皆さん、大宰府へ訪れたことはございますでしょうか。学問の神様と知られる菅原道真を祀っている神社としても有名で、合格祈願で毎年数多くの人々が訪れる日本でも屈指の神社です。そんな大宰府ですが、そもそも何のために建設されたのかご存じでしょうか。また菅原道真は一体なぜ福岡の大宰府まで来たのかご存じでしょうか。今回はそんな意外と知らない大宰府の歴史や菅原道真との関係、見どころ、豆知識を紹介していきます。
太宰府の歴史
太宰府と菅原道真
太宰府の見どころ
それでは続いて大宰府の見どころを見ていきましょう。大宰府へ行く予定のある方はぜひ見どころを抑えてから行ってみましょう。
御本殿
太宰府天満宮の御本殿は、その独特な建築様式と歴史的背景から、日本の重要な文化財のひとつとして認識されています。五間社流造(ごけんしゃながれづくり)という特異な様式で建てられたこの御本殿は、一般的に多く見られる三間社流造の神社とは異なり、正面に6本の柱を配置することでその独特さを際立たせています。この特徴が、御本殿を日本の神社建築における珍しい例としています。
御本殿の歴史は、菅原道真の墓所に醍醐天皇の勅命によって造営されたことに始まります。何度かの焼失と再建を経て、現在の御本殿は1591年に造営されました。その荘厳な佇まいは、太宰府天満宮の風景を象徴し、参拝者を魅了してやみません。風光明媚な色合いとともに、この御本殿は日本の伝統建築の美しさを今に伝えています。
(画像引用: ZIPANG TOKYO 2020)
心字池・太鼓橋・平橋
大宰府に位置する「心字池」は、その名の通り草書で書かれた「心」の字を模した独特の形状をしています。池のほとりの曲線と浮島がこの文字を形作り、訪れる人々に心の安らぎを与えています。心字池には、美しい景色を形成する三つの橋が架けられており、それぞれが過去、現在、未来を象徴しています。この三つの橋は仏教思想における三世一念を表現しており、参拝者が橋を渡ることで三世の邪念を払い、心を清めるとされています。
中でも「太鼓橋」は、その名の通り太鼓のように弧を描く形状をしており、この様式は日本や中国の特徴的な橋のデザインとしても知られています。太鼓橋と平橋の朱色は、緑豊かな木々の中で特に鮮やかに映え、心字池の美しい景観を一層際立たせています。
心字池とその橋たちは、ただ美しいだけでなく、参拝者に心の洗浄と精神的な平穏をもたらす場所として重要な役割を果たしています。この場所は、日常の喧騒から離れて自己を見つめ直し、内面の平和を求める人々にとって特別な意味を持っています。
(画像引用: るるぶ&more。)
如水の井戸
大宰府には、「如水の井戸」と呼ばれる歴史的な名所があります。この名は、戦国時代の名将であり、豊臣秀吉の側近でもあった黒田官兵衛が出家した際に名乗った名前に由来しています。黒田官兵衛は軍事的な才能だけでなく、文化に対する深い理解も持っており、茶の湯をはじめとする当時の文化活動にも精通していました。
黒田官兵衛は、この大宰府の地を一時的な仮住まいとしており、その間「如水の井戸」の水を日常生活や茶の湯などに利用していたと伝えられています。彼はまた、菅原道真を深く敬愛しており、太宰府天満宮の復興にも尽力しました。そのため、如水の井戸は黒田官兵衛と太宰府天満宮の関係を物語る重要なスポットとなっています。
訪れる人々は、如水の井戸を通して、黒田官兵衛の生きざまや彼が残した文化的遺産に思いを馳せることができます。この井戸は、ただの水源ではなく、大宰府の歴史や文化、そして黒田官兵衛の精神性を感じられる場所として、多くの人々に親しまれています。
(画像引用: 三好不動産)
御神牛
太宰府天満宮の境内には、訪れる人々に知恵を授けるとされる11体の「御神牛像」が静かに佇んでいます。これらの像は、頭を撫でることで知恵を得られると信じられており、多くの参拝者が願いを込めてその頭を優しく撫でています。菅原道真と牛には深い関係があり、この信仰の背景には興味深い物語が存在します。
