皆さん、日本の埋蔵金伝説について聞いたことありますでしょうか。テレビなどでたびたび話題になる埋蔵金。本当にそんな莫大な量の金貨が眠っているのかどうかイメージがわかないかもしれません。
しかし日本はかつて「黄金の国ジパング」と呼ばれるくらい金がたくさん発掘され流通していたのです。しかしたくさんあったはずの金は消えてしまい、いつしか埋蔵金という形でどこかに隠されている・埋められているのではないかという都市伝説が形成されていきました。今回はそんな夢とロマンが詰まった日本の埋蔵金伝説について紹介していきます。
埋蔵金とは?
まず最初に埋蔵金とは一体何か紹介していきます埋蔵金伝説が噂されるのはもっぱら戦国時代以降ですが、埋蔵金とは簡単に言うと国がピンチに陥ったときの資金の蓄えでした。戦国時代の日本では、国を失っても命さえあれば再起が可能だったとされています。
その中で、自らの領地や権力を失った大名が再び力を取り戻すためには、何よりも兵士、食料、そして戦いに必要な武器が欠かせませんでした。これらを確保するためには、軍資金が不可欠であり、敗退時に持ち出した財宝を、他者の手に渡らないよう慎重に隠すことが常でした。 この隠された財宝、つまり「埋蔵金」は、再起の希望として、または絶望的な状況から脱出するための最後の手段として大名たちによって秘密裏に埋められました。
日本のゴールドラッシュ
それでは一体なぜ戦国時代以降に大量に埋蔵金が出てきたのでしょうか。それには日本のゴールドラッシュが関係してきています。かつて「黄金の国ジパング」と讃えられた日本では、特に戦国時代を中心に、金の採掘が盛んに行われました。この時代、ヨーロッパの宣教師や商人を通じて、先進的な金の精錬技術がもたらされたことが、ゴールドラッシュを一層加速させました。採掘された金銀は、戦国大名たちによって、自らの領地を守るための軍資金として用いられ、また、その力と富を誇示するために、城や装飾品にも豊富に使用されました。
しかしこの黄金期は永遠には続かず、江戸時代に入ると状況は変わり始めます。特に江戸時代の中期以降、日本の多くの金山が次々と閉山に追い込まれ、かつての栄光は次第に過去のものとなっていきました。この記事では、戦国時代の日本がいかにしてゴールドラッシュの時代を迎え、そしてその終焉を迎えたのかを、分かりやすく解説していきます。
日本の埋蔵金伝説
それでは日本の埋蔵金伝説を見ていきましょう。いくつか有名なものを紹介していきます。ひょっとしたらあなたの家の近くにも眠っているかも!?
武田信玄の埋蔵金伝説
武田信玄、その名は風林火山の旗印と共に戦国時代を駆け抜けた最強の大名として知られます。彼の率いる武田軍の成功の裏には、黒川金山や梅ヶ島金山などから産出される豊富な金の存在がありました。この金は「金山衆」と呼ばれる熟練の鉱山師たちによって掘り出され、信玄はそれを利用して、当時としては圧倒的な騎馬軍団を構築し、信濃や駿河など多くの地域を征服しました。
信玄は全国統一を目前に控えた武将の一人でしたが、彼の死後、息子の勝頼の代に武田家は滅亡します。この激動の時期に、武田家が巨額の埋蔵金を隠したという伝説が残っています。その隠し場所として、甲州市の鶏冠山や諏訪湖の底などが噂されています。
1971年、甲州市勝沼町のぶどう園で、「ひるも金」と呼ばれる室町幕府時代の金貨2枚と甲州金18個が発見されました。この発見は一時、武田信玄の埋蔵金ではないかと大きな話題になりましたが、後にこれらが武田氏家臣・勝沼氏の隠し財産であった可能性が高いとされています。
明智光秀の埋蔵金伝説
明智光秀、その名は本能寺の変により織田信長を討ち、歴史に裏切り者として名を残した武将として知られます。しかし、彼にまつわる伝説は裏切りだけではありません。光秀の隠した埋蔵金についての話は、信長の宝物であった大量の黄金が琵琶湖に隠されたというものです。
