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上杉謙信は何した人か簡単な年表、死因、性格やエピソードを紹介

戦国時代、数多くの名将が天下を目指して争う中、「軍神」を崇められ異彩を放つ武将がいたことご存じでしょうか? そう、越後の国を治めていた上杉謙信だ。武田信玄の永遠のライバルであり、なんと戦の勝率は驚異的な97%。

そんな上杉謙信は、実は義を重んじる性格で、敵であるはずの武田信玄に塩を送るという逸話まで残している。なぜ彼は「軍神」と呼ばれ、後世にまでその名を刻んだのか?今回は謙信の波乱に満ちた生涯をたどりながら、その人物像に迫っていきます。

上杉謙信は何がすごいの?何した人か紹介

上杉謙信(うえすぎ けんしん)は、戦国時代を代表する武将の一人で、越後国(現在の新潟県)で生まれました。彼は、武田信玄との宿敵関係でも知られ、特に「川中島の戦い」はその激闘の象徴とされています。謙信は生涯で約70回の戦いに参戦し、そのうち敗北したのはわずか2回という驚異的な戦績を持ち、その卓越した軍略により「軍神」と称えられました。

しかし、謙信は単なる戦士ではなく、琵琶を愛で、和歌にも通じる教養豊かな文化人でもありました。最も有名な逸話の一つは、敵対していた武田信玄が塩不足に苦しんでいると知り、謙信が信玄に塩を送ったという話です。これは、今川家と北条家が信玄の領国に対して「塩止め」を行っていたことが背景にありますが、謙信は「義の武将」として敵にも礼を尽くす精神を示し、この行為が彼の名声をさらに高めました。

また、上杉謙信はこの時代の武将としては珍しく、天皇や将軍に拝謁し、二度にわたって御剣を賜る栄誉を受けました。謙信は毘沙門天を深く信仰し、生涯にわたり妻帯を禁じて独身を貫いたため、実子を持ちませんでした。そのため、彼の死後、後継者争いが生じたのです。

このように、上杉謙信は優れた軍略家でありながらも高潔な精神を持つ人物として、多くの人々から尊敬され続けています。

上杉謙信の簡単な年表

それでは上杉謙信が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。

幼少期

上杉謙信は、1530年(享禄3年)、越後国の春日山城に守護代・長尾為景(ながお ためかげ)の四男として生まれました。幼名は「虎千代」(とらちよ)で、彼が庚寅(かのえとら/こういん)年に生まれたことに由来して名付けられたと言われています。

当時の越後国は内乱の続く不安定な時代で、父・長尾為景もまた、1536年(天文5年)に国人領主の上条定憲(じょうじょう さだのり)らに圧迫され、隠居に追い込まれました。家督は虎千代の兄である長尾晴景(ながお はるかげ)が継ぎ、一方で虎千代は城を離れて、春日山城下にある林泉寺に入門しました。

長尾為景がなぜ虎千代を疎んだのかについては、明確な理由は伝わっていませんが、為景が虎千代を自分の実子ではないと疑っていたという説や、単に性格の不一致が原因だったという説もあります。

その後、1543年(天文12年)に虎千代は元服し、「長尾景虎」(ながお かげとら)と名を改め、栃尾城に入城することでその武将としての歩みを本格的に開始しました。

初陣の栃尾城の戦いで勝利

(画像引用: にいがた観光ナビ)

長尾景虎(後の上杉謙信)の初陣は、栃尾城の戦いでした。この戦いのきっかけは、越後守護・上杉定実(うえすぎ さだざね)が伊達稙宗(だて たねむね)の子を婿養子に迎えるかどうかを巡って、賛成派と反対派に分かれたことにあります。当時、長尾家の当主である兄・長尾晴景(ながお はるかげ)は病弱で、家中が内紛状態に陥っていました。さらに、翌年の1544年(天文13年)、越後の豪族たちが謀反を起こし、若き景虎が治める栃尾城に攻め込んできました。