伝説によると、菅原道真の亡骸を運んでいた牛が、ある場所で突如として伏して動かなくなりました。その場所に門弟たちが道真の墓所を造り、後にそこに「御本殿」が建てられました。この歴史的なエピソードが、太宰府天満宮における「御神牛像」が全て伏した姿、すなわち臥牛である理由です。
(画像引用: ふらっと大宰府 歴史探訪の旅)
スターバックス
太宰府天満宮の表参道に佇むこのスターバックスは、その和テイストのデザインで訪れる人々の目を惹きます。世界的に著名な建築家、隈研吾が手掛けたこの店舗は、「太宰府天満宮の歴史ある雰囲気を壊さないデザイン」をコンセプトに、釘を一切使わずに木材のみで構築された、環境に優しい建築物です。
店舗のデザインには約2000本の杉材が斜めに組み合わされており、光と風が流れるように有機的な空間を生み出しています。この木組みは、温かみを提供するだけでなく、建築自体の強固な支えともなっています。内部を覆う木組みの総長はなんと4kmにも及び、伝統的な木組みが店内奥までシームレスに続く設計が、訪れる人々を魅了します。
隈研吾の設計理念である「自然素材による伝統と現代の融合」が、このスターバックスにおいても表現されており、木の温もりと自然的な開放感が調和した空間が多くの人を惹きつけています。店舗の入り口と奥は全面ガラス張りであり、前庭と奥庭に挟まれることで得られる視界の抜け感が開放的な雰囲気を生み出しています。
太宰府天満宮には樹齢千年を超えるご神木の白梅があり、隈研吾はこの自然の美しさを建築に取り入れることを意図しました。そのため、大きな窓から梅の木を眺めることができ、陽光が差し込むことによって店内は自然光で照らされ、余計な照明が不要なほど明るくなっています。
奥庭に植えられた梅の木が自然とのつながりを表す場所であるのに対し、参道に面した前庭は街とのつながりを感じさせる空間となっています。太宰府天満宮の歴史的な背景と現代の技術が融合した、このスターバックスは、環境への配慮や地域の文化を尊重した、世界に一つしかない店舗として存在しています。
(画像引用: 隈研吾建築都市設計事務所HP)
太宰府の豆知識
最後に大宰府の豆知識を見ていきましょう。今回は大宰府にゆかりのある菅原道真の豆知識が中心ではありますが、とても面白いのでぜひ読んでみてください。
菅原道真と梅の歌
太宰府にゆかりのある菅原道真と梅の花は、木っても切り離せない非常に有名なテーマです。菅原道真は、平安時代の傑出した学者であり、政治家であると同時に、詩人としてもその名を馳せています。彼の生前の逸話から、梅の花への深い愛情がうかがえます。そのため、道真と梅の花との関係は非常に象徴的なものとなり、多くの文学作品や伝説に影響を与えてきました。
道真が残した梅にまつわる和歌は、彼の情感豊かな内面と、梅の花への特別な愛情を伝えています。紹介された二首の歌は、その美しさと深い感情が込められた素晴らしい例です。
最初の歌「うつくしや 紅の色なる 梅の花 あこが顔にも つけたくぞある」は、梅の花の鮮やかな美しさを讃え、その色を自らの顔にも宿したいという純粋な願望を表現しています。この歌が5歳の時に詠まれたとされることから、菅原道真の神童ぶりが窺えます。5歳でこのような歌を作れるのは神童だkらです。
もう一首「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」は、太宰府への左遷が決まった際に詠まれたとされ、梅の花への別れの惜しみと共に、彼自身の切ない気持ちが込められています。この歌は、菅原道真が抱いた梅との別離の悲しみ、そして春の訪れと共に彼を思い起こして欲しいという願いを伝えています。
これらの歌は、太宰府天満宮で梅の木が特別な存在とされる理由を象徴しています。実際に、太宰府天満宮には数多くの梅の木があり、菅原道真への敬愛とともに、彼の詠んだ梅の歌を偲ぶ場所となっています。この歌はとても有名な歌で、太宰府天満宮にこの歌を記した石碑も立っています。
(画像引用: Japaaan magazine)
太宰府と飛梅伝説
