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皆さん、日本三大怨霊をご存じでしょうか?幽霊の中でも最も危険度が高い怨霊で、その中でも最も恐ろしい日本三大怨霊は菅原道真、平将門、そして崇徳天皇です。彼らは一体なぜ怨霊の中でもトップクラスに恐れられている怨霊なのでしょうか?その理由は彼らは生前の尋常ではない怨恨から成仏できず彼らの死後に祟りが多発したからなのです。今回はそんな日本三大怨霊について見ていきます。
怨霊とは
まず最初にそもそも怨霊とは何を指しているのか見ていきましょう。怨霊とは生きているときに晴らすことができなかった怨恨が尋常ではないくらい強く成仏できなかった霊を指しています。怨霊は生前の自身に対する仕打ちに対する復讐心が尋常ではありません。そのため未練が晴れない彼らは怨霊としてと人々に取り憑いたり、人々が暮らす地域に祟りを起こしていきます。祟りは飢饉や水害、地震、雷といった天災が多かったです。このように人々への危害が多く、あらゆる幽霊の中で危険度が一番高く、仮に取り憑かれてしまった場合自分への害もかなり危ないため人々から恐れられていました。
怨霊の祟りがあまりに凄まじく人々は神として祀ることによって怨霊の怒りを鎮めていました。その中でも特に人々から恐れられていたのが菅原道真、平将門、崇徳天皇です。彼らは日本三大怨霊と呼ばれています。非業の死と遂げた彼らの死後、不吉な出来事や自然災害が多発したことから人々は彼らを神社で祀るようになりました。日本三大怨霊と呼ばれるようになったのは一体どんな経緯があったのでしょうか。
日本三大怨霊
それでは日本三大怨霊を紹介していきます。菅原道真、平将門、崇徳天皇が日本三大怨霊と呼ばれるようになったのは一体何故なのでしょうか。その背景を見ていきます。
菅原道真
菅原道真は学問の神様としても有名なように幼いころから学問や詩歌にて才能を発揮し神童と呼ばれていました。政治家としては異例のスピード出世しただけではなく、学者や漢学者としても抜群に優秀でした。しかしどこの世界にも才能あふれる優秀な人物を妬む人は多いのです。人々はあまりに才能に恵まれている菅原道真に嫉妬するようになり、何とかその地位を蹴落としてやりたいと考える人も出てきました。
そんな状況の中、菅原道真は朝廷での権力争いに敗れ、901年に政敵である藤原時平によって九州の太宰府に左遷されてしまいました。藤原時平はこの時「菅原道真は天皇を廃帝させるために陰謀を企てている」と嘘の告げ口して菅原道真を左遷へ導きました。菅原道真はこの左遷に対し不満や異議を示しましたが、聞き入れてもらうことなく幽閉されてしまい、902年に大宰府で亡くなってしまいました。
祟りが起きたのは彼の死後、間もなくです。道真の死後、京都では数々の不吉な出来事が起こりました。特に彼の政敵であった藤原時平や左遷を命じた醍醐天皇、そしてその皇太子の突然の死です。これらの出来事は、道真の怨霊による祟りと見なされ、彼の不遇な人生と不慮の死が強力な怨念を生んだと考えられました。
さらに菅原道真の怨念は天災も引き起こしました。なんと京都の皇居にある清涼殿に落雷が直撃したのです。政界で存在感を出していた菅原道真の政敵や左遷を命じた天皇の不吉な死、そして清涼殿落雷事によって、菅原道真の祟りが本物であると確信しました。彼の怒りを鎮めるために、菅原道真の死後にもかかわらず太政大臣や左大臣の位を与えてましたが、それでも祟りは収まりませんでした。そのため彼の怒りを鎮めるために北野天満宮を建設し、菅原道真を神として祀るようになったのです。
菅原道真についてより詳しく知りたい方はこちらの記事も読んでみてください。
平将門
平将門(生年不詳 – 940年)は、関東地方を拠点とした貴族であり、武将でした。彼は、平安時代における中央政府の影響力が相対的に弱かった地域で力をつけ、独自の勢力を拡大していきました。その過程で、将門は地方の豪族との連携を深め、自らの権力基盤を固めていきます。
