皆さん、厳島神社を訪れたことありますか?海の上に浮かぶ朱色の大鳥居が象徴的な厳島神社は古くから多くの人を魅了してきました。今では日本のみならず世界中からも観光客が集まっています。そんな厳島神社ですが、そもそも一体何故海の上にあるのでしょうか。またどういった経緯で建設されたのでしょうか。今回はそんな以外と知られていない厳島神社の歴史と見どころ、そして豆知識について紹介していきます!
厳島神社の歴史
厳島神社は、その壮大な歴史と神聖な存在感で知られる、日本の広島県宮島に位置する神社です。この神社の歴史は、太古の自然崇拝から始まり、日本の歴史の多くの重要な時代を通じて続いています。それでは厳島神社の歴史を見ていきましょう。
創建の背景
宮島は、古くからその美しい山々と弥山の霊気に満ちた山容から、周辺の人々の自然崇拝の対象となっていました。593年、佐伯部の有力者であった佐伯鞍職によって現在の場所に厳島神社が創建されたとされています。その後、806年には空海(弘法大師)が宮島に立ち寄り、弥山を開山したと伝えられています。
平清盛と厳島神社
平安時代末期、安芸守から太政大臣に昇りつめた平清盛は、厳島神社をその一族の守護神として篤く信仰しました。このことがきっかけとなり、神社は広く知られるようになり、華麗な海上社殿が造営されました。この時代には、後白河法皇や高倉上皇、建礼門院ら多くの皇族や貴族が社参し、神社は栄華を極めました。
平家が壇ノ浦で滅亡した後も、厳島神社への信仰は衰えることなく、鎌倉幕府や室町幕府、そして地元の領主である大内氏や毛利氏、さらには天下人となった豊臣秀吉に至るまで、歴代の権力者によって庇護され続けました。特に毛利元就は、1555年の厳島合戦で大内義隆を破り、その後の神社の発展に大きく寄与しました。
(画像引用: Japaaan magazine)
宮島の変化
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宮島は当初、祭祀の際にのみ神職や僧侶が渡ることが許される神聖な場所でしたが、信仰が浸透するにつれ、参詣者が増え町が形成されていきました。室町時代には物資の流通や交易が活発になり、宮島は交易・商業都市としての性格も加え、急速に変貌を遂げました。江戸時代には、福島正則や浅野氏などの藩主が宮島の商業や廻船業を保護し、宮島は瀬戸内地方の文化の中心地として栄えました。この時代の厳島神社は、棚守、大聖院、大願寺による経営体制が維持されていました。
(画像引用: アートジェンダー)
明治時代の変化
明治維新後、神仏分離令による影響で多くの寺院が廃寺となり、厳島神社もまた変革の時を迎えました。社殿の修復や大鳥居の建て替えなど、神社は新しい時代に合わせた近代化を図りました。特に、山陽鉄道宮島口駅の開業や宮島航路の開通は、観光客の増加に大きく寄与しました。20世紀に入ると、全島が国の史跡名勝に指定され、弥山北麓の原始林が天然記念物に、さらに1996年には厳島神社とその背後の弥山一帯が世界文化遺産に登録されました。これらの指定は、厳島神社と宮島の歴史的、文化的価値を国際的に認めるものであり、多くの観光客が訪れる観光地としての地位を不動のものとしています。
厳島神社の見どころ
続いて厳島神社の見どころを紹介していきます。大鳥居だけではなく、神社の中も美しい設計になっているので必見です。
海の上に浮かぶ大鳥居
厳島神社の象徴的な存在である朱色の大鳥居は、その神秘的な美しさで世界中の人々を魅了しています。この大鳥居が建つ遠浅の浜は、干潮時には訪れる人々が歩いて大鳥居の下をくぐり抜けることができる、まさに特別な体験を提供します。この時、社殿前の「鏡の池」は、周囲が干潟になる中で湧き水によって生み出される美しい景観が見られ、訪問者を魅了します。
しかし、潮が満ちると、厳島神社は一変して海に浮かんでいるかのような幻想的な光景を展開します。この奇跡的な光景は、平清盛が「神の島」を足で踏むことなく、神聖な場所として保つために海上に社殿を建設したことに由来します。満潮時には海面が床板のギリギリまで達し、その設計は瀬戸内海の潮の満ち引きと完璧に調和しています。
厳島神社の背後にそびえる弥山は、かつて山岳信仰の対象とされていました。この山と海上の社殿、そして大鳥居が織りなす自然景観と建築美の調和は、全て綿密に計算された上で成り立っており、訪れる人々に深い感動を与えます。
客(まろうど)神社