しかし、まだ15歳の長尾景虎を侮った敵軍は、予想外の結末を迎えることになります。景虎は、少数の兵を巧みに二手に分け、一隊を使って敵本陣の背後を奇襲しました。これにより、敵軍は混乱に陥り、その隙をついて景虎は本隊を突撃させました。この戦術が功を奏し、戦況は一気に景虎側に有利に転じ、初陣となった栃尾城の戦いは彼の勝利で終わりました。

この初陣での勝利は、若き長尾景虎の軍才を早くも証明する結果となり、彼が後に名将として名を馳せる道を開いた重要な戦いでした。

川中島での活躍

(画像引用: Japaaan magazine)

長尾景虎(後の上杉謙信)は、初陣を果たした後も数々の戦いで勝利を収め、その名を高めていきました。1550年(天文19年)、室町幕府13代将軍・足利義輝(あしかが よしてる)の支持を得て、越後国主としての地位を確立。そして翌年、22歳にして越後国の統一を成し遂げます。

1552年(天文21年)、関東管領・上杉憲政(うえすぎ のりまさ)が相模国の北条氏康(ほうじょう うじやす)に攻められ、越後に逃れてきた際、長尾景虎は憲政を保護しました。これがきっかけで、景虎は北条氏康との敵対関係に入ります。同年8月、景虎は関東に軍を送り、北条軍を上野国(現在の群馬県)から撤退させることに成功。さらに、武田晴信(のちの武田信玄)によって信濃を追われた小笠原長時(おがさわら ながとき)を保護したことで、武田晴信とも対立するようになりました。

この対立がやがて、戦国時代の名勝負「川中島の戦い」へと発展します。1553年(天文22年)、長尾景虎は勢力を拡大する武田晴信を討伐すべく、信濃国に出陣し、第一次川中島の戦いが勃発。この戦いでは、景虎自らが指揮を執り、武田軍に大打撃を与えて圧勝しました。続く第二次川中島の戦いでも、信濃の領地を元の領主に返還させるという有利な条件を引き出し、景虎は再び勝利を収めます。

さらに、1557年(弘治3年)に行われた第三次川中島の戦いでは、景虎の軍勢は武田領内に深く進軍し、武田軍は決戦を避けて守りを固めました。この戦いは膠着状態に陥りましたが、長尾景虎の果敢な進軍は彼の戦略家としての優れた手腕を示すものでした。こうして、川中島を舞台にした武田信玄との長期にわたる戦いは、戦国時代を象徴するものとして語り継がれています。

小田原城の戦いで活躍

1571年、武田信玄は室町幕府15代将軍・足利義昭と織田信長の対立が深まる中、打倒織田信長を掲げて上洛を目指しました。そのため、織田信長の盟友である徳川家康が支配する三河や遠江へ侵攻を開始します。

1572年の「三方ヶ原の戦い」では、武田信玄は徳川軍を打ち破り、尾張(現在の愛知県西部)への進軍も目前に迫ります。しかし、この頃から信玄の持病が悪化し、甲斐への撤退を余儀なくされました。そして1573年4月、帰路の途中で武田信玄は病に倒れ、53歳で生涯を閉じました。

軍神、車懸りの陣で武田軍を翻弄

1561年(永禄4年)、長尾景虎は上杉憲政の要請に応じ、山内上杉家の家督と関東管領職を継承し、名前を「上杉政虎」(うえすぎ まさとら)へ改名しました。その後、関東から越後に帰国した政虎は、戦国時代屈指の激戦とされる「川中島の戦い」へと臨みます。特に「八幡原の戦い」(第四次川中島の戦い)は、この長期戦の中でも最も有名な戦いとして知られています。

上杉政虎は、霧が立ち込める中、得意の「車懸りの陣」(くるまがかりのじん)という戦術を展開。この陣形は、兵を幾重にも並べ、波状攻撃を繰り返すもので、前列が攻撃を終えると後列の兵が次々と襲いかかるという非常に効果的な戦法でした。濃霧が晴れた瞬間に、上杉軍が目の前に現れたため、武田軍は大きく動揺し、戦場は一気に激戦となりました。