本能寺の変後、安土城を手に入れた光秀は、城の財宝の一部を朝廷や忠実な部下、そして自らに味方した武将たちに分配しました。しかしその後、近江の坂本城へと金銀を移送中、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れてしまいます。この時、坂本城に籠城していた光秀の重臣、明智秀満が持ち逃げした黄金を琵琶湖に沈めたと言われています。
一方で秀吉に敗れたのは光秀の影武者で、本人は天海と名を変え、僧侶として生きながらえ、戦死者の鎮魂や徳川家康の平和への道を支えたとも噂されます。光秀の埋蔵金は「護法救民の宝」とも称され、人々を救うために用いられるはずだったとも伝えられています。
豊臣秀吉の埋蔵金伝説
黄金をこよなく愛した天下人、豊臣秀吉。彼の名を聞けば、金の千成瓢箪や黄金の茶室、そしてその豪快な黄金のばら撒きが思い浮かびます。そんな秀吉にまつわる埋蔵金伝説の中でも特に有名なのが、多田銀山に関するものです。
伝説によると、秀吉は自分がこの世を去った後、唯一の息子である秀頼のために、大坂城に蓄えられていた莫大な財宝の一部を、兵庫県川辺郡に位置する多田銀山へ移したと言われています。この話が広く知られるようになったのは、昭和初期に豊臣家の家臣によって残されたとされる文書が発見されたことがきっかけでした。その際、秀吉の埋蔵金に対するブームが起こり、当時大きな話題を呼びました。
言い伝えられる埋蔵金の総額は、なんと4億5000両。これを現代の通貨価値に換算すると、およそ200兆円にも上るとも言われています。愛する妻淀殿との間にもうけたたった一人の息子、秀頼のためにこのような驚異的な額の埋蔵金を用意していたとは、秀吉の天下人としての底知れぬ力を改めて感じさせられます。
徳川埋蔵金伝説
一番最後に紹介するのは今もなお謎に包まれた徳川埋蔵金についてです。慶応4年(1868年)、幕末の動乱の中で、江戸幕府は権力を朝廷に返上しました。この翌年、明治新政府の軍隊が東海道を進軍し、江戸への攻め込みを目前に控えていました。この危機的な状況の中、西郷隆盛率いる官軍と勝海舟代表の旧幕府側が江戸薩摩藩邸で交渉し、江戸城の平和的な明け渡しに成功しました。
しかし江戸城を接収した官軍は、城内の蔵を調べた際、鉄砲や弾薬は見つかったものの、幕府の財政を支えるはずの大量の金銀「幕府御用金」は一切発見できませんでした。蔵番と呼ばれる役人たちも厳しい尋問を受けましたが、誰一人として埋蔵金の隠し場所を明かす者はおらず、最終的に彼らは処罰されました。
そしてそのわずか5日後、横浜港からひっそりとブルガリア国旗を掲げた蒸気船が上海へ向けて出航しました。この船が実は「幕府御用金400万両」を秘密裏に搭載していたという説があります。いまだに謎に包まれている徳川埋蔵金は現在価値に換算するとなんと3000億円。この徳川埋蔵金の伝説は幕末の激動の時期を生き抜いた徳川家の最後の秘密の一つとして、多くの人々の興味を引き続けています。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は日本の埋蔵金伝説について紹介してきました。日本では戦国時代以降に金の精製技術の発達と争いが絶えない戦国時代に貯蓄の必要性が出てきたということで各大名が埋蔵金を隠してきたと言われていました。特に武田信玄、明智光秀、豊臣秀吉、徳川幕府の埋蔵金が有名で、いまだ謎のベールに包まれています。
本サイトでは埋蔵金以外にも日本の面白い歴史や文化を紹介しています。興味ある方は是非他の記事も読んでいただけると嬉しいです!
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