日本の埋葬文化は、時代とともに多様に変遷してきました。古代から現代まで、それぞれの時代背景や社会の変化が、葬儀や埋葬方法に深い影響を与えてきました。縄文時代の屈葬から始まり、弥生時代の伸展葬、そして古墳時代の巨大な前方後円墳。さらに鎌倉時代の仏教の影響を受けた火葬の普及や、江戸時代の都市ごとの埋葬習慣の違い。こうした日本の埋葬文化の変遷をたどると、単に埋葬方法の違いだけでなく、そこに込められた人々の思いや信仰、社会構造の変化が浮かび上がってきます。今回はそんな時代ごとの埋葬方法について見ていきましょう。
また現代の終活、お葬式の選び方、お墓の選び方については『みんなが選んだ終活』というメディアに詳しく分かりやすく紹介されています。介護や葬儀、相続など意外と知らない終活に関する様々な内容が『みんなが選んだ終活』にまとまっております。
縄文時代の埋葬
縄文時代(約紀元前14,000年~紀元前300年頃)には、独特な埋葬方法である「屈葬」が行われていました。屈葬とは、遺体を曲げた姿勢で埋葬する方法です。これは日本以外ではほとんど見られず、アフリカの一部地域でのみ見られる特殊な習慣です。
屈葬が行われた理由についてはいくつかの説があります:
- 労力の節約:墓穴を掘る際の労力を少なくするため。
- 安楽の姿勢:死後の世界でも安らかに眠れるようにするため。
- 復活の願い:胎児のような体勢を取らせることで、再生や復活を願った。
- 霊の抑制:死者の霊が浮遊しないように、動きにくい体勢にした。
特に、屈葬された遺体の多くは石を抱えたり縛られたりしており、死者の霊が浮遊しないようにするという説が有力とされています。
弥生時代の埋葬
弥生時代(紀元前300年~紀元後300年頃)になると、葬儀の方法が一変し、遺体を伸ばして埋葬する「伸展葬」が一般的になりました。縄文時代でも特権階級には伸展葬が行われていましたが、弥生時代には庶民の間でも広く普及しました。
伸展葬への移行にはいくつかの理由が考えられています:
- 時間の節約:わざわざ遺体を曲げる余裕がなくなったため。
- 死者の再生観念の変化:死者が生き返らないことが理解されたため。
- 農耕と定住の発展:稲作の伝来により農耕が発展し、人々の生活が定住化したこと。
この時期から、墓も見られるようになり、大陸からの文化の影響で土葬が強く根付くようになりました。
縄文時代から弥生時代にかけての日本の葬儀習慣は、社会の変化や外部からの影響を受けつつ、独自の発展を遂げました。これらの葬儀方法は当時の人々の死生観や生活様式を反映しており、歴史的な価値が高いものです。
古墳時代の埋葬
古墳時代(3世紀頃~7世紀頃)には、支配階級の埋葬方法が劇的に変化し、大型の墓「古墳」が全国に広がりました。この時代の特徴的な埋葬方法について詳しく見ていきましょう。
古墳の登場と前方後円墳
古墳時代の初期には、特に大規模な前方後円墳が多く見られました。これらの古墳は、豪族一人を埋葬するために作られ、地域社会の力と富を象徴していました。前方後円墳は、前方部と後円部からなる鍵穴のような形状を持ち、埋葬者の権威を示しています。
代表的な古墳の例
- 大仙陵古墳(仁徳天皇陵):大阪府堺市にあり、日本最大の前方後円墳です。その巨大さと豪華さは、古墳時代の最高権力者の威光を示しています。
- 応神天皇陵:大阪府羽曳野市に位置し、大仙陵古墳に次ぐ規模を誇ります。
- 箸墓古墳:奈良県桜井市にある前期古墳の代表例で、邪馬台国の女王卑弥呼の墓とも言われています。
埋葬の方法と副葬品
古墳時代の支配階級の埋葬では、遺体は石室と呼ばれる部屋に納められました。石室には棺が置かれ、副葬品として銅鏡や碧玉製宝器、太刀、剣、鉾などが一緒に埋葬されました。これらの副葬品は、埋葬された人物の権力や地位、そしてその死後の世界での豊かさを示すものとされています。
庶民の埋葬
一方で、庶民の埋葬方法には大きな変化は見られませんでした。庶民は依然として簡素な墓に埋葬されており、支配階級との埋葬方法の差異が顕著でした。
古墳時代の意義
古墳時代は、日本の埋葬文化において重要な転換期でした。支配階級のための巨大な墓である古墳の建設は、当時の社会構造や権力の集中を示しています。また、古墳に伴う副葬品は、当時の技術や文化の発展を物語っています。
このように、古墳時代の葬儀は支配階級と庶民との間で大きな違いがありましたが、全体としては日本の古代社会の成り立ちと発展を理解するための重要な手がかりとなります。
飛鳥時代の埋葬
飛鳥時代(592年~710年)の葬儀文化は、古墳時代からの移行期として重要な変化を遂げました。この時期の葬儀習慣と規制について詳しく見ていきましょう。
古墳の継続と変遷
