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皆さん、陰陽師という言葉を聞いたことございますでしょうか?興味ゲームやドラマ、映画などで登場することもある陰陽師ですが、実は古来より日本に実在した役職でかつては日本の政治に大きな影響力を持っていまたした。
そんな陰陽師とはどんな役職なのでしょうか。また陰陽師について調べていくと必ず安倍晴明という名前も目にすると思います。安倍晴明とは一体何者なのでしょうか。今回はそんな意外と知らない陰陽師と安倍晴明について紹介していきます。
陰陽師とは?
陰陽師とは、昔の日本において律令制度のもとで設置された官職で、中務省の陰陽寮に属していました。彼らは陰陽道という、陰陽五行思想に基づく学問を用いて、神意の占いや予言、地相の鑑定などを行う専門家でした。陰陽師は、自然現象や運命を理解し、人々の生活や政治に関わる重要な決定を導くための占術を担当していました。
時代が中世、近世に移るにつれて、陰陽師は官僚制度の枠を超えて民間にも広がり、祈祷や占術、厄払い、怨霊退治などの民間信仰に関わる活動を行うようになりました。このように、陰陽師は学問と占いを組み合わせ、様々な現象を検証し解決策を提供する役割を持っていたと言えます。
陰陽師が現代でも特に知られている理由の一つは、その中でも特に有名な陰陽師「安倍晴明」の存在にあります。安倍晴明は、歴代の陰陽師の中でも特に優れた能力を持つ天才として知られ、彼の伝説や物語は現代でも多くの人々に親しまれています。安倍晴明は、陰陽道に加えて、様々な神秘的な力を操るとされ、その人物像や業績は、文学や芸術、ポップカルチャーにも影響を与えています。
陰陽師の思想
陰陽師の思想は、中国由来の深い哲学「陰陽五行思想」に基づいています。この思想は、宇宙や自然界、さらには人間社会まで全ての事象を陰陽と五行の理論で説明しようとするものです。
陰陽説は、全ての物事や現象は相反する二つの原理、すなわち陰と陽によって成り立っており、これらのバランスが世界の調和を保っていると考えます。一方、五行思想は、木・火・土・金・水の五つの元素がすべての物質の基本的な構成要素であり、これらの相互作用が物事の変化や発展をもたらすとします。
陰陽五行思想では、これら五行に更に陰陽を配し、合計で「甲(きのえ)」「乙(きのと)」「丙(ひのえ)」「丁(ひのと)」「戊(つちのえ)」「己(つちのと)」「庚(かのえ)」「辛(かのと)」「壬(みずのえ)」「癸(みずのと)」の10種類を生み出しました。これらは「十干」と呼ばれ、日本では古くから日付を数える際の符号として用いられてきました。
しかし、日本における陰陽道は単にこの中国の思想を取り入れただけではありません。それに日本独自の宗教や哲学、科学の要素が加わり、独特の形で発展しました。陰陽道は仏教、道教、神道、修験道の教えを取り入れ、また天文学、暦学、易学、時計学などとも深く関連しています。これらの学問や信仰が融合することで、陰陽師は自然現象を予測し、疫病や災害を避け、人々の生活を守るための知恵を提供してきました。
平安時代の天才陰陽師である安倍晴明は、この陰陽道の知識を駆使して雨を降らせ飢饉を救い、病を癒やすなど、多くの伝説にその名を残しています。陰陽師の思想は、単に占いや祈祷だけではなく、当時の人々の生活や文化、科学に大きな影響を与えていたことがわかります。
陰陽師の歴史
陰陽師の始まり
陰陽師の歴史は、飛鳥時代に遡り、中国大陸から伝来した陰陽五行思想がその根底にあります。この思想が日本に最初に伝えられた当時、その影響は限定的でしたが、602年に百済から来日した觀勒が聖徳太子ら官僚に天文学や陰陽五行思想を教えたことで、大きな影響を与え始めます。その後、日本の暦法や官僚制度、法律などにこの思想が取り入れられ、607年にはさらなる学びを求めて遣隋使が派遣されました。
陰陽師という言葉が公式に使われ始めたのは685年頃で、718年の養老律令により、陰陽寮が設立されます。この陰陽寮では、陰陽師が正式な官職として設けられ、暦の作成や方位の決定、呪術や祭祀などを行うようになりました。当初は道教の術法による病気治療を行う呪禁師が別途置かれていましたが、8世紀に入るとこれらの職が陰陽師と統合され、陰陽師がこれら全ての職務を担うようになります。
陰陽師が輝きだした平安時代