この戦いで語り継がれる逸話の一つが、上杉政虎が自ら馬を駆り、武田信玄の本陣に突入して一騎打ちを仕掛けたというものです。政虎が振り下ろした太刀を、信玄が軍配で受け止めたと伝えられるこの場面は、後世の創作であるとされていますが、上杉謙信の勇敢さと戦場での活躍を象徴する逸話として有名です。

実際の戦果としては、武田軍は重臣の山本勘助や信玄の弟・武田信繁を失うなど、大きな損害を受けましたが、戦局としては決着がつかず、膠着状態のまま終戦となりました。

その後、政虎は再び関東へ向かい、北条氏康との戦いにも挑みますが、川中島での損害が影響し、1561年(永禄4年)の「生野山の戦い」では敗北を喫します。しかし、その後も北条軍を松山城から追い払うなど、戦局を立て直すことに成功しました。

政虎が駆使した「車懸りの陣」や、その軍神と称される戦いぶりは、武田信玄との宿命の対決を通じて、日本の戦国時代における最も名高い戦術家の一人として、今も語り継がれています。

連戦連勝の破竹の勢い

1561年(永禄4年)、上杉政虎はその名を「上杉輝虎」(うえすぎ てるとら)へと改めました。彼の勢力拡大はこの後も続き、翌年の1562年(永禄5年)には越中国に出陣し、勢力を大きく拡張しました。しかし、その間に北条・武田連合軍5万が松山城を急襲し、輝虎の軍は劣勢に立たされます。冬の雪で国境が閉ざされる中、輝虎は急ぎ松山城へ向かいましたが間に合わず、城は陥落しました。

それでも輝虎は勢いを失わず、松山城の失陥をものともせずに武蔵国、下野国(現在の栃木県)、下総国(現在の千葉県北部、茨城県の一部)、常陸国(現在の茨城県)へと次々と侵攻し、諸城を攻略していきました。その破竹の勢いは、関東全域で上杉輝虎の名をさらに高め、敵対する勢力を次々と打ち破りました。

1564年(永禄7年)には、上杉輝虎と武田信玄の最後の対決となる第五次川中島の戦いが勃発。この戦いは60日にも及ぶ長期戦でしたが、最終的には引き分けとなり、両者が川中島で相まみえることは二度となくなりました。

1565年(永禄8年)には、関東の要衝である「関宿城」(せきやどじょう)を巡る第一次関宿合戦で苦戦を強いられただけでなく、関東にいた上杉方の諸将が離反するという困難に直面しましたが、輝虎はその後も関東での影響力を維持し続けました。

このように、上杉輝虎は幾多の困難にも屈せず、次々と領土を拡大し、その軍才と戦略眼によって戦国時代の一角に君臨し続けたのです。

越相同盟を結ぶ

1569年(永禄12年)、上杉輝虎(後の上杉謙信)は、長年敵対していた北条氏康と「越相同盟」(えつそうどうめい)を締結しました。この同盟は、武田信玄が北条氏との「甲相駿三国同盟」を破り、駿河国(現在の静岡県)へ侵攻したことを受け、戦況が三つ巴の混乱状態となる中で成立しました。上杉輝虎にとって、この同盟は武田信玄への牽制と、北条氏による侵攻を防ぐための軍事的な意図を持っていました。

しかし、関東の諸将にとっては、これまで敵対していた北条氏康と手を結んだことが不満の種となり、上杉輝虎に対する不信感が広がります。特に、長年北条氏と対立していた安房国(現在の千葉県)の大名・里見義弘(さとみ よしひろ)は、この越相同盟に失望し、上杉輝虎との同盟を破棄して武田信玄と新たに同盟を結びました。