飛鳥時代初期には、依然として古墳が作られていました。例えば、聖徳太子は618年に自身の古墳を築いたと記録されています。しかし、646年に出された「薄葬令」により、古墳の大きさや築造にかける期間、人員などが厳格に規制されるようになりました。この法律の施行により、初期の古墳時代のような巨大な古墳は作られなくなりました。
葬儀規制と身分制度
701年に制定された大宝律令では、三位以上の高位の者だけが古墳を築くことが許可されました。これにより、古墳の築造は支配階級の特権となりました。一方で、庶民に対しても葬儀に関する規定が設けられ、特定の葬所を利用することが求められました。これにより、複数の場所に散埋することが禁止され、埋葬の統制が図られました。
火葬の導入
飛鳥時代は、日本で初めて火葬が行われた時期でもあります。700年には僧侶の道昭が火葬され、702年には持統天皇も火葬されました。しかし、火葬はまだ一般的ではなく、特権階級の間でのみ行われていたようです。火葬は徐々に広まりを見せますが、この時期の主な葬儀方法は依然として土葬でした。
飛鳥時代の葬儀文化の意義
飛鳥時代の葬儀文化は、古墳時代からの大きな転換期を示しています。薄葬令や大宝律令の制定により、葬儀や埋葬に関する規制が強化され、特権階級と庶民の間で明確な区分が生じました。また、火葬の導入は、後の時代における葬儀習慣の変化の先駆けとなりました。
このように、飛鳥時代の葬儀文化は、社会の変化や法的規制の影響を受けつつ、次第に新しい形式を取り入れていきました。これにより、古代日本の葬儀文化の多様性と変遷を理解する上で、飛鳥時代は欠かせない時期となっています。
奈良時代~平安時代の埋葬
奈良時代から平安時代(710年~1185年)にかけての葬儀文化について詳しくご紹介します。
奈良時代の葬儀規制
奈良時代に入ると、首都の内部に墓を作ることが禁止されました。そのため、平城京の敷地内からは当時の墓は発見されていません。この規制は平安時代にも引き継がれ、天皇や貴族といった特権階級の墓も京の外に作られるようになりました。
庶民の埋葬場所
庶民の墓については、飛鳥時代と同様に一定の場所が設けられており、そこに埋葬することが定められていました。また、『梧庵漫記』という記録には、京の周辺の山野や河原が庶民の葬られる場所であったことが記されています。
平安時代の納骨習慣
平安時代には、「高野納骨」という習慣が広まりました。高野山に火葬した骨や遺髪を納めることで、仏教の浄土信仰を反映したものでした。例えば、1085年に崩御した性信法親王は遺骨を、1108年に崩御した堀河天皇は遺髪を高野山に納めました。
この時代は、仏教の教えにおいて「末法」の時期とされており、悟りを開くものがいないと信じられていました。そのため、天皇や貴族などの特権階級の人々は、弥勒菩薩の浄土である高野山に納骨されることを願っていました。
奈良時代~平安時代の葬儀文化の意義
奈良時代から平安時代にかけての葬儀文化は、社会的な規制や仏教の影響を受けながら発展しました。首都内部への墓の建設禁止は都市計画の一環として行われ、庶民と特権階級の葬儀方法にも明確な区別がありました。また、高野山への納骨は、仏教信仰の深まりとともに特権階級の間で広まりました。
このように、奈良時代から平安時代にかけての葬儀文化は、当時の社会構造や宗教的信仰を反映しながら、独自の発展を遂げました。
鎌倉時代~室町時代の埋葬
鎌倉時代から室町時代(1185年~1573年)にかけての葬儀文化について詳しくご紹介します。
鎌倉時代の葬儀と浄土教の普及
鎌倉時代に入ると、浄土宗や浄土真宗などの鎌倉仏教が広く普及し、火葬が一般的に利用されるようになりました。浄土教は、死後の極楽浄土を祈る信仰です。平安時代から続く社会の混乱や不安を背景に、阿弥陀如来にすがって念仏を唱え、死後に極楽浄土へ生まれ変わることを願う人々が増えました。
ただし、火葬が普及したとはいえ、当時の火葬技術は未熟であり、火葬場も多くありませんでした。そのため、遺体を完全に焼却することが難しく、土葬と火葬を併用する「両墓制」が長く続きました。鎌倉仏教の広まりにより、仏教的な死生観が一般に知られるようになり、本格的な葬儀が一般的に行われるようになりました。
室町時代の葬儀と寺院墓地の始まり
室町時代に入ると、特に応仁の乱以降、多くの寺院が境内に墓地を設けるようになりました。京都の寺院内での埋葬は引き続き禁止されていましたが、阿弥陀寺や知恩寺などの特定の寺院に対しては、境内への土葬が許可されました。これは、住民たちが「寺院の本堂近くに墓を立てて供養を受けたい」という願いに応じたもので、現在の寺院墓地の始まりとなっています。
鎌倉~室町時代の葬儀文化の意義
