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偉人

徳川家康は何した人か簡単な年表、死因や性格やエピソードを紹介!

皆さん、徳川家康のこと、どれくらいご存じでしょうか?関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を開いた武将ということで日本の歴史の中でもかなり有名な人物ですが、実は生まれて早々人質として過ごしていたことをご存じでしょうか。未来に天下統一を果たし幕府まで開く人物が実は人質だったなのて驚きですよね。さらに戦争で恐ろしさのあまりに脱糞したのではという恥ずかしいエピソードまで。今回はそんな意外と知らない徳川家康について紹介していきます。

徳川家康は何した人?

徳川家康は、戦国時代の最後を飾る偉大な統一者として知られ、織田信長や豊臣秀吉と並び、日本史上最も影響力のある武将の一人です。彼の生涯は、多難な人質の身から始まり、巧みな政治と戦略によって日本の歴史を塗り替えました。

幼少期に織田家の人質となった家康は、早くから厳しい政治環境で生きる術を身につけます。織田信長との同盟を経て、豊臣秀吉の下での忍耐強い行動は、彼が如何にして時と場を見極めるかの見本です。秀吉の死後、家康は関ヶ原の戦いで勝利し、日本の統一を成し遂げました。

1603年に征夷大将軍に任命された家康は、江戸に幕府を開き、以後約260年間にわたる江戸時代を創設しました。この時代は、政治的な安定と文化的な発展が特徴で、徳川幕府の確固たる統治体制の下、平和が保たれました。

家康の名言には「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」というものがあります。これは彼の積極的で前向きな姿勢を示しており、何事も行動に移すことの重要性を教えています。また、彼の逸話の中には、冷静沈着で状況判断に長け、敵にも礼を尽くす様子が伺えます。特に、人質交換時に見せた度量の大きさは、多くの同時代人から尊敬を集めました。

徳川家康は、ただの戦国武将に留まらず、日本の未来を見据えた政策を行い、長期的な平和と繁栄の礎を築きました。彼の治世は、日本における中央集権的な政治体制の強化と、経済・文化の黄金時代への道を開いたのです。

徳川家康の簡単な年表

それでは徳川家康が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。

1547年 織田氏・今川氏の人質となる

徳川家康の人生は三河国の松平家において、幼名「竹千代」として始まりました。竹千代がまだ6歳のとき、彼の父である松平広忠は、尾張国の織田信秀(織田信長の父)との戦いに敗れ、竹千代は人質として織田家に送られました。小さな心にとって、家族と離れることは計り知れない苦痛だったことでしょう。そして、わずか2年後の1549年、竹千代は更なる打撃を受けます。父・広忠がこの世を去ったのです。広忠の死には複数の説があり、病死か部下による暗殺かが議論されていますが、どのような経緯であれ、若き竹千代は父の死によって松平家の当主となり、その重圧は計り知れません。

さらに運命は彼に試練を加えることをやめませんでした。今度は今川義元が松平家を救う名目で織田家に攻撃を仕掛け、竹千代は今川家の人質として送られることとなります。今川家の庇護のもと、駿府城で過ごすことになった竹千代は、彼の生涯における重要な段階を迎えます。14歳で元服を迎え、今川義元から「元」の字を与えられ「松平元信」と名乗ることになります。これは彼が完全に成人として認められ、戦士としての新たな人生をスタートさせた瞬間でした。

1560年 桶狭間の戦いで独立し、織田信長と同盟を結ぶ

(画像引用: 刀剣ワールド 浮世絵)

1560年5月、戦国時代の一大転換点が訪れます。今川義元が率いる強大な軍勢2万5千が尾張国に侵攻し、その中で起こったのが桶狭間の戦いです。この戦いで今川義元は織田信長の奇襲に遭い、討死しました。

当時、徳川家康は今川家の一員として大高城に在り、兵粮入れを成功させていました。義元の死の報は伯父からもたらされ、情報を確認した後、元康は大高城を出て岡崎城に向かいました。今川勢が岡崎城を捨て駿河へ退去したことで、元康は11年ぶりに岡崎城へ入城。この城を拠点に、松平一族や家臣を再結集し、西三河を支配下に置きました。

義元の死後、元康はしばらく今川家のために戦い続け、義元の嫡男氏真への弔い合戦を進言したとされています。しかし、永禄4年には氏真を見限り、織田信長との間に和解を進め、同盟を結ぶことに成功しました。

桶狭間の戦いは徳川家康にとって、ただの軍事的勝利ではなく、政治的な独立と自身の勢力範囲を拡大する絶好の機会でした。この出来事は、彼の戦国大名としての地位を確立する重要なステップとなり、後の天下統一へ向けた基盤を形成しました。