このような状況の中、1570年(元亀元年)12月、上杉輝虎は出家し、「不識庵謙信」(ふしきあんけんしん)という法号を受け、以降「上杉謙信」と名乗るようになります。この改名は彼の信仰心を深め、さらにその名を広く知らしめる一つの節目となりました。

北条氏政との戦いでは苦戦

(画像引用: 関ヶ原観光実用マップ)

1571年(元亀2年)10月、北条氏康の死去により、再び戦国の情勢が大きく動きました。氏康の次男である北条氏政(ほうじょう うじまさ)が家督を継ぐと、上杉謙信との同盟は破棄され、北条氏政は再び武田信玄と手を結び、上杉謙信と敵対する道を選びました。

1574年(天正2年)、上杉謙信は利根川を挟んで北条氏政と対峙しましたが、増水していた利根川を渡ることができず、互いに睨み合ったまま撤退せざるを得ませんでした。同年の「第三次関宿合戦」でも、関東の諸将からの支援を得られず、謙信は関宿城を攻撃することができないまま、城は降伏。これにより、関東における上杉派の勢力は大きく後退し、謙信は苦戦を強いられることになりました。

この一連の戦いは、謙信が北条氏政との対決で思うような戦果を挙げられず、関東での影響力が低下していく苦しい局面となりました。

能登国の覇権を懸け七尾城の戦いが勃発

(画像引用: COOL JAPAN VIDEOS)

1576年(天正4年)、上杉謙信は能登国(現在の石川県北部)の覇権を握るべく、上洛を急ぐ中で戦略的な要所である七尾城に目を付けました。七尾城では、上杉謙信に支援を求めようとする派閥と、織田信長に従おうとする派閥の間で内部対立が起こっており、謙信はこの機に乗じて、交渉により城を手中に収めようと試みました。しかし、交渉は決裂し、能登国の覇権を賭けた「七尾城の戦い」が勃発します。

謙信はまず周辺の諸城を次々と攻略し、七尾城を孤立させることに成功しました。しかし、七尾城は松尾山の山上に築かれた堅固な山城であり、簡単に落とせる城ではありませんでした。攻略には約1年の歳月を要し、その間には北条軍の進軍や奪還を図る敵軍の反撃があり、戦況は一時厳しい状況に陥ります。それでも、上杉謙信は決して諦めず、徹底した包囲戦を続けました。

ついに1577年(天正5年)、長引く籠城戦の末、城内で疫病が発生したため七尾城は降伏し、謙信は能登国の覇権を握ることに成功しました。この戦いで謙信は粘り強い戦略を駆使し、能登国を支配下に収め、戦国の覇者としてさらに名を高めました。

軍神の最期

1577年(天正5年)、上杉謙信が七尾城を攻略した同年、織田信長は七尾城からの救援要請を受け、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)をはじめとする3万の大軍を派遣しました。織田軍が加賀北部に進軍していることを知った謙信は、これを迎え撃つために迅速に南下します。織田軍は意見の対立による足並みの乱れが生じ、さらに上杉軍の接近を知り、形勢不利と判断して撤退を開始します。上杉謙信は退却する織田軍を追撃し、手取川で織田軍を撃破することに成功しました。この戦いで、謙信は織田信長の軍勢に対し、最後の勝利を収めました。

しかし、その翌年、1578年(天正6年)、上杉謙信は春日山城に戻り、次の遠征の準備を進めている最中に急変します。謙信は城内の厠で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。享年49歳。死因は脳溢血などの病気とされています。

上杉謙信の突然の死は、上杉家に大きな混乱を引き起こしました。彼には明確な後継者が決まっておらず、養子の上杉景勝と上杉景虎の間で後継者争いが勃発します。この「御館の乱」(おたてのらん)は、激しい争いの末、景勝が勝利し、上杉家の家督を継承しました。後に景勝は豊臣秀吉に仕え、五大老の一人として名を馳せることになります。

