幕軍の挙兵を呼びかけます。尊氏の呼びかけに応じた諸将とともに六波羅探題を攻略し、幕府の拠点を陥落させました。

そのわずか2週間後、関東では足利家と同族である新田義貞らが蜂起し、鎌倉幕府を打倒することに成功しました。これにより、北条氏一族とともに、約150年間続いた鎌倉幕府はその幕を閉じることとなったのです。

足利尊氏と後醍醐天皇の対立

(画像引用: Wikipedia)

鎌倉幕府を打倒した後、後醍醐天皇は京へ帰還し、自らの廃位をなかったことにして幕府を廃止し、「建武の新政」を開始しました。この新政において、足利尊氏は倒幕の功労者として天皇から手厚い恩賞を受け、さらに天皇の諱「尊治」(たかはる)に由来する「尊氏」の名を賜ります。しかし、尊氏自身が政権内で重要な役職に就くことはなく、代わりに弟の足利直義や家臣たちを政権に送り込むに留まりました。

1335年、北条氏の残党による「中先代の乱」が鎌倉で勃発すると、尊氏はこの乱を鎮圧するため、後醍醐天皇に征夷大将軍への任命を求めましたが、天皇はこれを拒否しました。それにもかかわらず、尊氏は朝廷の許可を得ずに鎌倉へ進軍し、弟の直義と合流して乱を鎮圧しました。当時、天皇の親政による恩恵を受けられなかった武士たちの不満が高まっており、尊氏のこの行動は、後醍醐天皇との対立を深めるきっかけとなりました。

乱の鎮圧後、尊氏は後醍醐天皇の上洛命令を無視して鎌倉に留まり、弟の直義とともに武士たちに勝手に恩賞を分配し始めます。これに危機感を抱いた後醍醐天皇は、かつて尊氏と共に鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞を呼び戻し、尊氏討伐の命令を下しました。

一度は隠居を受け入れた尊氏でしたが、弟の直義や武士たちを守るため、ついに朝敵となることを決意します。1336年、尊氏は討伐軍との戦いに突入し、湊川の戦いで楠木正成と新田義貞が率いる連合軍を撃破しました。この戦いを通じて、尊氏と後醍醐天皇の対立は決定的なものとなり、日本の政治は新たな時代へと突入していきます。

足利尊氏の幕府成立と南北朝時代の幕開け

足利尊氏は、ついに京都を制圧し、比叡山に逃れていた後醍醐天皇に対して、光明天皇への譲位を条件に和睦を提案しました。後醍醐天皇はこの条件を受け入れ、新たな武家政権が確立されることとなりました。

1338年、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が正式に成立しました。尊氏は将軍として家臣たちから慕われていましたが、実際に政務を取り仕切っていたのは弟の足利直義であったとされています。

一方、後醍醐天皇は大和国吉野に逃れ、そこで独自の政権を樹立し、南朝を開きました。これにより、光明天皇を擁立する北朝との間で南北朝時代が始まりました。しかし、幕府成立の翌年、1339年に後醍醐天皇は崩御します。足利尊氏は、かつて対立していた後醍醐天皇を弔うため、京都に天龍寺を建立しました。

興味深いことに、南朝の文書では、後醍醐天皇がかつて尊氏に授けた「尊氏」という名を使わず、あえて「高氏」と呼び続けたと言われています。これは、後醍醐天皇が足利尊氏を裏切り者と見なし、その恨みを生涯にわたって抱いていたことを示しています。

このようにして、足利尊氏が開いた幕府は、新たな武家政権として日本の歴史に大きな足跡を残すとともに、南北朝時代という新たな対立の時代を切り開くこととなりました。

足利尊氏と弟・足利直義の兄弟対立が深めた南北朝の混乱

後醍醐天皇の崩御後、南北朝の統一は遠のくばかりで、さらなる混乱が日本を覆いました。足利尊氏とその弟である足利直義は、かつてともに武家政権を築き上げた仲でしたが、次第にその関係は悪化し、ついに足利家内部での抗争「観応の擾乱」が勃発しました。