1582年 本能寺の変の後に神君伊賀越え

1582年6月、日本は戦国時代の大転換を迎えていました。この時、織田信長が明智光秀によって京都の本能寺で討たれる事件が起こり、この「本能寺の変」は多くの戦国大名に衝撃を与えました。徳川家康も例外ではなく、このニュースを泉州の堺で聞き及びました。家康は信長の招待で畿内を巡っており、そのときの随行者はわずか30人余りと非常に少数でした。

家康とその少数の家臣団は、京都での弔い合戦に参加するか否かを巡って議論が交わされましたが、その少数では無謀と判断し、急遽、本国三河への帰還を決意しました。最短で安全なルートを選ぶため、彼らは伊賀越えの道を選びました。このルートは堺から南山城を経て、近江信楽付近から伊賀丸柱を通り、鈴鹿の山を越え、伊勢国へと抜ける道でした。

この旅路は困難を極めました。地侍や土民(農民)の一揆の恐れがあり、実際に途中で地侍や土民に襲われる事態にも見舞われました。この危険な状況の中で、伊賀出身の忍者、服部半蔵の存在が非常に大きな役割を果たしました。半蔵は地元の甲賀者や伊賀者を集め、家康の一行を守りながら伊勢までの脱出を助けました。この経験から、家康は後に甲賀・伊賀の忍者組織を重用するようになりました。

伊勢に到着後、家康はどこから船に乗り三河に渡ったのかは諸説ありますが、彼は堺を発してから2日後の6月4日には無事三河に到着しました。この「伊賀越え」は、徳川家康にとってただの移動以上の意味を持っており、彼の生涯において徳川家康三大危機の一つになっています。

1600年 関ヶ原の戦いで勝利

(画像引用: 東洋経済オンライン)

1600年、日本の歴史に残る一戦が関ヶ原で展開されました。この戦いは、豊臣秀吉の死後、権力の空白と大名間の対立が激化する中で起こりました。徳川家康と石田三成を中心とする東軍と西軍の対決は、日本全土の運命を左右するものでした。

秀吉の死後、その遺志を継ぐべく設けられた五大老と五奉行の体制は、若干の安定を保っていましたが、秀吉の遺言を無視する家康の動きが、次第に他の大名の不満を引き起こしました。特に石田三成は家康の行動に反発し、その間の対立は深まる一方でした。家康が豊臣家の政策に反し、大名間の結婚や領地交換を独断で進めることにより、彼の勢力はますます大きくなっていきました。

一方、家康と石田三成との間での緊張は高まり、三成は家康の独走を阻止しようと行動を起こしました。三成が挙兵したことを受け、家康は急いで東に戻り、大名たちを率いて三成と対峙します。この対立は、ついに関ヶ原の地で全面戦争に発展しました。

関ヶ原の戦いは、西軍と東軍が約16万の兵力をもって激突し、わずか6時間で決着がつくという驚異的な速さで進行しました。戦いは当初西軍が優勢に進みましたが、東軍の勝利に大きく影響を与えたのは、西軍の小早川秀秋の裏切りでした。彼の行動が東軍に勢いを与え、戦局は一気に変わりました。

家康はまた、褒美をちらつかせることで西軍の大名を次々と引き寄せる策略も功を奏し、最終的には東軍が圧倒的な勝利を収めました。この戦いの結果、徳川家康は日本の実質的な支配者となり、後の江戸幕府の基盤を固めることに成功しました。

1603年 征夷大将軍となり江戸幕府を開く

(画像引用: President Online)

1603年、日本は新たな時代の幕開けを迎えました。徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府の設立を宣言したのです。この歴史的な出来事は、関ヶ原の戦いでの勝利を経て、徳川家が日本の政治を主導する新たな段階へと進むことを意味していました。

征夷大将軍とは、武家にとって最も高位の官職であり、その職に就くことは天皇から与えられる絶対的な権威と見なされていました。家康の就任は、単に名誉ある地位を得ることだけでなく、彼と徳川家が日本の武士階級の頂点に立つことを全国に示すものでした。

関ヶ原の戦いでの圧倒的な勝利後、家康は豊臣政権が持っていた権限を効果的に吸収しました。この動きは、豊臣秀頼を含む旧豊臣派の重臣たちが持つ影響力を削ぎ、徳川家の権力基盤をさらに固めることに成功しました。そして、慶長8年(1603年)、家康は征夷大将軍として公式に任命され、その地位を確立しました。

