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武田信玄は何した人か簡単な年表、死因、性格やエピソードを紹介

戦国時代最強と呼ばれた武田軍のリーダー、武田信玄。「風林火山」を掲げ幾多の戦に連戦連勝し、あの織田信長も恐れさせていたことから、雄々しく傍若無人なイメージを持っている方が多い。しかし実は家臣の意見に耳を傾けて適材適所で活用するなど人心掌握のプロあり、さらには戦以外にも領民を守る治水事業にも尽力し地元民からも慕われていたのです。今回はそんな意外と知らない武田信玄の生きざまに迫っていきます。

武田信玄は何がすごいの?何した人か紹介

武田信玄は、戦国時代に当時最強と言われていた武田軍を率いていた名将です。その武勇はのちの天下人「織田信長」の耳にも届き、恐れさせるほどでした。特に上杉謙信との川中島の戦いで有名です。

一方で彼は優れた政治家でもありました。信玄は領土の治水対策に力を入れ、釜無川に信玄堤を築いて氾濫を防ぎ、新たな田畑を開発しました。この民政への尽力が、領民に深く慕われ、今でも信玄が郷土の英雄として称えられる理由の一つです。

また、信玄の時代には商人や職人を集めて甲府の城下町を拡大し、駿府や小田原と並ぶ東国有数の都市に発展させました。さらに、交通網の整備を進め、宿町を発展させることで、甲府を中心とした経済の発展にも寄与しました。

晩年には、京都を目指して上洛の軍を起こし、遠江の三方ヶ原で徳川軍を破るなど軍事面でも輝かしい成果を挙げましたが、病に倒れ、夢半ばで生涯を終えました。

日本統一は果たせなかった武田信玄ですが、今でも戦国時代屈指の武将として記憶され続けています。それでは次は武田信玄の簡単な年表を見ていきましょう。

武田信玄の簡単な年表

それでは武田信玄が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。

21歳で父を追放し家督を相続

武田信玄は1521年に甲斐国(現在の山梨県)で武田信虎の長男として生まれ、幼名を「太郎」といいました。幼い頃から学問と武術に優れ、僧侶が教えた「庭訓往来」などの書を短期間で暗記し、その才能に驚いた僧侶が「孫子」や「三略」などの中国の軍略書も彼に教えたという逸話が残っています。

しかし、父・武田信虎はこの才能豊かな息子をあまり良く思っておらず、家督を弟の武田信繁に譲ろうと考えていました。それにもかかわらず、21歳のとき、武田信玄は重臣たちの支持を得て、家督を相続しました。信玄は父を駿河(現在の静岡県)の今川義元の元に追放しましたが、父を殺すことはなく、追放後も多額の生活費を送り続けました。また、弟の武田信繁とも良好な関係を保ち、信繁は信玄の右腕として副将を務めるなど、兄弟の絆は強かったと伝えられています。

三国同盟で戦力拡大

武田信玄は家督を継いだ後、信濃の諏訪が甲斐へ攻め込んでくることを警戒し、1542年に諏訪を平定しました。続いて信濃へも進軍しましたが、思うようには進展せず、心理戦を駆使して敵を揺さぶりました。敵の首を晒したり、女性や子どもを捕らえて下僕にするなど、苛烈な戦術を展開したことが、北信濃で勢力を持っていた村上義清を刺激し、1548年の「上田原の戦い」で初の敗北を喫するなど、武田軍は苦戦を強いられました。

この経験から、武田信玄は戦の難しさを痛感し、駿河の今川氏や相模の北条氏との協力関係を築くことにします。こうして甲斐・駿河・相模の三国同盟が成立し、信玄はこの同盟を通じて一層その勢力を強化していきました。

戦で連戦連勝で勢力拡大

武田信玄は三国同盟を結んだ後も領土拡大に精力的に取り組みました。1568年には、今川氏との同盟を破棄し、駿河を占領します。この決断は、武田信玄が徳川家康に領地を奪われるよりも、先に自らの手で確保した方が良いと判断したためといわれています。