この内部抗争では、反足利直義派が直義を幕府から追放し、兄弟による二元政治は終焉を迎えました。その後も南朝を取り込んだ直義との戦いが続きましたが、最終的に和睦が成立し、直義は政権に復帰することになります。しかし、一度壊れた関係は修復不可能であり、足利直義は政権を放棄して京都から鎌倉へと逃亡する事態に陥りました。

1351年、尊氏は南朝に和議を提案し、直義の討伐に向かいます。そして、鎌倉で直義を捕らえて幽閉し、1352年に直義が亡くなることで、兄弟間の抗争は一応の決着を見せました。

しかし、南朝との和議はすぐに破られ、尊氏は嫡男の足利義詮とともに再び南北朝の争いに巻き込まれます。こうした状況の中、尊氏は1358年に京都で亡くなり、南北朝の統一を果たすことなくその生涯を閉じました。尊氏の死後も、南北朝の対立は続き、彼の後継者たちへとその問題は引き継がれていくこととなりました。

足利尊氏と足利直義の兄弟対立が、南北朝問題を一層深刻化させ、歴史における重要な転換点となっているのです。

足利尊氏の死因

足利尊氏は、再び南北朝の争いに巻き込まれていた最中、1358年に京都で54歳の若さで亡くなりました。彼の死因は、背中にできた「癰(よう)」と呼ばれる腫れ物が原因で敗血症を引き起こしたと伝えられています。癰は、皮下深部の感染症で、主に黄色ブドウ球菌やレンサ球菌などが原因とされています。戦場での傷口から細菌が侵入し、症状が悪化したと考えられています。

しかし近年、この「癰」が本当に尊氏の死因だったのか疑問視する声が上がっています。癰は非常に痛みを伴うものの、通常は局所的な感染症に過ぎず、死に至ることは稀です。また、尊氏が亡くなる直前に宮廷から見舞いを受けた記録が残っており、蚊に刺された後が悪化したともされていますが、これが直接的な死因であったかは不明です。

一説によれば、尊氏の背中にできた腫れ物は、実は癰ではなく悪性腫瘍、つまり癌であった可能性も考えられます。当時の医術では、癌と癰の区別が難しく、腫れ物が切開や排膿といった処置で改善しなかった場合、単なる感染症ではなく、より深刻な疾患であった可能性があります。

さらに、尊氏が糖尿病などの基礎疾患を抱えていた可能性も指摘されています。免疫不全状態にあったため、感染症が致命的な敗血症にまで進行したのではないかという見方もあります。健康な54歳の男性が癰から急激に敗血症に至るのは不自然であり、彼の死因を巡る謎は未だに解明されていない部分が多いのです。

足利尊氏の性格

(画像引用: Duidoor Media)

足利尊氏は、鎌倉幕府を倒した後に後醍醐天皇に反旗を翻したことで、反逆者として悪いイメージを持たれることがあるかもしれません。しかし、実際には御曹司育ちなためか誠実な人柄や寛大な性格で多くの武士から慕われていました。家臣に惜しみなく財宝を分け与える気前の良さがありました。

一方で、室町幕府自体が直属の軍勢をほとんど保持できない状況を招き、多くの領主との統制に苦心しました。気前の良さが強すぎて、他の幕府の創設者である源頼朝や徳川家康のような合理性や非情さは持ち合わせていなかったようです。

また戦場では勇猛果敢に指揮を執る一方で、気が弱く決断力に欠ける面もありました。特に戦場で窮地に追い込まれると泣きだしたり「切腹する」と発狂してしまうこともあったようです。

足利尊氏は躁うつ気質があり、特に躁状態が強い人物だったとも言われています。というのも足利家には異常性格の素因が見られ、尊氏の父・足利貞氏は晩年に発狂し、祖父・足利家時は天下を取れないことを嘆いて自害したと伝えられています。尊氏の子孫にも、異常性格を持つとされる将軍が何人か存在しました。

このように、足利尊氏は寛大で人望の厚い人物でありながらも、非情さと決断力の欠如や気の弱さを併せ持つ複雑な性格の持ち主であったことが窺えます。

足利尊氏のエピソード

それでは最後に足利尊氏のエピソードを見ていきましょう。足利尊氏も様々なエピソードがあるので必見です!