厳島神社を訪れる際には、入り口近くにある摂社「客神社」から参拝を始めるのがおすすめです。摂社とは、主祭神と関連性の深い神々を祀る神社のことを指し、客神社はその中でも特に見逃せない存在です。客神社の本殿は、その優れた建築様式と装飾の美しさから国宝に指定されています。参拝する際には、神聖な雰囲気をただ感じるだけでなく、細部にわたる装飾や構造にもぜひ注目してみてください。本殿だけでなく、境内の他の建物にも高い格式を持つ建築様式が用いられており、どこを見てもその美しさに心を奪われることでしょう。
また、客神社には5柱の神々が祀られており、特に縁結びのご利益で有名です。恋愛や結婚を願う人々にとっては、訪れる価値のある聖地と言えるでしょう。さらに、美容や病気平癒、厄除けなどの幅広いご利益があるとされており、多くの参拝者が様々な願いを込めて訪れます。
厳島神社全体が持つ神秘的な雰囲気と合わせて、客神社の神聖な美しさとご利益は、訪れる人々にとって忘れがたい体験となるはずです。厳島神社を訪れた際には、ぜひ客神社から参拝を始めて、その歴史と美しさを存分にお楽しみください。
(画像引用: 世界遺産マニア)
東回廊と西回廊
厳島神社の美しさを際立たせるもうひとつの見どころは、社殿を囲むように配置された「東回廊」と「西回廊」です。これらの回廊は、合わせて約260メートルの長さを誇り、幅は約4メートルあり、どちらもその優れた構造美で国宝に指定されています。
東回廊と西回廊を歩く際、最も注目すべきはその「床板」です。一見、隙間なく敷き詰められた板のように見えますが、実はその間には「目透し」という微細な隙間が設けられています。これは、高潮時に海水を逃がすことで建物を守る独特の仕掛けです。さらに、海水による腐食を防ぐため、床板の固定には釘が一切使用されていないという点も、技術的な見地から見ても非常に興味深い特徴です。
もうひとつ注目してほしいのは、東回廊と西回廊の「入口」です。東回廊の入口には「切妻造り」の屋根が、西回廊の入口にはより格式の高い「唐破風造り」の屋根がそれぞれ設置されています。唐破風造りが格式の高い建物の入口に用いられることが多いため、もともと西回廊が正面入口であった可能性が考えられます。この違いは、訪れた際にぜひ見比べてみるべき点であり、建築の細部に宿る歴史的背景を感じ取ることができます。
(画像引用: miyajima blog)
御本社
厳島神社の心臓部である「御本社」は、本殿、幣殿、拝殿、祓殿から成る一連の建造物で、その壮麗さと独特の建築技術で国宝に指定されています。海上に建つこの神社は、その構成からも海との調和を大切にした独自の美を持っています。
御本社の中でも特に注目すべきは、左右非対称の形状を持つ本殿です。このユニークな構造は、御本社の美しさに独特のアクセントを加えています。伝統的な神社建築とは一線を画するこの特徴は、厳島神社の個性とも言える部分であり、訪れた際にはぜひその形状に注目してみてください。
御本社の屋根は、現存する数社しかない珍しい形状をしています。このユニークな屋根は、厳島神社の建築様式の中でも特に興味深い部分であり、建築に興味のある方にとっては見逃せないポイントです。屋根の形状だけでなく、その細部にわたる装飾や材質にも、職人の高度な技術と美意識が反映されています。
海上に位置する厳島神社の御本社は、波や風といった自然の脅威に晒されることが多いため、それらに対する工夫が随所に施されています。これらの工夫は、御本社が長い年月を経てもその美しさを保ち続けるための知恵と技術の結晶です。建物の構造や材料の選定、さらには建築の配置に至るまで、自然環境との調和を重視した設計がなされています。
(画像引用: Flicker)
高舞台・平舞台
厳島神社の御本社前に広がる「高舞台」は、年に11回ほど舞楽の舞台となり、古き良き日本の伝統と芸術を今に伝える貴重な場所です。朱色の欄干で囲われ、海上にそびえ立つ大鳥居を背景に繰り広げられる舞楽は、訪れる人々に日本の情緒を強く感じさせます。舞楽は、平安時代に平清盛によって京都から宮島へと伝えられた日本の伝統舞踊です。煌びやかな衣装を身にまとった舞い手が織りなす優雅な舞は、日本の伝統文化の深い魅力を伝えています。
「高舞台」は「日本三舞台」の一つに数えられ、その歴史的価値は国宝にも指定されています。室町時代に取り付けられた欄干の柱や魔除けの模様が施された欄干など、高舞台自体にも見どころは豊富です。舞台は、その構造美とともに、舞楽の演目に相応しい神聖な雰囲気を醸し出しています。
高舞台と合わせて「板舞台」と呼ばれる平舞台も、厳島神社の重要な要素です。大阪の四天王寺や住吉大社の石舞台と並んで「日本三舞台」に数えられるこれらの舞台は、日本の神社建築や文化における舞台芸術の重要性を物語っています。
(画像引用: Flicker)
厳島神社の豆知識