しかし、この駿河侵攻を契機に、今川氏、徳川氏、そして北条氏との敵対関係が生まれ、武田包囲網が形成されつつありました。それにもかかわらず、武田信玄は北条氏の小田原城などを攻撃し、北条軍を駿河から撤退させることに成功します。その後、再度駿河を手中に収めた信玄は、1571年には北条氏と和睦し、再び同盟を結ぶことで勢力をさらに強固なものにしていきました。

打倒織田信長を目指すも最後は、、

1571年、武田信玄は室町幕府15代将軍・足利義昭と織田信長の対立が深まる中、打倒織田信長を掲げて上洛を目指しました。そのため、織田信長の盟友である徳川家康が支配する三河や遠江へ侵攻を開始します。

1572年の「三方ヶ原の戦い」では、武田信玄は徳川軍を打ち破り、尾張(現在の愛知県西部)への進軍も目前に迫ります。しかし、この頃から信玄の持病が悪化し、甲斐への撤退を余儀なくされました。そして1573年4月、帰路の途中で武田信玄は病に倒れ、53歳で生涯を閉じました。

武田信玄の死因

(画像引用: 歴史人)

武田信玄の最期は、戦場ではなく病によるものでした。数々の戦で連勝し、勢力を拡大してきた信玄は、ついに戦国武将の夢である「上洛」を目指す段階に達しました。しかし、その夢が目前に迫った時、53歳で病に倒れてしまいます。

信玄は3万5000の兵を率い、徳川家康・織田信長の連合軍を「三方ヶ原の戦い」で打ち破るなど戦果を挙げましたが、三河の野田城を攻略した直後に病状が悪化し、甲斐への撤退を余儀なくされました。残念ながら甲斐まで戻ることは叶わず、信州伊那の駒場(現在の長野県)でその生涯を閉じました。

死の間際、信玄は「三年の間、我が死を隠せ」と遺言を残しました。これは、自分の死が明かされれば敵国が攻めてくると予見し、後継者である勝頼を守るためのものでした。しかし、その予見は的中し、最終的に武田家は勝頼の代で滅亡してしまいます。

さらに、信玄は危篤状態の中で「明日は瀬田に旗を立てよ」と語ったとされています。瀬田は京都に向かうルート上の地名で、信玄の意識が朦朧としながらも上洛を諦めきれなかった執念が表れた言葉です。最後まで敵に討たれることなく病に屈した信玄にとって、その無念さは計り知れないものでした。

武田信玄の性格

(画像引用: President Online)

武田信玄は、しばしば大柄で荒々しい武将として描かれますが、実際の彼の性格は慎重で、気配りができる人物だったとされています。幼少期から教育を重視し、「幼少期に受けた教育が将来を左右する」という信念のもと、若い世代の集団教育を推進しました。信玄は、一人一人の素質や個性を観察し、適切な登用を行う慎重な姿勢を持っていました。

彼は、人を好き嫌いで判断せず、誰にでも意見を求める公正な人間であり、家臣からも信頼されていたといわれます。父・武田信虎を追放して家督を継いだ際も、家臣たちの支持が大きな要因でした。父を殺すことなく追放し、その後も十分な仕送りを行ったのは、家臣や周囲への配慮から来たものであり、信玄の温厚さや無駄な血を流さない戦略が見て取れます。

また、弟の信繁とも良好な関係を築き、信繁は信玄の副将として活躍しました。家族や家臣との関係においても信頼を得ていた武田信玄は、他の戦国武将とは異なる穏やかで配慮のある人物だったと言えるでしょう。

武田信玄のエピソード

それでは最後に武田信玄のエピソードを見ていきましょう。武田信玄も様々なエピソードがあるので必見です!