平安時代には、陰陽師は朝廷や貴族社会において重要な役割を果たすようになり、特に疫病の流行時には、疫鬼を追放する役目を担うなど、治世のために欠かせない存在となりました。平安後期には、賀茂氏と安倍氏という二大派閥によって陰陽道が支配され、特に安倍晴明はこの時代の代表的な陰陽師として神格化され、数々の伝説を生み出しました。
鎌倉時代になると、賀茂氏と安倍氏の系統から多くの陰陽師が生まれ、室町時代までにはその影響力を日本全国に広げました。この時代、武士が政治の中心となり、鎌倉幕府やその周辺で活躍する「鎌倉陰陽師」が力をつけ、その活動は京都に匹敵するほどになりました。このように、武士社会全体に陰陽道が広まっていきました。
陰陽師が最も盛んに活動した江戸時代
多くの人が陰陽師と聞いて平安時代を思い浮かべますが、実際には江戸時代に最も盛んに活動していました。ただし、一般に想像されるような姿とは異なり、この時代の陰陽師は都市や田舎、貴族や武士の居住地を回り、占いや祓いを行なっていました。さらに、安倍晴明の末裔である土御門泰福らのように、幕府の天文学者や国学者とも関わりを持ち、日本の学問や思想に影響を与えた陰陽師もいました。そのため、江戸時代の陰陽師は多岐にわたる活動を行っていたのです。
明治時代の始まりとともに、陰陽師は「天社神道廃止令」により突然姿を消しました。この令によって陰陽寮が廃止され、多くの陰陽師がその地位を失ったのです。しかし、明治の終わりごろから大正時代にかけて、折口信夫のような研究者によって陰陽道が再び学問の対象として注目されるようになりました。その後、1970年代以降の反近代主義の流れの中で、陰陽道は再び関心を集め、現代における陰陽師への興味や安倍晴明の人気を高める一因となりました。
天才陰陽師の安倍晴明とは?
安倍晴明は、平安時代を彩る最も有名な陰陽師であり、その名は現代に至るまで多くの人々に伝えられています。陰陽師としての彼の伝説は、単なる占い師や祈祷師を超え、政治や文化にも影響を及ぼした人物として知られています。
安倍晴明の成功の背景には、彼の豊富な学問知識と呪術に関する才能があります。飛鳥時代から奈良時代にかけて、陰陽師は風水や祈祷、神意を告げることを主な仕事としており、晴明はこれらの分野で卓越した技能を持っていました。彼の名声は徐々に高まり、平安時代にはその最盛期を迎えます。
安倍晴明がこの地位に上り詰めることができたのは、彼の師である賀茂忠行の存在が大きいです。賀茂忠行は、暦家としての役割を超え、天文道・暦道・陰陽道の三部門すべてを掌握し、陰陽家・賀茂氏の基礎を築きました。この賀茂忠行から直接学んだ安倍晴明は、幼少期からその才能を認められ、陰陽道の全てを教わりました。
安倍晴明の人生には多くの逸話が残っていますが、その中でも特に有名なのは、彼が幼少期に鬼の存在を感じ取り、賀茂忠行に知らせたエピソードです。この出来事が、彼が超自然的な存在を感じ取る能力を持っていたことを示す証拠とされています。成長した晴明は、この能力を生かして多くの貴族から信頼を得、数々の祈祷や厄払い、怨霊退治に成功しました。
安倍晴明の伝説
それでは安倍晴明が残した数々の伝説について見ていきましょう。今回は全部で10つ紹介します。
安倍晴明と渡部綱
かつて、平安時代中期の京の都に、渡部綱という勇敢な武将がおりました。ある晴れ渡る日、一条戻橋のたもとで、彼はとびきり美しい女性に声をかけられます。女性は綱に、自らを送ってほしいと願い出ました。
しかし、二人が道を進むうち、その美女は突如として恐ろしい鬼女の姿に変わりました。綱の身につけていた簪を奪い、空へと舞い上がる鬼女。しかし、綱はただちに反応し、鬼女の腕を見事に切り落としました。その鬼女は、その腕を失ったまま愛宕山へと逃げ帰ったのです。
混乱の中、綱は知恵と力で知られる安倍晴明を訪ね、相談に乗ってもらいます。晴明は綱に物忌みを勧め、腕に封じ込められた力を抑えるよう助言しました。
時は流れ、腕を取り戻そうとする鬼女が再び綱の前に現れました。しかし、晴明の助言に従った綱は、鬼女の脅威から見事に逃れることができました。
僧へのアドバイス
かつて、滋賀県にある古刹・三井寺に、智興という高僧がいました。彼は知恵と慈悲で多くの人々から尊敬を集めていましたが、ある日、病に倒れ、命の灯が消えかけていました。
その時、京の都から安倍晴明が駆けつけました。晴明は集まった人々に向かって、「誰か身代わりになってこの尊い命を救うものはいないか?」と声を高らかに問いかけました。すると、智興の弟子である証空が前に進み出て、「私が師の身代わりとなります」と、静かながらも力強い声で宣言しました。
