2020年に全世界でコロナウイルスが流行したときに日本各地の社寺で“疫病鎮めの祈祷”が行われ、疫病を予言する「アマビエ」を目にする機会が多かったと思います。しかし実は「アマビエ」よりはるか前に疫病を鎮める最強の護符が存在していたことご存じでしょうか。その名も「角大師(つのだいし)護符」といいます。実在した元三大師良源という僧の姿を写したお札なのですが、そこに描かれるのは、人とは思えない不思議な姿をしています。
日本の歴史の中でも最強の護符として知られている角大師護符も詳細を知っている方も多くありません。そこで今回はそんな謎に満ちた角大師護符について紹介していきます。
角大師とは
そもそも角大師とは何なのか紹介していきます。角大師匠とは、平安時代の僧・元三大師良源のことを指します。良源は滋賀県長浜市に生まれ、比叡山に登り延暦寺の発展に大きく貢献し、「延暦寺中興の祖」として尊敬されていました。彼は法力が強く、多くのカリスマ的な人気を集め、その結果、多くの伝説や伝承が生まれました。その中の一つが「角大師」の伝承なのです。
元三大師良源の生い立ち
元三大師良源は、延喜12年(912年)に現在の滋賀県長浜市三川町に生まれました。彼の父は木津氏、母は物部氏の末裔でしたが、特に高貴な家柄ではありませんでした。幼少時の名前は観音丸で、これは母が子宝を求めて観音様に祈願し、夢に太陽の光が懐に入るという夢を見たことに由来しています。
観音丸は幼い頃から特別な雰囲気をまとっており、梵釈寺で遊んでいた時、寺の僧に仏道に進むよう勧められました。12歳で比叡山延暦寺に入門し、驚異的な学習能力で注目を集め、17歳で正式な僧侶となり、良源という名を授かりました。
良源が成長する頃、世間では藤原純友の乱や平将門の乱といった反乱が相次ぎました。これに対し、朝廷や貴族は天台密教の祈祷に注目し、比叡山の影響力が増大しました。政権の要人である藤原師輔は、良源に接近し、良源が修行していた横川の整備を支援しました。師輔の娘が妊娠した際、良源は祈祷を依頼され、胎内の女子を男子に変える秘法を用いて冷泉天皇を誕生させました。
良源はその才能と努力、そして政治的支援によって出世を遂げ、55歳で天台座主に就任しました。比叡山の大火からの復興や、二十六カ条起請による綱紀粛正など、多くの課題に対処し、天台宗を再興しました。
天台座主として20年の後、惜しまれつつ入滅しました。彼は比叡山中興の祖として歴史に名を残し、その後世に伝わる伝承も多く生まれました。
ちなみに良源は正月三日(元日三日)に亡くなったことから「元三大師」と呼ばれています。
良源が角大師になった経緯
そんな良源が「角大師」と称されるようになった経緯は、彼の最晩年の73歳の頃の出来事に由来しています。ある夜、瞑想中の良源のもとに、不穏な空気が漂い、疫病神が現れました。疫病神は、当時世間で流行していた疫病を広めるために良源の体を侵しに来たと告げました。
良源は逃れられない運命を受け入れ、左の小指を差し出して「ここに付け」と言いました。疫病神が付くと良源は高熱と苦痛に襲われましたが、彼は秘法を使って疫病神を体から追い出しました。
その後、良源は弟子たちを集めて鏡を持ってこさせ、自ら鏡の前に座り瞑想を続けました。すると、鏡に映る彼の姿が変わり、頭に角を生やした鬼のような姿となりました。この姿を見て驚いた弟子たちの中で、明普阿闍梨だけが冷静にその姿を描き取りました。
良源はその絵を元にお札を作り、それに加持を施し、疫病退散の祈りを込めました。そのお札、つまり護符を民衆に配布し、家の戸口に貼るように命じました。結果として、護符を貼った家々は疫病の被害を免れたと言われています。
この出来事以来、民衆は良源を「角大師」と称え、角大師が描かれた護符を広く信仰するようになりました。現在では、角大師の護符は疫病を鎮める最強の護符として知られ、天台宗の主要寺院でこのお札が授与されるほか、Tシャツやトートバッグにも印刷され、広く親しまれています。
