皆さん、怨霊の存在を信じていますでしょうか?怨霊は日本の歴史でも古くから多くの人々を震え上がらせてきましたが、その中でも特に有名なのは、菅原道真、平将門、崇徳院の三大怨霊です。しかし、それ以前にも悲劇の末に怨霊と化した人物が存在しました。その名は長屋王(ながやおう、または、ながやのおおきみ)です。長屋王は飛鳥時代から奈良時代にかけて生きた皇族で、日本の歴史で初めての怨霊とされています。しかしそんな長屋王のことを詳しく知っている方は少ないと思います。そこで今回は、この長屋王の生涯と怨霊となった経緯、そして現代まで続くその呪いについて詳しく紹介します。
長屋王とはどんな人か
長屋王は第40代天皇・天武天皇の孫にあたる人物であり、その血筋からも高貴な皇族として生まれました。長屋王は非常に聡明で、卓越した人物として広く知られていました。彼の妻の一人である吉備内親王の兄は第44代天皇・元正天皇であり、この縁からも天皇の信任を得ていたことがうかがえます。
長屋王は藤原鎌足の次男・藤原不比等に次ぐ地位に早くから登り詰め、その実力は一目置かれる存在でした。藤原不比等の死後、その地位を引き継ぐほどの権力を持つようになったことからも、長屋王の特別な存在感が伺えます。
長屋王は藤原四兄弟と対立
しかし、この急速な出世を快く思わなかったのが、藤原不比等の息子たち、藤原四兄弟です。彼らは自身の権力を確立するために妹を皇后にしようと画策しましたが、これに反対したのが長屋王でした。天皇は複数の配偶者を持つことが一般的でしたが、その中でも皇后は特別な存在であり、皇后になるには相応しい身分が必要とされていました。藤原氏はその身分を持たないため、長屋王はこの動きに強く反対しました。
長屋王の変と長屋王の死因
729年、長屋王に対し「長屋王が妖術を使って国家転覆を狙っている」という密告がなされました。この告発により、長屋王は弁明の機会も与えられないまま、家族と共に自害へ追い込まれることになったのです。
長屋王を自殺に追い込んだのは、長屋王の前に権力を握っていたの藤原不比等の4人の息子たちでした。彼らは権力を長屋王に渡さないため、妹の光明子を聖武天皇の后にしようとしていました。しかし長屋王は、皇族ではない藤原氏の女性が天皇の后になることに反対していたため、不比等の4人の息子たちに謀反の疑いをかけられてしまうことになったのです。この事件を「長屋王の変」と呼びます。
長屋王の呪いの始まり
長屋王の死後、その祟りが語り継がれるようになりました。735年には天然痘が流行し、737年には藤原四兄弟が次々と病に倒れ、全員が死去しました。この出来事が長屋王の祟りであると噂され、天皇は神仏に祈りを捧げ、生き残った長屋王の子女たちに位を与えるなどの措置を講じました。このことからも、当時の人々は長屋王の怨霊を恐れていたことがわかります。
平安時代に編纂された『続日本紀』には、長屋王を誣告した下級官僚のことが記されています。すでに当時から、長屋王が無実の罪を着せられたことは周知の事実だったようです。
デパート建設地から長屋王の木簡が発見し長屋王邸だったことが判明
1986年から1989年にかけて、奈良市の旧平城京でデパート建設用地の発掘調査が行われ、その際に約10万点の木簡が発見されました。その中でも、左京三条二坊八坪の東南隅で発見された約3万6000点の木簡には「長屋親王宮」と記されたものが多く含まれ、「長屋王家木簡」と呼ばれています。
この木簡の内容から発掘された遺構が長屋王の邸宅であったことを示唆されていました。貴重な史跡であることから保存しようという動きがありましたが、結局は聞き入れられず、奈良そごうは完成しました。しかし奈良そごうはその後閉店し、代わりに建てられたイトーヨーカドー奈良店も2017年に閉店を迎えました。
この一連の出来事は、アクセスの悪さや競合店の多さが原因とも言われていますが、地元の人々の間では「また長屋王の呪いではないか」と囁かれています。このように、現代においても長屋王の怨霊の存在が信じられているのです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は日本で初めての怨霊 長屋王を紹介してきました。長屋王の物語は、単なる歴史的事件ではなく、日本の文化や人々の心に深く刻まれた怨霊伝説として語り継がれています。彼の無念とその後の呪いの影響は、今もなお多くの人々の心に残り続けています。このような物語を通じて、私たちは歴史の教訓を学び、過去の出来事が現代にもたらす影響を再認識することができるでしょう。長屋王の物語は、今後も日本の歴史と文化の一部として語り継がれていくことでしょう。
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