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妖怪

江戸時代に妖怪・怪談ブーム!?妖怪と怪談が江戸時代に流行した理由と日本三大怪談を紹介

実は江戸時代に怪談や妖怪が大流行したことご存じでしょうか?今では夏の風物詩となっている怪談も発祥は江戸時代なのです。戦国の混乱から平和な時代へと移行する中で、庶民の間では未知の世界への興味が高まりました。夕暮れに語られる恐怖の物語や幽霊の目撃談は、娯楽としてだけでなく、社会の暗部を映し出す鏡ともなりました。ですが一体何故江戸時代にブームとなるくらい妖怪や怪談が人気となったのでしょうか。今回はそんな江戸時代の妖怪や怪談ブームの謎に迫っていきます。

そもそも妖怪とはどんな存在?

(画像引用: 古美術永澤)

そもそも妖怪とは一体何なのでしょうか。妖怪とは、日本の民間信仰において常識や自然法則では説明できない奇怪で異常な現象や、それを引き起こす不思議な力を持つ存在として、形や姿を与えられた存在なのです。家でものが何か消えたり、川辺で怪しい水音がしたときに人々は座敷わらしがいる、河童がいると想像を掻き立て伝承していったのです。これらは日本のアニミズムや八百万の神の思想に深く根ざしています。

妖怪の起源は古代にさかのぼり、奈良時代に書かれた「古事記」や「日本書紀」には、大蛇や鬼が登場します。平安時代には「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」などの説話集で妖怪が記録されましたが、この時代には妖怪の姿は描かれていませんでした。鎌倉時代から室町時代にかけて、物語絵や絵巻物で妖怪の姿が描かれるようになり、特に「付喪神絵巻」では道具が妖怪に変化する様子が表現されています。

江戸時代になると妖怪ブームが起こり、多くの浮世絵師が幽霊や妖怪を描きました。菱川師宣や歌川広重などの作品には様々な妖怪が登場し、恐ろしいものから可愛らしいものまで多種多様です。このような浮世絵は、現代の妖怪に対する自由なイメージの形成に大きな影響を与えました。

江戸時代に妖怪や怪談が流行った理由

それでは一体なぜ江戸時代に妖怪や怪談が一大ブームとなったのでしょうか。ここでは江戸時代に妖怪ブーム、怪談ブームが生じたいくつかの理由を紹介していきます。

平和になったから

(画像引用: nansuka)

江戸時代は、戦国時代の終わりから約260年間の平和が続いた時代でもあります。この長期間の平和は、「平和ボケ」と呼ばれるくらい庶民が戦争や争いごとの不安から解放され、日常生活を楽しむ余裕を持つことを可能にしました。平和な社会は、文化や芸術の発展に適した環境を提供し、人々が娯楽に時間を費やすことができました。これにより、妖怪をテーマとした文化が大いに発展し、娯楽としての妖怪が庶民に広く受け入れられる素地が整ったのです。

博物学が発達し妖怪図鑑『画図百鬼夜行』が誕生したから

(画像引用: 美術手帳)

享保の改革により、徳川吉宗が行った博物学(自然科学)の奨励が妖怪文化にも影響を与えました。吉宗は全国の物産調査を行わせ、駒場薬園や小石川薬園の拡充、漢訳洋書の禁輸緩和などの政策を実施しました。なんとこの調査は妖怪も対象になったのです。過去の文献や伝承から妖怪も名前と姿とどんなことをする妖怪なのか一体一体照合されていきました。結果として鳥山石燕による『画図百鬼夜行』という妖怪図鑑が刊行されました。この図鑑は1ページごとに一種類ずつ、妖怪の名前と姿かたちを描いたもので、だれでも妖怪の姿や特徴が視覚的に楽しめるようになったのです。

娯楽と文化の発達

(画像引用: nansuka)

江戸時代の都市部で妖怪をテーマにした娯楽が大いに発展しましたこともブームとなった大きな一因です。手品や写し絵、歌舞伎、落語といった大衆芸能で妖怪や幽霊が登場し、恐怖を娯楽として楽しむ文化が広まりました。特に、黄表紙と呼ばれる読み物では、妖怪が滑稽で風刺的なキャラクターとして描かれ、知識人層や教養のある大人向けの娯楽としても楽しまれました。黄表紙の中で妖怪は、人間社会の価値観を反転させた存在として描かれ、笑いと風刺を提供しました​。