将門は939年に「新皇」と名乗り、新国家の設立を宣言することで反乱を起こしました。この「平将門の乱」として知られる事件は朝廷にとって大きな脅威となり、940年に将門は平貞盛と藤原秀郷によって討たれました。将門の乱は、調停による中央集権体制を揺るがす重要な出来事であり、後世の武士による政権につながるような出来事ですが、平将門が怨霊として有名になったのはこの後です。
平将門の首は討ち取られた後、京都で公開の晒し物となりましたが、首には様々な奇妙な現象が起こりました。なんと何ヶ月も目を閉じなかった、夜中に歯ぎしりをしたといった噂が絶えなかったのです。人々はこれを彼の怨念と恐れました。また。歌人の藤六左近が詠んだ歌によって将門は笑い、首は朽ち果てたと言われています。しかし他の説もあり、なんと首が関東に飛んで行ったという伝説もあります。京都にされされていた平将門の首は東京都千代田区まで飛んでいき力尽きてその地に落下し、将門塚(下の画像)がその地とされています。
この将門塚での不吉な出来事が続発しました。関東大震災後の大蔵省庁舎の事故やGHQの駐車場建設時の事故など、首塚に関連する場所での不幸が多発し、平将門の怨霊の影響とされ、現在も首塚周辺では不思議な出来事が起こると言われています。
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崇徳上皇
崇徳天皇は第74代鳥羽天皇と皇后藤原璋子の間に誕生した皇子ですが、天皇へ即位しました。しかし実情は白河院と鳥羽院の院政で、崇徳天皇は何もさせてもらえませんでした。そんな状況に不満を募らせた崇徳天皇は朝廷の政権をめぐって保元の乱を起こしましたが、敗れてしまいました。保元の乱に敗れ、崇徳上皇は京都から讃岐国に流されてしまいました。讃岐国では囚人のような扱いを受けたと言われています。崇徳上皇は何度も京都への帰還を切望しましたが、その願いは叶いませんでした。彼の絶望は深く、「人間界との未練を断ち、魔界の王になる」と宣言し、隠遁生活を送りました。
崇徳上皇を京都から追い出した後白河院は崇徳上皇を完全に罪人として扱っており、亡くなった際には服喪もしなかったそうです。しかし崇徳上皇の死の翌年から次々と異変が起こります。後白河院の皇子の二条天皇と次代の六条天皇の摂政が亡くなったのです。その後も後白河院の近親者が相次いで亡くなったことから、崇徳上皇の怨霊を意識し始めたのです。さらに京都では「太郎焼亡」(安元の大火)と呼ばれる大火が発生し、大極殿を含む市内の三分の一が焼失しました。続く翌年には、「次郎焼亡」(治承の大火)という別の大火が起こりました。
これらの出来事を彼の祟りと恐れた人々は、彼の霊を鎮めるために安井金毘羅宮を建て、崇徳上皇を主祭神として祀りました。しかし崇徳天皇を祀るにはあまりに対応が遅れておりその後も定期的に祟りが発生して、崇徳上皇の怨霊としてのイメージが定着していきました。
崇徳天皇と安井金毘羅宮についてより知りたい方はこちらの記事も読んでみてください。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は日本三大怨霊を紹介していきました。菅原道真、平将門、崇徳上皇。彼らはそれぞれ異なる理由ではありますが、生前での不遇な仕打ちから死後人々に祟りを起こす怨霊となり、怒りを鎮めるために人々が神として祀るようになりました。こうした歴史的背景を知って神社を回ると当時の人々の想いも胸に染みながら見て回れるので、より楽しめると思います。興味を持った方はぜひ由縁のある北野天満宮や将門塚、安井金毘羅宮へ訪れてみてください!
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