晴明は、古の中国より伝わる泰山府君の法を用いて、証空の命を智興へと移そうと試みました。泰山府君とは、威厳ある泰山そのものの神であり、生と死の境を司る存在です。厳かな儀式の中、智興の体に再び生気が宿り始めましたが、その代償として証空が苦痛に顔を歪めました。
しかし、証空は日頃から不動明王を深く信仰し、その力を信じて修行を積んでいました。その信仰が彼を守り、窮地から救い出しました。最終的に、智興も証空も奇跡的に一命を取り留め、この出来事は後世まで語り継がれる伝説となりました。
年老いた僧が弟子入りしてきた
ある日、安倍晴明の屋敷に年老いた僧と、その手には10歳ほどの小さな子供を連れた老僧が訪ねてきました。老僧は晴明のもとで陰陽道を学びたいと願い出ましたが、彼には隠された秘密がありました。実は、その老僧は式神を操る力を持っていたのです。
晴明はその秘密を見抜き、老僧の持つ式神を巧みに隠してしまいました。老僧が不思議に思い、「なぜ人の持ち物を隠すのか」と問いただすと、晴明は穏やかながらも確かな声で、「あなたが私を試そうとしたからです」と答えました。
老僧はその言葉に驚き、同時に深い感銘を受けました。「式神を隠すことができるとは、あなたは本当に大いなる陰陽師だ」と称賛し、その場で晴明に弟子入りを志願しました。
こうして、老僧は晴明のもとで陰陽道の深い知識と神秘を学ぶこととなり、二人の間には師弟を超えた深い絆が生まれました。晴明の知恵と慈悲が、また一つ伝説となったのです。
天皇の謎の頭痛を治す
昔、平安の京の都に、花山帝と称される天皇がおりました。花山帝は絶え間ない頭痛に苦しめられ、どんな名医の治療を受けてもその痛みは消えることがありませんでした。
そんな時、知恵と力で名高い安倍晴明公が召し出されました。晴明は静かに帝の横に座り、深い洞察力で帝の病の根源を見つけ出しました。「陛下、お悩みの頭痛は、陛下の前世に由来するものです。前世では、陛下は尊い行者でありましたが、その骨は今、ある山の岩の間に挟まれ、安らぎを得ておりません。それが今、陛下の頭痛として現れているのです」と晴明は告げました。
晴明の指示により、その山へ使者が派遣され、岩の間に挟まった髑髏を丁寧に取り出し、適切に供養することとなりました。その儀式が終わるや否や、まるで呪いが解けたかのように、帝の頭痛は突如として消え去りました。
式神と蛙
かつて、安倍晴明は京都の広沢にて、高位の僧正と深遠な話に花を咲かせておりました。その時、ある貴族が静かに近づき、陰陽師としての晴明の力について、ある問いを投げかけました。「式神を操る貴方なら、人をもこの世から消すことができるのでしょうか?」と。
晴明はその問いに淡々とした声で、「生を与える術を知らぬ者が、どうして簡単に命を奪うことができようか」と答えました。しかし、貴族はなおも詰め寄り、「では、その力で蛙を一匹殺してみせよ」と挑みました。
晴明は静かに一枚の草の葉を拾い上げ、それを軽く空中に投げました。その葉が舞い降りると同時に、地面にいた蛙が驚くほど静かに、そして瞬く間に真っ平に潰れてしまったのです。
予言
かつて、花山院と称された若き天皇がいました。彼は小野の宮の美しい娘を女御として迎え、二人の間には深い愛が芽生えました。しかし、幸せな日々は長くは続きませんでした。女御が突然この世を去り、天皇は深い悲しみに沈みました。
その悲しみは深く、花山院は天皇としての位にあることの虚しさを感じ、在位わずか2年で出家する決意を固めました。彼の心は俗世を離れ、仏道へと向かったのです。
出家の夜、京の都では安倍晴明が天を仰ぎ見ていました。北極星の光が不思議な模様を描き、それは天変地異の前触れとされていました。晴明はその兆しを見て、「帝が譲位される」と静かに、しかし確かな声で宣言しました。その言葉はたちまち都中に広がり、人々はこの大きな変化に心を動かされました。
蘆屋道満
昔々、藤原道長という権力ある貴族が、祈りと敬虔な心を持って法隆寺を建立しました。この寺への参拝には、いつも彼の側に忠実な白い犬が伴っていました。しかし、ある日のこと、その犬が法隆寺の門前で異常な振る舞いを見せ始めました。
犬はまるで何かを警告するかのように、吠え立て門を塞ぐように立ちはだかりました。道長が近づこうとすると、犬はさらに彼の御衣の裾を咥え、一歩も前に進ませませんでした。この奇妙な振る舞いに、道長は何か不穏なものを感じ取りました。
そこで、京の都で最も名高い陰陽師、安倍晴明を招き、この怪事の真相を探るよう依頼しました。晴明は深く祈り、占いを行った結果、門の道には邪悪な力が宿る呪物が埋められているという結論に達しました。