謙信の最期は、彼の卓越した軍略家としての生涯に突然の幕を下ろし、上杉家に新たな時代をもたらす転換点となりました。

上杉謙信の死因

(画像引用: Japaaan magazine)

上杉謙信の死因について、「上杉家文書」には、彼が厠(トイレ)で脳卒中を発症し、意識を失い、遺言を残す間もなく亡くなったと記されています。死因は「突然の虫気」、つまり中風や脳出血を意味しており、謙信は脳卒中で急死したのです。

謙信は大酒飲みであり、特に塩分が多い梅干しを好んで酒の肴にしていたため、高血圧が持病だった可能性があります。これが脳卒中の原因となり、最期を迎えたと考えられます。彼が倒れた際、回復を祈るために寺社で祈願も行われましたが、脳卒中の前では効果を発揮することはありませんでした。

謙信の辞世の詩として有名な言葉は、「四十九年一睡夢 一期栄華一杯酒」(49年の生涯は一睡の夢のようなもの。この世の栄華は一杯の酒のようだ)というものです。謙信はこの詩を通じて、自らの生涯を儚いものと見なし、酒を愛した人生を象徴的に表現しています。

上杉謙信の性格

(画像引用: BUSHOO!JAPAN)

上杉謙信は、その義理堅い性格で広く知られており、言動や行動からもその人柄が垣間見えます。彼は「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり」と春日山城の壁に記した言葉で、運命は天の意思に委ねられるとしても、自分を守り、功績を立てるのは自らの行動次第だと説いています。当時の多くの武将が占いや縁起を重んじていた中で、謙信は現実主義に徹し、占いに頼ることはなかったと言われています。

謙信はまた、「人の上に立つ者の言葉は、深い思慮のもとに発するべきであり、軽率な発言は許されない」と語っており、主君としての責任感と慎重さを強調しています。この姿勢は、謀反に遭った際にも現れ、謙信は家臣の裏切りの理由を冷静に聞き、納得できる事情があれば彼らを許し、再び大切に扱う寛容さを持っていました。しかし一方で、規律を守らない者に対しては非常に厳格であり、筋を通すことを何よりも重視していました。

謙信の義理堅さは、彼の仏教への深い信仰からも影響を受けていたかもしれません。幼少時に寺で仏道を学び、そこで義の心を育んだことが、彼が困難に直面する者や助けを求める者に対して常に手を差し伸べる姿勢に繋がっていたのです。その義の精神は、永遠のライバルであった武田信玄にも評価されており、信玄は死の間際、部下たちに「もしもの時は謙信を頼れ」と告げたという逸話が残っています。

謙信の戦いには常に大義名分があり、自らの利益を追求するためではなく、他者を助けるために戦いました。第四次川中島の戦いでは村上義清や小笠原長時を支援し、関東出兵では関東管領・上杉憲政を救うために行動しています。このような義の武将としての姿勢と、毘沙門天への篤い信仰から、彼は「軍神」として称えられるようになったのです。

上杉謙信のエピソード

それでは最後に上杉謙信のエピソードを見ていきましょう。上杉謙信も様々なエピソードがあるので必見です!

敵に塩を送った?

「敵に塩を送る」という言葉は、敵の弱みに付け込むのではなく、逆に助けようとする行為を表すものです。この言葉は、甲斐の武田信玄が塩を手に入れられず困っていたときに、敵対していた上杉謙信が塩を送ったという逸話から生まれました。

当時、塩は生活に欠かせない貴重な資源でありましたが、海のない甲斐では自ら塩を生産することができず、他国からの供給に依存していました。信玄は当初、同盟を結んでいた今川家から塩を購入していましたが、後に敵対関係となり、塩の輸送が止められてしまいました。

甲斐の領民が塩不足で苦しんでいることを知った謙信は、敵である信玄に対しても情けをかけ、塩を送ったと言われています。ただし、実際には謙信が塩を直接送った記録はなく、塩商人が甲斐へ向かうのを止めなかっただけともされています。