鎌倉時代から室町時代にかけての葬儀文化は、仏教の影響を強く受け、火葬の普及や仏教的な葬儀の一般化が進みました。社会の変動や人々の不安が、浄土教の広まりを促し、葬儀や埋葬の方法にも大きな影響を与えました。また、寺院墓地の設立は、現代の墓地文化の基盤を築いた重要な出来事です。
このように、鎌倉時代から室町時代にかけての葬儀文化は、宗教的な信仰と社会的な変化が密接に関連しながら発展していきました。
江戸時代の埋葬
それでは江戸時代(1603年~1868年)の葬儀文化について詳しくご紹介します。江戸時代には、大都市圏を中心に、葬儀に使われる仏具などの販売やレンタルが専門業者によって行われるようになり、「遺体の処遇」だけでなく「故人とのお別れ」も重視されるようになりました。
火葬と土葬の地域差
葬儀の方法は、大きく分けて火葬と土葬の二つがあり、都市によって異なっていました。
大阪の火葬
大阪は火葬が盛んな地域で、道頓堀墓所など七箇所は火葬専門の墓所として知られていました。ここでは火葬職人である「三昧聖(ざんまいひじり)」たちが活動しており、1735年から1861年の間、多い年には1万件、少ない年でも5000件の火葬が行われました。この時期、道頓堀周辺では土葬は全体の1割程度に過ぎませんでした。
江戸の土葬
一方、江戸では火葬による煙と異臭が問題視され、土葬が中心となっていました。庶民の土葬は非常に悲惨で、貧しい地区の墓所では棺桶が積み重ねられ、朽ちるのを待つ状態でした。これらの場所には身寄りのない日雇いや貧しい町人たちが葬られていました。
地方の埋葬状況
地方の村々では土地が余っていたため、大都市圏のような悲惨な墓地事情はなく、現代の感覚に近い墓石のある「参り墓」が一般的でした。このような背景から、江戸時代には檀家制度が生まれ、お寺の主導のもと、庶民も先祖の墓参りをする習慣が広まりました。
葬儀の多様化と価値観の変化
大阪の郊外、河内国池尻村の庄屋・田中家の記録によると、家族の意思で葬儀の方法が選ばれていたことが明らかになっています。また、浄土真宗の火葬が多いという一般的なイメージに反して、実際には宗派に関わらず、火葬と土葬の両方が行われていました。
現代葬儀への影響
江戸時代から、伝統やしきたりを超えて、亡くなった方やその遺族の価値観が重視されるようになってきました。このような風潮が現代の葬儀文化の基盤となり、経済的に余裕のある層から広がっていったことがわかります。
江戸時代の葬儀文化は、地域差や社会的背景を反映しながら、多様性と個人の価値観を重視する方向へと発展していきました。
明治時代~大正時代の埋葬方法
明治時代から大正時代(1868年~1926年)にかけての葬儀文化について詳しくご紹介します。
明治時代の葬儀改革
1870年には全ての寺院墓地が国有地となり、1872年には法律により自葬祭が禁止されました。このため、葬儀は神主や僧侶によって行われることになりました。また、明治初期には仏教排斥と神道推奨の政策から火葬禁止令が出され、一時的に火葬が行われなくなりました。
しかし、火葬再開を求める声が多く、また土葬用の土地が不足してきたため、火葬禁止令はわずか2年で撤回されました。その後、衛生的な観点から火葬の有用性が認められ、火葬が義務化されました。この時期には、欧化の影響を受けて喪服も白から黒へと変わっていきました。
大正時代の葬儀の変化
大正時代に入ると、霊柩車が庶民の間でも普及し始めました。それまで一般的だった輿を使った人力での葬送は徐々に姿を消していきました。これにより、現代の葬儀の原型が大正時代に形成されたと言えるでしょう。
明治~大正時代の葬儀文化の意義
この時期の葬儀文化は大きな変革を遂げました。明治時代の国有化政策や火葬禁止令、そしてその撤回と火葬義務化は、葬儀の方法や埋葬の在り方に大きな影響を与えました。さらに、欧化政策の影響で喪服の色が変わるなど、葬儀における服装の変化も見られました。
大正時代には霊柩車の普及により葬送の方法が一変し、現代の葬儀文化の基盤が築かれました。これらの変化は、明治から大正にかけての社会的、文化的な転換を反映しており、日本の葬儀文化の発展において重要な時期を形成しています。
まとめ
日本の埋葬方法は、時代ごとにさまざまな変遷を遂げてきました。それぞれの時代背景や文化的要素が反映されたこれらの埋葬方法は、単に遺体を処理する手段ではなく、亡くなった方への敬意や宗教的信仰、そして社会の変化を映し出しています。縄文時代から現代までの埋葬文化をたどることで、私たちは日本人の死生観や社会の変容を深く理解することができます。現代に生きる私たちにとって、これらの歴史的な埋葬方法は、先人たちの思いや信仰、そして彼らがどのように人生の終わりを迎えたかを知る貴重な手がかりとなるのです。今後もこれらの歴史を大切にしながら、次の世代へと伝えていくことが求められています。
コメント