将軍職の世襲制を確立することによって、家康は徳川家が将来にわたって日本の武士の棟梁として君臨する基盤を築きました。これは、徳川家の絶対的な支配を確固たるものとし、他の大名や武士たちに対して明確なメッセージを送るものでした。

江戸を中心とする新たな幕府の誕生は、日本の政治構造に大きな変革をもたらしました。江戸幕府はその後、約260年間にわたって日本を治めることとなり、江戸(現在の東京)は日本の政治と文化の中心地として栄えることになります。

1615年 大阪夏の陣・冬の陣で豊臣氏を滅ぼす

(画像引用: 世界の歴史まっぷ)

徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利してから3年後の1603年、征夷大将軍に就任し、名実ともに日本の支配者となりました。しかし、大坂には豊臣秀吉の遺族である豊臣秀頼と淀君が依然として大きな影響力を持ち続けていました。秀頼の存在は、家康にとって潜在的な脅威であり、その解消が求められていました。

家康はまず、関ヶ原の戦いで自身を支持した大名たちに恩賞を与え、豊臣家からの忠誠を徐々に削ぎ落としていきました。また、政略として自分の孫娘である千姫を豊臣秀頼に嫁がせることで一時的に和平を保ちつつ、自らは征夷大将軍の座を息子の徳川秀忠に譲り、将軍職の世襲を固めました。

(画像引用: 刀剣ワールド)

徳川家康が豊臣家への攻撃を本格的に開始するきっかけとなったのは、1614年に起きた方広寺の鐘銘事件でした。この事件は、京都の方広寺に新しく設置された大仏殿の釣鐘に刻まれた銘文が原因で発生しました。鐘銘には「国家が安泰でありますように」という祈願文が記されていましたが、その中に「国家安康」という文言が含まれていました。

徳川家康は、この「国家安康」の文言が自身の名前「家康」を連想させ、さらにその名前を分断して滅ぼす意味があると解釈しました。また、鐘銘に含まれていた「君臣豊楽子孫殷昌」という言葉が、豊臣家が繁栄することを暗示していると捉え、これを豊臣家による政治的挑戦とみなしました。

徳川家康はこれらの文言に激怒し、事件を大坂の豊臣家に対する攻撃の口実として利用しました。家康はこの鐘銘を理由に、豊臣家に対して大坂城からの退去を強硬に要求しました。この要求は豊臣家にとって受け入れがたいものであり、徳川家との間にさらなる緊張を生じさせることとなりました。

大坂冬の陣は1614年11月に開戦しました。発端となったのは方広寺の鐘銘事件で、この鐘に刻まれた文言を家康が政治的挑戦と見なし、これを口実に豊臣家に圧力をかけました。家康は全国の大名を動員し、圧倒的な兵力で大坂城を包囲しました。対する豊臣軍は、長宗我部盛親や真田幸村などの武将によって支えられ、10万の軍勢を集めましたが、数において徳川軍の30万には及びませんでした。

豊臣軍は大坂城の堅固な防御を活かし、籠城戦を選択しました。一方の徳川軍は包囲戦を展開し、真田幸村が指揮する真田丸からの鉄砲による反撃に苦しめられました。しかし、徳川軍は最新の大砲を用いて大坂城に砲撃を加え、最終的に豊臣軍は和睦を申し入れました。

1614年12月の和議は一時的な平和をもたらしたように見えましたが、実際には徳川家康による計略の一環でした。家康は和議後、大坂城の防御機能を意図的に削ぐため、堀を埋めさせ、城郭の破壊を命じました。そして、豊臣秀頼に対し、大坂城を離れるか、浪人を解雇するよう要求しましたが、これが拒否されると、1615年4月に大坂夏の陣が勃発しました。

大坂夏の陣では、再び真田幸村が活躍し、一時は徳川家康を自害寸前に追い込みますが、援軍が到着し徳川軍は形勢を立て直しました。最終的に、大坂城に火が放たれ、豊臣秀頼は籾蔵で毛利勝永に介錯され自刃し、豊臣家は完全に滅亡しました。

徳川家康の性格

(画像引用: Nippon.com)

徳川家康は日本戦国時代を生き抜き、江戸幕府を創設した卓越した武将であり政治家です。家康の性格を特徴づける要素として、彼の忍耐強さがしばしば強調されます。これは彼の人生の多くの局面で見受けられ、特に苦難の多い幼少期や、織田信長や豊臣秀吉といった他の戦国大名との複雑な関係の中で顕著でした。