戦の勝率は驚異の97%で生涯わずか2敗

戦国最強と称される上杉謙信は、約70戦の戦歴の中で「61勝2敗8分」という驚異的な戦績を誇り、その勝率は実に97%に達します。これは同時代の名将・武田信玄の「49勝3敗20分」という67%の勝率をはるかに凌ぐものであり、謙信がいかに卓越した軍事指導者であったかを示しています。

武田信玄が謙信を「太刀において日本無双の名大将」と称賛しており、織田信長の兵たちも上杉軍を「天下一の軍士」と恐れていたことが記録されています。まさに日本無双の戦争指導者として、その戦術の高さと兵の強さは異論の余地がないとされています。

炊きたての白米を振る舞い、軍の士気を高めていた

上杉謙信は、出陣前に兵士たちへ「お立ち飯」と呼ばれる炊きたての白米を振る舞うことで、兵士たちの士気を大いに高めていました。当時の戦国時代では、兵糧として干飯(ほしいい)が一般的でしたが、謙信は自らの兵士たちに栄養価の高い食事を提供することを重視し、出陣の際には大量の白米を炊いて提供しました。

越後は現在でもコシヒカリの産地として知られ、米自体の質が高く、炊きたての白米を食べることで兵士たちは効率よくエネルギーを補給できました。また、日本海で獲れた新鮮な魚も兵士たちに自由に提供され、これにより彼らは栄養をしっかりと摂り、万全の状態で戦いに臨むことができたのです。

このような細やかな気遣いが、越後軍の士気を高める要因となり、謙信の兵士への配慮は、今でも美談として語り継がれています。地元では、「謙信公のお立ち飯」として駅弁にもなっており、謙信の思いやりの精神は現代にも伝えられています。

日の丸弁当の発祥は上杉謙信?

上杉謙信は、軍兵たちに贅沢な「お立ち飯」を振る舞う一方で、自身の食生活は非常に質素でした。彼は朝夕ともに「一汁一菜」を基本とし、時には野菜や魚さえもない汁物だけの食事で満足し、「不自由に慣れることが武人の修養」として質素な生活を心掛けていました。酒は好んでいましたが、深酒をすることはなく、酒の肴はほとんど梅干しだったと言われています。

この梅干しにまつわる逸話として、「日の丸弁当」の発祥は上杉謙信ではないかという説があります。当時、武将たちは米に焼き味噌を添えて兵糧として携行するのが一般的でしたが、謙信はその代わりに好物の梅干しを添えていたと言われています。梅干しの酸味に含まれるクエン酸には強力な殺菌作用があり、米の腐敗を防ぐ効果があるため、これが兵糧として非常に役立っていました。

さらに、梅干しはアルカリ性食品であり、体内のミネラルバランスを整え、健康を保つ効果があるとされ、戦国時代には「息合の妙薬」としても重宝されました。上杉謙信は、梅干しの持つ栄養価や健康効果を理解し、それを日常的に取り入れていたと考えられています。このことから、梅干しを添えた「日の丸弁当」の発祥は、上杉謙信に由来するのではないかと言われています。

兵糧丸も上杉謙信が発祥?

(画像引用: サライ)

上杉謙信は、戦場での兵士たちの栄養補給を重視し、自ら独自の兵糧丸を研究・開発していました。兵糧丸は、当時の携行食として非常に重要視され、特に非常時には素早く食べられ、十分な栄養を補える食べ物として戦国武将たちに大切にされていました。

「上杉兵法書」によると、謙信が作った兵糧丸は「避穀兵糧丸」と名付けられ、麻の実、黒大豆、蕎麦を粉末状にすり潰し、これを酒に浸してから直径2~3cmの大きさに丸めたものでした。さらに、たんぱく質やミネラルを補うため、かつお節を加えることもありました。当時、かつお節は「勝男武士」と書かれ、縁起の良い食材として武士に親しまれていたのです。しっかりと乾燥させれば、常温で1ヵ月以上保存可能だったため、戦場での長期保存にも適していました。

ライバルである武田信玄も独自の兵糧丸を作っていましたが、上杉謙信もまた、兵士たちに効率よく栄養を補給させるために、自ら工夫を凝らして兵糧丸を開発していたことがわかります。こうした工夫により、謙信の軍勢は常に万全の体制で戦場に臨むことができたのです

上杉謙信は生涯童貞で実は女性説も?