実は日本三大悪人

足利尊氏は、「日本三大悪人」の一人として数えられることがあります。その最大の理由は、後醍醐天皇を裏切り、対立したことにあります。

しかし、この評価は戦前に形成されたものであり、明治から昭和初期にかけて天皇への忠誠が美徳とされた時代背景が影響しています。このため、天皇に害をなした人物が「悪人」とされてきました。戦前では足利尊氏の名前を称賛するだけで国会での追及を受け、大臣の地位を辞任せざるを得なかったほどだったそうです。

しかし、実際の足利尊氏は、後醍醐天皇と対立した際に刃を交えることを極力避けようとし、剃髪して寺院に引きこもるなど、朝廷に背くことへの強い抵抗感を示していました。尊氏は、後醍醐天皇を吉野へ追いやる結果となったものの、これが彼の本意ではなかったことが窺えます。

人心掌握が苦手

足利尊氏は、戦場では抜群の強さを誇る武将でしたが、政治的手腕や交渉術においては苦手な面がありました。特に、人心を掌握することに苦労し、弟の足利直義をはじめとする室町幕府の重臣たちと度々対立を繰り返していました。

尊氏の孤独と苦悩が垣間見える名言として、このような言葉を残していました。

「良し悪しと 人をば言ひて たれもみな わが心をや 知らぬならん」(足利尊氏)


現代語訳

人は皆、他人を好き勝手に批判するが、私の心の中を理解している者は誰もいない。

尊氏の孤独な施政者としての側面が浮かび上がるこの言葉からは、彼が人心掌握に苦しんでいたことがよく伝わってきます。

戦場での強さとは対照的に、足利尊氏は人々の心を掴むことが難しく、その苦悩は彼の政治人生において大きな影を落としていたのです。

実は気弱ですぐ切腹しようとしていた

足利尊氏といえば、鎌倉幕府を倒して室町幕府を創設した力強いリーダーと考える人が多いかもしれません。しかし、実際の彼はそのイメージとは大きく異なり、生来気が弱く、困難に直面すると不安を隠せない人物でした。

尊氏は、問題が発生すると泣き出し、時には「腹を切る」「私は死ぬ」といって周囲を困らせることもありました。追い詰められると、すぐに切腹を口にする彼の姿は、強いリーダー像とは程遠いものでした。しかし、そうした彼の弱さがかえって部下の共感を呼び、家臣たちは彼を見捨てることなく支え続けました。

尊氏の弱さを目の当たりにした弟の足利直義や優秀な重臣・高師直は、「この人には私がいないとダメだ」と感じ、尊氏を必死に支えました。彼らが尊氏を支え続けたのは、尊氏の弱さに対する親しみや同情があったからこそかもしれません。

このように、尊氏は決して強いだけのリーダーではなく、その弱さを隠さずに見せることで、部下の共感と支援を得ていたのです。彼のリーダーシップの在り方は、現代のリーダーシップ論にも通じるものがあります。

突然の出家宣言の願文を清水寺へ奉納!?