最後に厳島神社の豆知識をいくつか見ていきましょう。一体何故海の上にあるのか、なぜ大鳥居は倒れないのかなどいくつかの疑問に答えていきます。
厳島神社が海の上にある理由
宮島は古くからその島全体が神聖な場所として崇拝され、島自体が神として信仰されていました。この深い信仰心は、島の土地を傷つけることを極力避けるという厳しい戒律にも表れています。宮島の土を削ったり、木を切ったりすることは、神聖な島を傷つける行為とされていたため、極めて制限されていました。
この信仰の背景にあるのは、島が神格を有するという古い信仰で、島全体が神の住まう場所と考えられていたからです。そのため、厳島神社の大鳥居や社殿が陸地ではなく、海上に建設されたとされています。このような建設方法は、宮島の土地を守り、島の神聖を保つための知恵であったと言えるでしょう。
旧石器時代にはすでに人々が島内に住んでいたとされ、多くの遺物が発見されていますが、最終氷河期以降は一時的に人が住まなくなり、無人島の時代もあったと推測されています。そして593年頃、島に対する神聖な信仰が再び見られるようになり、地御前神社の場所に遥拝所が設けられました。この遥拝所からは一時的に島に渡るための船が出されており、島内に築かれた祠の管理と祭祀のためであったと考えられています。
厳島神社が海の上に建てられた背景には、このように宮島自体への深い敬意と信仰があり、島を守るための独特の文化が形成されていました。海上に建つ社殿や大鳥居は、その信仰の表れであり、厳島神社の神聖さを今に伝える象徴と言えるでしょう。このユニークな建築方法は、宮島と厳島神社の特異な歴史と信仰心を物語っています。
海の中にある大鳥居が倒れない理由
厳島神社の大鳥居は、その雄大な姿で多くの人々を魅了していますが、海底に埋め立てられているわけではなく、実は単に置かれているだけです。海中に建てられながらも不動の姿を保ち続けているその秘密には、平安時代の職人たちの卓越した技術と知恵が隠されています。
この大鳥居の安定性の秘密は、鳥居の上部にある笠木と島木を組み合わせた箱型の構造にあります。この部分には約7トンもの玉石が詰め込まれており、これが大鳥居全体の重量を60トンにまで増やしています。この重量が大鳥居をしっかりと海中に固定し、倒れることなく安定させているのです。さらに、大鳥居の足元には6本の柱が頑丈に組み立てられており、これが強固な基盤を提供しています。不安定な砂場の海底でもこの構造が60トンの重さに耐えられるように、約50cmの杭が30~100本ほど打ち込まれています。これらの杭は「千本杭」と呼ばれ、その上に石を敷き詰めることで、さらに大鳥居の安定性を高めています。
驚くべきは、これらの技術が現代のものではなく、平安時代の職人たちによって行われていたという事実です。海中という厳しい環境の中でも、彼らの高度な技術と創造力によって、今もなお美しい姿を保ち続けている大鳥居は、日本の建築技術の粋を集めた壮大なロマンを私たちに感じさせてくれます。
厳島神社は寝殿造り
厳島神社の魅力の一つに、平安時代を象徴する寝殿造(しんでんづくり)の設計が挙げられます。寝殿造は、高床式の木造建築であり、貴族の住宅に特有の、上品で繊細な建築様式です。寝殿を中心に、対屋(たいのや)と呼ばれる部屋や渡殿(わたどの)という廊下が配置され、貴族文化の粋を集めたような構成となっています。
厳島神社における寝殿造の特徴は、その鮮やかな朱塗りの外観にあります。この色彩は、平安時代の貴族文化の洗練さを今に伝え、訪れる人々に深い印象を与えます。厳島神社では、客神社や舞台、楽房(楽器を演奏する場所)、反橋(そりばし)など、寝殿造の要素が随所に見られます。
厳島神社の散策では、回廊をゆったりと歩きながら、平安時代の貴族が楽しんだであろう優雅な雰囲気を味わうことができます。寝殿造の建築は、その時代の美意識や生活様式を反映しており、細部にわたる装飾や構造には、当時の人々の精巧な技術と繊細な感性が息づいています。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は厳島神社の歴史と見どころと豆知識を紹介していきました。実は神社というより山も含めた島全体が神として信仰されており、土地を削ったり木を切り出したりすると髪を傷つけているということで海の上に建設されていったのですね。その後、平清盛が今の形へ完成させ、以後様々な人々から愛され続けてきました。このような歴史的背景を知ってから実際に厳島神社へ行ってみるとまた違った角度から楽しめそうですね。
本サイトでは厳島神社以外にも様々な日本の歴史や文化を紹介してます。興味ある方はぜひ、他の記事も読んでくれると嬉しいです!