女官の前で鬼の姿になった良源
良源には「鬼大師」と呼ばれる逸話もあります。若き日の良源は美男子であり、宮中に招かれると女官たちからしばしば色目を使われていました。
ある春の日、良源が御所の庭園を散策していると、女官たちが花見の酒宴をしている場面に出くわしました。無理やり酒宴に引き込まれた良源は、しばらく座興に付き合った後、「今日は素晴らしい花見をさせてもらいました。そのお礼に、得意の百面相をお見せします」と言い、全員に顔を伏せるように指示しました。
しばらくして「はい」という合図があり、女官たちが顔を上げると、目の前には恐ろしい二本の角を持つ鬼の姿がありました。恐怖で腰を抜かした女官たちは再び顔を伏せ、しばらくしてから再度顔を上げると、良源の姿は消えていました。
この話と似たエピソードとして、宮中の女性たちの目から逃れるために鬼の面をかぶって参内したというものがあります。その面は、良源が創建した京都の蘆山寺に保管されており、毎年2月3日の節分の日に一般公開されています。
豪雨も食い止めた良源
良源には「豆大師」というお札の逸話もあります。江戸時代の寛永年間(1624~1645)、大坂の百姓が豊作を願って比叡山の横川を訪れました。熱心に祈っていると、雨が土砂降りとなり、自分の水田が洪水で流されてしまうのではないかと心配になりました。寺の僧に訴えると、「今こそお大師さまに一心に祈る時だ」と諭され、百姓は気を取り直して祈り続けました。
それでも心配が収まらない百姓は、大雨の中、自分の村へ急ぎました。村に近づくにつれ、洪水の被害がひどいことがわかり、半ば諦めて村にたどり着くと、自分の田だけが無事であることに驚きました。村人たちに尋ねると、「三十人余りの若者が桶や鍬を持って田の手入れをしていた」とのことでした。その若者たちが働いていたのは、百姓が横川で一心不乱に祈っていた時刻と一致していました。
百姓が再び横川を訪れて僧にこのことを話すと、「お大師さまは観音さまの化身であり、三十三身になぞらえて三十三人の童子となって救ってくださったのだろう」と答えられました。この出来事をきっかけに、33体の小さな良源の姿絵を描いたお札が「豆大師」と呼ばれ、広く貼られるようになりました。豆大師は「魔を滅する」という意味で、魔滅大師とも呼ばれています。
おみくじの起源でもある元三大師良源
元三大師良源は実はおみくじの起源とも言われています。元三大師良源は観音菩薩に祈念し、五言四句の偈文百枚を授かりました。この偈文は観音菩薩の教えであり、元三大師はこれらの偈文を引くことで進むべき道を見出し、多くの人々を迷いから救いました。この偈文百枚が現代のおみくじの原型とされています。
元三大師がおみくじの元祖と称されるようになったのは江戸時代初期のことです。徳川家三代に仕えた慈眼大師天海が、元三大師の夢のお告げにより信州の戸隠神社で偈文百枚を発見しました。これが「元三大師百籤」となり、番号と偈文によって的確な指針を得られるものとして広まりました。
この元三大師百籤は次第に天台宗以外の寺院や神社でも使われるようになり、現在のおみくじの基礎となっています。今日、寺や神社で引くおみくじは、元三大師が授かった偈文百枚に由来しているのです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は最強の護符「角大師」や元三大師良源について紹介してきました。角大師の伝説は元三大師良源が73歳の時、疫病神と対峙し、その力を持って疫病を退け、民衆を守った逸話がその由来でした。またその他にも様々な逸話もあり、実はおみくじの起源も元三大師良源でした。
本サイトは角大師以外にも様々な日本の面白い歴史や文化を紹介しています。興味ある方はぜひ他の記事も読んでいただけると嬉しいです!
コメント