戦国時代最強の武田軍の勝率

武田信玄は戦国時代最強の武将と言われ、その武田軍は72戦中49勝3敗20分の戦績を残しています。勝率は約68%と、思ったより低く見えるものの、敗北はわずか3回で、引き分けが非常に多いのが特徴です。

これは信玄の「戦いは5分か6分の力で勝てば良い」という戦略に基づいています。10の力で完勝してしまうと、それだけ自軍へのダメージが大きくなるため、信玄は大勝よりも「負けないこと」を重視していました。この考え方は、強敵に囲まれた甲斐の地理的状況に由来し、戦の後に平力が落ちることを避けるためのものでした。

また、信玄は「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という名言を残しており、「人の才こそが最も強固な守りであり、情けは味方を増やすが、仇を作れば敵を増やして国を滅ぼす」という信念を持っていました。敵を徹底的に滅ぼすことを避け、次の戦いに備える慎重な姿勢が、信玄の戦い方を特徴づけています。

風林火山

(画像引用: Trans.biz)

武田信玄と言えば、「風林火山」の印象が強く残っていますが、これは彼の軍旗に刻まれた14文字に由来します。「疾きこと風のごとく、徐かなること林のごとく、侵略すること火のごとく、動かざること山のごとし」という言葉は、信玄が敬愛していた古代中国の兵法書『孫子』からの引用です。

この言葉は、戦における戒めとして武田信玄が掲げたものであり、戦場での冷静さと果敢さを象徴しています。また、この「風林火山」の軍旗は、戦国時代の多くの大名に恐怖を与え、武田軍の強さと戦術の巧みさを象徴する存在となりました。

上杉謙信との川中島の戦い

(画像引用: 歴史プラス)

武田信玄といえば、越後国(現在の新潟県)を支配していた上杉謙信とのライバル関係を思い浮かべる人も多いでしょう。2人はそれぞれ「甲斐の虎」(武田信玄)と「越後の龍」(上杉謙信)と称され、戦国時代を代表する名将として恐れられていました。

この2人は、信濃(現在の長野県)を巡って1553年から1564年の11年間で5度にわたり「川中島の戦い」を繰り広げました。この合戦は有名ですが、実際には激しい衝突が少なく、特に武田軍に大きな被害が出たのは1回目と4回目の戦いだけだったと言われています。5度目の合戦では衝突すら起こりませんでした。

その背景には、武田信玄が信濃を手に入れようとする攻撃的な目的に対し、上杉謙信は越後を守るために戦っており、互いの戦う目的が異なっていたことが理由とされています。武田信玄が越後を攻める意図がなければ、上杉謙信も必要以上には戦おうとしなかったのです。

さらに、2人の間には友情に近い感情があったとも、謙信が信玄を嫌っていたとも言われていますが、少なくとも武田信玄は上杉謙信の人間性を高く評価していたようです。信玄が亡くなる際には「困ったときは、上杉謙信を頼れ」と跡継ぎの武田勝頼に伝えたことが『甲陽軍鑑』に記されています。

武田信玄は城を持たなかった?

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という武田信玄の名言があるため、信玄は城を持たなかったと誤解されることがありますが、実際には信玄も多くの城を所有していました。

彼の居城である躑躅ヶ崎館(現在の山梨県甲府市にある武田神社)をはじめ、避難用に築かれた要害山城、また信濃侵攻で奪った高遠城など、武田信玄は築城や城の奪取に積極的でした。このように、信玄は城を持たなかったわけではなく、必要に応じて城を利用しながらも、人の力を重視する戦略家だったのです。

家紋 武田菱とは?

武田信玄の家紋は「武田菱」(たけだびし)と呼ばれ、菱の葉のような四つの菱紋を並べた形をしています。この家紋は別名「四割菱」(よつわりびし)とも言われ、武田氏の祖である甲斐源氏の宗家に由来しています。

その起源は、武田信玄の先祖である源頼義が戦勝祈願をした神社で授けられた鎧にこの菱紋があしらわれていたことからきています。この「武田菱」は、信玄だけでなく、武田家の代々の家紋として使用され、武田氏の象徴となっていました。

武田信玄は本名ではない!?