上杉謙信は、生涯にわたって「不犯(ふぼん)」の誓いを立てていたとされています。不犯とは、僧侶が戒律を守り、特に男女の交わりを持たないことを指します。当時の武将たちは、家を存続させるために側室を抱え、子孫を多く残すことが一般的でしたが、謙信はこの流れに反し、独身を貫きました。

このため、謙信の生き方は後世にさまざまな憶測を生み、さらには「実は女性だったのではないか」という説まで登場しました。しかし、女性説に明確な証拠はなく、謙信が本当に不犯を貫いたかどうかも定かではありません。

実際には、謙信が兄の子が成人した際に家督を譲るつもりであったため、あえて自らの子どもを作らなかったという説が有力視されています。謙信の独特な生き方は、彼の高潔な性格や仏教に対する深い信仰と結びついていたとも考えられています。

上杉謙信は越後国の農業も発展させた

上杉謙信は、領内の農業振興にも力を注ぎ、越後国で衣料の原料となる青苧(あおそ)の栽培を奨励しました。この取り組みにより、日本海から瀬戸内海に至るまでの海運交易で富を築き、領国の経済を発展させました。

また、謙信は治水事業や城下町の整備を進め、領民の暮らしを豊かにするための政策を推し進めました。一方で、倹約令を発布して贅沢を禁じつつも、出陣前には豪勢な「お立ち飯」を振る舞い、兵士や領民との結束を強化することを重視しました。謙信のこうした農業や治水への取り組みは、彼が領民の生活向上に真摯に向き合っていた証です。

上杉謙信は文化人

上杉謙信は、戦国時代を代表する武将である一方、歌や音楽にも通じた教養豊かな文化人でもありました。特に『源氏物語』のような恋愛物を好んで読んでいたと伝えられています。また、晩年には真言宗に深く傾倒し、精神的な悟りを開いたとも言われています。

戦場での卓越した戦略家としてだけでなく、文学や宗教にも造詣が深く、多方面にわたってその才能を発揮した謙信は、文化人としての一面も非常に魅力的な人物でした。

仏教に深く傾倒

上杉謙信は、深く仏教を信仰していたことで知られており、特に軍神・毘沙門天の加護を強く信じ、自らを「毘沙門天の生まれ変わり」と称していました。謙信が仏教に傾倒した背景には、信心深い母親の影響や、幼少期に林泉寺で出会った僧侶・天室光育(てんしつ こういく)の存在がありました。

天室光育は、幼少期の謙信に禅の心や兵学を教えた師匠であり、謙信は生涯にわたり彼を師として仰ぎました。幼い頃の謙信は、寺で城の模型を作ったり、戦ごっこをして遊んでいたと伝えられており、この頃からすでに軍略の才能が芽生えていたとも考えられています。

天室光育との出会いが、謙信の仏教信仰を深め、さらに戦の才能を開花させた要因の一つとなったことは間違いないでしょう。仏教に基づく謙信の信仰心と、その義に厚い人柄が、彼の武将としての生き方に大きな影響を与えたのです。

まとめ

いかがでしたでしょうか?上杉謙信は戦国時代を代表する名将であり、義を重んじた武士として知られています。越後を治めた彼は、多くの戦で卓越した軍略を発揮し、特に武田信玄との川中島の戦いは有名です。宗教的信仰も篤く、毘沙門天を崇拝し続けた謙信は、ただの戦国大名ではなく、武士道の体現者として後世に影響を与えました。その生き方は、現在でも尊敬を集めています。

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