(画像引用: この世は夢のごとく候)

足利尊氏は、意外と気弱で一貫性のない性格だったと言われており、その象徴的なエピソードとして、1336年8月17日に清水寺に奉納した願文があります。この願文には、「この世は夢のようなものであり、もはや何も望むものはありません。私は出家しますので、来世の幸福をお与えください。現世の幸福は弟の直義に譲ります。どうか直義をお守りください。」という内容が記されています。

この願文だけを見ると、尊氏が「もう十分生きたから、後のことは弟に任せる」と言っているようにも取れますが、当時尊氏はまだ31歳という若さでした。南北朝時代とはいえ、出家を考えるには早すぎる年齢です。

しかも、この時期の尊氏は、7ヶ月前に箱根・竹の下の戦いで南朝の新田義貞を破り、5ヶ月前には多々良浜の戦いで九州の南朝勢力を打ち破り、3ヶ月前には湊川の戦いで南朝の象徴ともいえる楠木正成を討ち取るなど、まさに彼の権力が頂点に達していく時期でした。さらに、願文が書かれたわずか2日前には北朝の光明天皇が即位しており、尊氏はますます重要な立場に立っていました。

にもかかわらず、尊氏はこの時期に「とにかく早く出家させてください。今世はもう十分なので、来世の救いを求めます。そして、どうか道心をお与えください」と強く願っていたのです。

実際、この願文が奉納された3ヶ月後には室町幕府の始まりとされる建武式目が制定され、さらに2年後には尊氏は征夷大将軍に任命されています。しかし、その直前にもかかわらず、尊氏は出家を切望していたのです。

さらに、この願文が書かれる8ヶ月前、尊氏は一度寺に籠り、勝手に出家を試みています。その時も、弟の足利直義や重臣の高師直の説得により寺を出て戦う決心をしましたが、尊氏が本当に出家したいという強い願望を持っていたことがうかがえます。

このエピソードは、強大な権力を手にしつつも、その裏で深い苦悩と迷いを抱えた尊氏の人間的な側面を浮き彫りにしています。

多々良浜の戦いの神風の謎

かつて大モンゴル帝国からの襲撃を神風で撃退した北九州の地で、今度は足利尊氏を救う神風が北九州の多々良浜の戦いで再び吹きました。

1336年、足利尊氏は南北朝の戦いで劣勢に立たされ、わずか2千の兵を率いて九州へと退却しました。一方、天皇側の菊池武敏率いる菊池軍は2万の大軍を擁し、事前の戦力差は圧倒的でした。この状況に尊氏は恐怖し、敵の大軍を前に「自害せばや」と言い出すほど追い詰められていました。しかし、弟の足利直義が冷静に尊氏をなだめ、「自分が先陣を切るので、自害は思いとどまってください」と説得し、尊氏を励ましました。

戦いの直前、突然猛烈な北風が吹き荒れ、砂嵐が菊池軍を襲いました。この神風とも呼べる風は、尊氏軍に有利に働きました。さらに、この混乱の中で、菊池軍の兵たちは尊氏軍のわずか2千騎を250万騎と見間違えるなどの錯覚に陥り、戦意を失った兵たちは次々に尊氏側へと寝返りました。

この奇跡的な展開には、尊氏が宗像大社や香椎宮といった神社に布陣し、神々の加護を受けているという演出が一役買っていました。尊氏は自らが神に守られているという正当性を巧みに演出し、それが士気を高め、逆転勝利を引き寄せたのです。

この多々良浜の戦いでの勝利は、圧倒的な戦力差を覆し、尊氏の運命を大きく変える歴史的な転機となりました。尊氏の冷静な弟、直義の助けや神風のような奇跡が、尊氏を勝利へと導いたのです。

まとめ

いかがでしたでしょうか?足利尊氏は、鎌倉幕府を倒し、室町幕府を開いた日本史の転換点を作った人物です。しかし、その成功は単なる武力だけではなく、弟・直義の支えや、神風と呼ばれる奇跡的な出来事が支えていました。尊氏は強力なリーダーである一方で、時に迷いや不安を抱え、出家を願うほどの繊細さも持っていました。彼の生涯は、力強さと脆さが織り成す複雑な人間像を示し、後世に多くの教訓を残しています。

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