現在広く知られている「武田信玄」という名前は、本名ではなく、39歳で出家した際に名乗った法号です。信玄の本名は「武田晴信」であり、幼名は「太郎」と呼ばれていました。元服の際に、室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の字を授かり、「晴信」と名乗るようになったのです。このように、彼が「信玄」と名乗ったのは後年のことで、本名は「晴信」でした。

治水事業に長け信玄堤を作成

(画像引用: wikipedia)

武田信玄の才能は軍事だけにとどまりません。彼は治水事業にも力を注ぎ、領民の生活を守りました。信玄が手がけた堤防、「信玄堤(しんげんづつみ)」は、約450年経った今でもその役割を果たしており、現在も親しまれています。

当時、信玄が治めていた甲斐国(現在の山梨県)は、甲府盆地という扇状地にあり、頻繁に洪水に見舞われていました。富士川を含む複数の川が流れ込むこの地域では、大雨のたびに周囲の山々から濁流が押し寄せ、領民は苦しい生活を強いられていました。痩せた土地に加え、度重なる洪水被害により、農作物を育てるための耕地が限られていたのです。

信玄は、領民の生活を豊かにするためにまず洪水被害を防ぐことが重要と考え、1541年から治水工事に着手し、20年近い歳月をかけて「信玄堤」を完成させました。これにより、領民は安心して耕作できる土地を手に入れ、生活が大きく改善されました。

さらに、信玄は堤の管理を地元の領民に任せ、税を免除する代わりに、伝統的な祭りを奨励しました。この祭りでは、神輿を担いで堤の上を練り歩くことで、土が踏み固められ、堤防がさらに強固になるという実利的な工夫も施されていました。これは「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という信玄の名言にも通じる発想であり、人々との絆を大切にしながら領国を守った彼の治世を象徴する出来事です。

人心掌握術に長けていた

武田信玄は、戦国時代の武将の中でも、優れた人心掌握術を持つ主君として知られています。多くのワンマンな大名が多い時代において、信玄は家臣の意見に耳を傾け、彼らの能力を見極めて重用する姿勢を貫きました。家臣たちが自由に意見を述べられる環境を整え、成果を挙げた者には迅速に報酬を与えるというマネジメント手法は、現代の経営にも通じるものがあります。また、大きな失敗をした家臣にも再びチャンスを与えるなど、懐の深いリーダーシップを発揮していました。

信玄は、生まれや出身にかかわらず、実力のある者を登用する目を持っており、その象徴が隻眼で片足の不自由な山本勘助を軍師として重用したことです。外見や噂ではなく、能力や実績で人を評価する信玄の姿勢は、現代の評価基準にも共通しています。

武田信玄は「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」という名言を残し、人を大切にすることで国を守るという信念を持っていました。彼は豪華な城を築くことなく、館に住み続け、家臣に褒美を与えることで信頼関係を築きました。信玄は、刀や家紋入りの羽織など、現物支給にこだわり、それを手に入れた家臣が他の者たちの手本となり、モチベーションの向上に繋がる仕組みを作り上げました。これにより、家臣たちは「自分も褒美を得たい」という競争心を抱き、成果を上げようと努力しました。

さらに、信玄は自分に厳しく、自ら定めた甲州法度之次第を破れば、例外なく自身も処罰するという姿勢を貫いていました。これにより、家臣からの尊敬と信頼を集め、武田家を支える強固な組織を築いたのです。

彼が重用した家臣の中でも「武田四天王」と呼ばれる4人は、家柄ではなく信玄がその実力を見抜いて引き立てた者たちです。信玄の恩に報いるため、彼らは生涯をかけて武田家に尽くしました。このように、信玄の人を見る目とリーダーシップは、家臣たちの忠誠心を引き出し、武田家の繁栄に大きく貢献しました。

まとめ

いかがでしたでしょうか?武田信玄は、軍事的な才能に加え、領地経営や人材育成にも優れたリーダーでした。戦場での圧倒的な戦績だけでなく、治水事業や家臣を大切にする姿勢からも、彼の人間性が際立ちます。信玄は人を大切にし、家臣の意見に耳を傾け、成果を正当に評価することで武田家の繁栄を築きました。その手腕は、現代においてもリーダーシップの模範とされ、今なお多くの人々に敬愛されています。

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