太宰府天満宮には数々の伝説がありますが、中でも特に心を打つのが「飛梅」の伝説です。太宰府天満宮の御本殿向かって右手に位置するこの御神木は、菅原道真公と深い結びつきを持つ梅の木です。菅原道真公が京都から大宰府へ不当に左遷される際、自邸の梅の木に向かって「東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」という歌で別れを告げたと伝えられています。
この歌への深い愛情に応えるように、道真公を慕った梅の木は一夜にして大宰府まで飛んできたという驚くべき伝説が生まれました。それ以来、この梅の木は「飛梅」として知られ、御神木として大切にされてきました。飛梅は「色玉垣」という品種に属し、極早咲きの梅として知られています。太宰府天満宮の境内にある他の梅の木よりも先駆けて花を咲かせ、春の訪れを告げる役割を担っています。
飛梅から採取される梅の実は、非常に貴重であり、一生一代の「飛梅御守」として大切にされています。この御守りは、持つ者に特別な力を与え、幸運をもたらすと信じられています。
(画像引用: 暦生活)
菅原道真と牛
菅原道真と牛との関係は、日本史における興味深いテーマの一つです。承和12年(845年)に生まれた菅原道真は、干支でいう「乙丑(このとうし)」、すなわち丑年に生まれたとされています。これが、道真を祭る天満宮に臥牛が祀られる由来の一つとなっています。さらに、道真の生まれた瞬間が「丑の年の丑の日の丑の刻」であったという伝説は、彼と牛との特別な縁を物語っています。
道真が大宰府に流された後、2年でこの世を去った際に、彼の遺骨を九州に葬るべく牛に曳かせた柩が、突然動かなくなり、その場所に墓所が造られたという逸話は、天満宮における臥牛像の起源となっています。この地が現在の太宰府天満宮であることから、天満宮にある牛の像は殆どが臥牛であるのです。
また、道真が都にいた頃、迷い込んできた子牛を大切に育てていたエピソードは、彼と牛との間に特別な絆があったことを示しています。その子牛は後に行方不明になりますが、道真が大宰府へ流される途中、刺客に襲われた際に再び現れ、道真を助けたという伝説も残っています。
(画像引用: ぶるすけワールド)
菅原道真はなぜ学問の神様と言われているのか
菅原道真が学問の神様として広く信仰されるようになった背景には、その生涯と死後に巻き起こった一連の出来事が深く関係しています。道真は無実の罪で都を追われ、その不幸な運命にも関わらず、自らの役割に尽力し続けた高名な学者でした。彼の死後、都では不幸な事件が連続して発生し、これらが道真の祟り、あるいは怨霊の仕業と考えられるようになりました。これにより、道真は一時期、人々に強い畏怖の対象として認識されていました。
しかし、時が経つにつれて、道真公に対する見方は変わり始めます。彼が生前、京都で顕著な学識を示し、左遷されてからも自らの運命を受け入れ、研究と勤務に没頭したことが再評価されるようになりました。特に、道真が山の頂に登り、自らを陥れた者たちに対する恨みではなく、世の中の幸せと自分の無実を祈り続けたというエピソードは、人々の心を捉えました。このような背景から、道真は「恐ろしい祟りの神」から、「ありがたい学問の神」としての信仰に変わっていったのです。
また、「天神」という言葉が、もともとは菅原道真だけを指していたわけではありませんでしたが、彼への信仰が広まる過程で、「天神=菅原道真公」という認識が一般的になりました。これは、人々にわかりやすく伝えるための教えが広まった結果であり、今日では「天神」=「菅原道真公」=「学問の神」という考え方が一般的に受け入れられています。
(画像引用: るるぶ&more。)
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は大宰府の歴史や菅原道真との関係、見どころに豆知識を見ていきました。平安時代までは海外との外交の拠点にもなっていましたが、菅原道真が大宰府へ左遷されなくなった後に祟りだと恐れられてからは学問の神様として祀られるようになりました。大宰府へ行く予定の方や福岡へ行ってみようかなという方の参考になれば幸いです。
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