「天保の改革」の失敗により、江戸時代後期には風刺画やおもちゃ絵が普及しました。特に、妖怪を題材とした風刺画は、社会や政治の問題を風刺する手段として大いに利用されました。例えば、歌川国芳の「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」では、妖怪たちが改革の犠牲となった庶民を象徴して描かれ、大きな反響を呼びました。また、子ども向けの「化物双六」や「お化けかるた」といったおもちゃ絵も大量に制作され、妖怪が子どもたちのキャラクターとして親しまれるようになりました​

日本三大怪談

そんな江戸時代の日本で大流行した怪談ですが、特に人気だったものは日本三大怪談と呼ばれています。ここではその日本三大怪談を紹介していきます。

四谷怪談

(画像引用: 怪談NEWS)

元禄時代、四谷に住む田宮又左衛門は、同心(下級役人)として働いていました。彼には「お岩」という目の悪い娘がいました。又左衛門は「お岩」に婿養子を取らせて隠居したいと考えていましたが、「お岩」は疱瘡にかかって容姿が醜くなってしまいます。

数年後、又左衛門が亡くなり、彼の友人たちが「お岩」のために婿を探しますが、その容姿のために誰も名乗り出ませんでした。そこで彼らは口の上手い男を雇い、伊右衛門という男を騙して「お岩」の婿にします。伊右衛門は「お岩」の姿を見て驚愕しますが、後には引けませんでした。しばらくは我慢していたものの、徐々に「お岩」を疎むようになります。

そんな折、伊右衛門は上司の伊東喜兵衛の家に遊びに行き、そこで喜兵衛の妾であるお花と出会い、恋仲になります。お花は喜兵衛の子を妊娠していましたが、年老いた喜兵衛はお花を誰かに託したいと考え、伊右衛門にその役を頼みます。伊右衛門は願ってもない話でしたが、「お岩」がいるため、彼と喜兵衛は共謀して「お岩」から離縁を持ちかけるように仕向けます。

その後、伊右衛門は酒に溺れ、「お岩」に対して暴力を振るい、家財を売って遊ぶようになりました。悲しむ「お岩」に、喜兵衛は伊右衛門と離婚することを勧めます。策略により離婚させられた「お岩」は家を出て御家人に奉公することになりました。伊右衛門はすぐにお花と結婚します。

一方、「お岩」の元に茂助という人物が現れ、伊右衛門がお花と結婚したこと、喜兵衛と伊右衛門が策略を立てたことを暴露します。その話を聞いた「お岩」は激怒し、突然どこかへ走り去ってしまいます。その後の捜索でも「お岩」は見つかりませんでした。

伊右衛門は4人の子供に恵まれ幸せに暮らしていましたが、ある夏の夜、「伊右衛門、伊右衛門」と「お岩」の声が聞こえるようになります。その後、子供たちが不可解な死を遂げるなどの不幸が続き、伊右衛門は「お岩」の祟りを恐れて参拝を繰り返しますが、祟りは収まりませんでした。最終的に田宮家は断絶し、共謀した伊東喜兵衛の一族も同様に断絶します。

ある日、伊右衛門は屋根の修理中に転落し、動けなくなります。耳にできた傷の膿にネズミが群がり、伊右衛門はネズミ除けの箱に入れられてしまいます。そして、その中で衰弱して死にました。「お岩」が子年生まれだったこともあり、これも彼女の祟りだったのかもしれません。

皿屋敷

(画像引用: 怪談NEWS)

ある若者が旅先で「皿屋敷」の幽霊話を聞き、町内の隠居にその詳細を尋ねました。隠居は、この町には井戸に身投げをした「お菊」という女性の幽霊が出ると教えました。「お菊」は毎晩、皿を数えに現れるという噂です。若者は好奇心から「お菊」を見に行くことにしました。

隠居は若者に、「お菊」が9枚まで数えるのを聞くと死ぬので、6枚まで数えたら帰れと忠告しました。丑三つ時になると、「お菊」が「いちま〜い、にま〜い…」と皿を数え始めました。

「お菊」は幽霊でありながら、非常に美しい女性でした。若者はその美しさに魅了され、次の日もその次の日も「お菊」を見に行きました。この噂は町中に広まり、見物人が増えていきました。やがて興行師がこの話に目をつけ、見世物小屋を建てて興行にしました。