道長の命を受けて、その場所を掘り起こすと、そこからは素焼きの土器が十文字に束ねられて現れました。さらに詳しい調査の結果、この呪いの手口は平安京にもう一人の有名な呪術師、蘆屋道満のものであることが明らかになりました。
爪の毒
昔、藤原道長が物忌みの時を過ごしていた折、彼のもとには四人の高名な人物が仕えておりました。勧修僧正、陰陽師の安倍晴明、名医の丹波忠明、そして勇敢な武士、源義家でした。ある日、奈良より早瓜が献上され、それは道長にとって大変な喜びとなりました。
しかし、安倍晴明がその瓜を慎重に占ったところ、中に毒が施されたものが一つ含まれていることを見抜きました。この危機に際し、勧修僧正は深い祈祷を捧げ、その力で瓜をゆらゆらと動かしました。この祈祷によって毒のある瓜が明らかになり、丹波忠明がその瓜に巧みに針を差し込み、毒を抜き取りました。
そして、最後に源義家がその瓜を一刀両断にしました。すると、その中からは子蛇がとぐろを巻いて現れ、驚くべきことに丹波忠明が差し込んだ針は蛇の目を正確に射抜いていました。
蘆屋道満との対決
昔、平安の都には二人の名高い陰陽師がおりました。一人は蘆屋道満、もう一人は安倍晴明です。ある日、両者の間で、どちらの方が占いの力がより優れているかを決する勝負が行われました。
勝負の内容は、蓋付きの容器に入れられた16個の夏みかんを使ったものでした。勝者とは、その容器の中身を正確に言い当てる者とされました。蘆屋道満は自信満々に夏みかんであると断言しました。しかし、安倍晴明は静かに、中には鼠が16匹入っていると答えました。
周囲の人々は晴明の答えに驚き、多くが彼が敗れたと考えました。しかし、実際に容器の蓋を開けてみると、そこには驚くべき光景が広がっていました。元々みかんだったはずのものが、晴明の術により鼠へと姿を変えていたのです。
この勝負により、安倍晴明の法力がいかに優れているかが証明されました。蘆屋道満と安倍晴明の間に生じたこの勝負は、平安時代の人々の間で語り継がれる伝説となり、両者の名を不朽のものとしました。
母は狐
昔、信太の森の奥深く、一匹の白い狐が暮らしておりました。この狐は、ある日、安部保名という人間に命を救われるという運命に巡り合います。狐はこの恩義を決して忘れず、人間の女性「葛の葉」として美しく化け、保名のもとへと現れました。
葛の葉と保名はお互いに深く惹かれ合い、やがて二人の間には「堂子丸」と名付けられた一人の子が授かりました。幸せな日々は続くかに見えましたが、運命は彼らを試すかのように、葛の葉の秘密を暴き立てます。
堂子丸が5歳になる頃、ある日のこと、葛の葉の狐の尻尾が見えてしまったのです。この一瞬が彼女の正体を保名に知られるきっかけとなりました。真実が明らかになると、葛の葉は全てを保名に打ち明け、再び狐として、懐かしの信太の森へと戻っていきました。
葛の葉と保名の間に生まれた子、堂子丸こそが、後の時代に名高い陰陽師、安倍晴明であると言われています。
安倍晴明の死因
そんな数々の伝説を残してきた安倍晴明ですが、なんとかなりの長生きでもあったようです。安倍晴明が生きていた平安時代では平均寿命は40~50歳であるのに対し、安倍晴明はなんと86歳まで長生きしていたのです。しかも死ぬ間際まで陰陽師として活動していたというのだから驚きを隠せません。
しかしそんな長生きで直前まで陰陽師として活動していた安倍晴明が一体なぜ亡くなってしまったのかについては資料や文献が残っていません。死因はいまだに謎なのです。
安倍晴明が長生きできた理由の一つとして、彼が妖怪の血を引いていたからという説があります。先ほども触れたように晴明の母親は信太の森に住む狐の妖怪で、狩人である安倍保名に救われた後、彼と恋に落ちて晴明を産みました。妖怪の狐は1000年も生きると言われており、そんな生命力あふれる血を引いている晴明も、自然と長寿であったのかもしれません。
まとめ
いかがでしたでしょうか。日本における陰陽師と伝説的な安倍晴明について紹介してきました。古くから日本の様々な場面で重要な働きをしていた陰陽師は実は明治時代まで存在していたというのは驚きでした。また安倍晴明の伝説的な逸話も驚愕してしまうものが多かったです。
本サイトでは陰陽師以外にも日本の様々な面白い歴史や文化を紹介しています。興味ある方はぜひ他の記事も読んでくれると嬉しいです!
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