しかし、ある夜に事件が起こります。6枚まで数えたところで見物客を帰らせる手はずでしたが、混雑のために小屋からすぐに出られませんでした。その間に「お菊」は「しちま〜い、はちま〜い…」と数え続けてしまいました。

見物人たちは「お菊」が9枚まで数えると死ぬという話を思い出し、恐怖におののきます。やがて、「お菊」が「きゅうま〜い…」と数えた時、全員が息を呑みました。しかし、「お菊」はその後も「じゅうま〜い、じゅういちま〜い…」と数え続け、とうとう18枚まで数えました。

驚いた見物客たちは「皿は9枚までしか数えないはずなのに、なぜ18枚も数えたのか」と「お菊」に問い詰めました。すると「お菊」は、「明日は休みだから二日分数えたんだよ」と答えたのでした。

牡丹灯籠

(画像引用: Gallery Soumei-do)

昔、根津の清水谷に萩原新三郎という内気な浪人が住んでいました。ある日、新三郎は友人の山本志丈に誘われて亀戸の臥龍梅を見に行くことにしました。その帰りに、志丈の知り合いである飯島平左衛門の別荘に立ち寄ります。そこで新三郎は、美しいお嬢様「お露」とその女中「お米」に出会い、「お露」と恋に落ちました。新三郎が帰る際、「お露」は「また来てくださらなければ私は死んでしまいます」と言い残します。

新三郎は「お露」に会いたい気持ちでいっぱいでしたが、内気な性格のため、一人で会いに行く勇気が出ませんでした。数ヶ月後、志丈が新三郎を訪れ、「お露」が恋焦がれるあまり亡くなり、「お米」も看病疲れで後を追ったことを伝えます。

それ以来、新三郎は「お露」のために毎日念仏を唱える生活を送ります。盆の十三日の夜、新三郎が「お露」に思いを馳せていると、カランコロンと下駄の音が聞こえてきました。音のする方を見てみると、牡丹灯籠を携えた「お米」と「お露」が歩いているではありませんか。三人は再会を喜び、その後も夜ごとに逢瀬を重ねました。

ある夜、新三郎の元で働く伴蔵という男が、新三郎の元に毎夜女性が通っていることに気づきます。不審に思った伴蔵が新三郎の家を覗くと、骨と皮ばかりの幽霊が新三郎の首に噛みついているのを目撃しました。驚いた伴蔵は、新三郎の相談相手である占い師、白翁堂勇斎に相談に行きます。勇斎は新三郎の家を訪れ、「二十日を待たずして必ず死ぬ相が出ている」と宣告します。

新三郎は「お露」が幽霊だと悟り、お寺の和尚から幽霊除けのお札と死霊除けの海音如来像を借りて帰りました。新三郎は家の周りにお札を貼り、海音如来像を身に着けてお経を読み上げます。その夜、いつものように「お露」が訪れますが、お札があって家に入れません。困った「お露」は伴蔵の家に赴き、お札を剥がすように頼みます。

最初は恐れていた伴蔵とその妻のお峰も、「お露」から金を受け取ることを条件に、お札を剥がすことを約束します。次の日、伴蔵とお峰は新三郎の隙を見て、海音如来像を粘土で作った不動像にすり替えます。その晩、「お露」が金を持って来ると、伴蔵は新三郎の家のお札を全て剥がします。お札が無くなると、「お露」は喜んで新三郎の家に入って行きました。

夜が明ける頃、幽霊の手引きをした後ろめたさから伴蔵は、白翁堂勇斎とお峰を連れて新三郎の家を訪れます。戸を叩いても返事が無く、おそるおそる中に入ると、新三郎は恐ろしい形相で虚空を掴みながら息絶えており、その首には髑髏が噛みついていました。

まとめ

いかがでしたでしょうか。江戸時代の怪談や妖怪ブームは、平和と繁栄の中で人々が新たな刺激を求めた結果でした。怪談話は、日常の枠を超えた想像力をかき立て、社会の矛盾や不安を象徴的に表現しました。これらの物語は娯楽の一部でありながら、人々の心に共鳴し、共同体の絆を深める役割も果たしました。現代でも怪談や妖怪が根強い人気を持つのは、人間の心理に深く根ざした恐怖と好奇心が時代を超えて普遍的なテーマであることを示しています。

本サイトでは妖怪や怪談以外にも様々な日本の面白い歴史や文化を紹介しています。もし興味ございましたら、他の記事も読んでいただけると幸いです。

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