家康の性格を象徴するエピソードが、織田信長、豊臣秀吉と共に表現される狂句によく表されています。この中で、信長は「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」と述べ、強硬な決断力を示します。秀吉は「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」と策略を用いることで知られ、一方、家康は「鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス」と述べ、忍耐と待ちの姿勢を強調しています。

家康の忍耐力は、彼の人質としての幼少期に起因する部分が大きいです。6歳で人質として織田家に送られ、その後、今川家に移されるという不安定な環境で育ちました。これらの経験は家康に、いかなる状況下でも冷静さを保ち、機を見るに敏な性格を養わせたのです。

さらに、家康は信長や秀吉のもとで学んだ経験を活かし、自身が天下人となった後も、戦ではなく政治による支配を確立することで長期的な安定を目指しました。それにより約260年も争いのない平和な幕府が続いていったのです。

徳川家康の性格が反映されている名言もたくさんあります。徳川家康の名言に興味ある方はこちらの記事を読んでみてください!

徳川家康の死因

徳川家康は75歳の時に駿府城で亡くなりましたが、一体死因は何だったのでしょうか。徳川家康の死因については、長年にわたり多くの議論がありました。特に有名なのは、天ぷらを食べ過ぎたことによる死亡説です。家康は鷹狩りが好きで、活動的な趣味を持っており、特に晩年には田中城で度々鯛の天ぷらを楽しんだとされています。ある日、家康は鯛の天ぷらを食べ過ぎた結果、その夜中に腹痛を起こし、以降、健康が回復することなく亡くなったという逸話が残されています。しかし、これはあくまで逸話の一つで、家康が天ぷらを食べた後3ヶ月も経ってから死亡していることから、直接的な死因とは考えにくいとされています。

一方で、現代の観点から見ると、最も有力な死因とされるのは胃がんです。「徳川実記」には、家康の死に至る前の症状が詳細に記されており、これには痩せる、吐血、黒い便、腹部の大きなしこりなど、胃がんの典型的な症状が含まれています。家康が健康に非常に気を使い、医療に関心が高かったにも関わらず、主治医の助言を聞かずに自己判断で薬を調合していたとされ、これが病状を悪化させた可能性も指摘されています。

徳川家康のエピソード

それでは最後に徳川家康のエピソードを見ていきましょう。徳川家康も様々なエピソードがあるので必見です!

かなりの健康オタク

徳川家康は、戦国時代の武将にしては珍しく長命を全うしたことでも知られています。多くの武将が戦傷や病に倒れた中、家康は生涯を通じて健康管理に努め、75歳という当時としては驚異的な長寿を実現しました。

というのも徳川家康は相当な「健康オタク」だったと言われています。彼は体を鍛えるために鷹狩り、乗馬、水泳といった身体活動を日常的に行っており、これが高齢になっても彼が活動的である理由の一つとなっています。また、食事についても、贅沢なものを避けるとともに、煮物や焼き物、麦飯など腹持ちの良いシンプルな食品を好んで食べ、これが健康維持に寄与しました。

さらに、家康は自ら漢方薬を調剤するほど医学にも造詣が深く、彼が開発した「万病丹」や「銀液丹」といった薬は、小さな容器に入れて常に携帯していました。孫の徳川家光が病に罹った際も、家康は自ら薬を調合して治療にあたり、これが家光の回復に大きく貢献したと言われています。

家康のこのような健康管理の取り組みは、彼が幼少期から人質として過ごした不安定な環境の中で身につけたものかもしれません。厳しい状況下での生活が、彼に節制と自己管理の重要性を教えたのです。また織田信長や豊臣秀吉といった近い距離で見てきた武将たちが激動な生活を送るも健康を害してきていたことを目の当たりにして健康の重要性を痛感していたのかもしれません。

かなりの倹約家

徳川家康は、その生涯を通じて質素倹約の生活を心がけたことで知られています。彼の倹約ぶりは、多くの逸話によって語り継がれており、それらは家康がいかに経済的な思慮深さを持っていたかを示しています。

一つの逸話として、家康は新しい着物をほとんど購入せず、既存のものがぼろぼろになるまで何度も着用し続けたとされています。また、洗濯の回数を減らすために汚れが目立ちにくい浅黄色のふんどしを好んで使用したと言われています。これらの行動は、日常生活における無駄遣いを極力避ける姿勢を示しています。

さらに、家康は食事においても節約を実践していました。女中たちの食費を節約するため、漬物を極端に塩辛くしてお代わりを控えさせたというエピソードがあります。このようにして、彼の厳しい倹約精神は家全体に影響を与えていました。

また、家康は手洗い用の懐紙が風で飛ばされた際に、新しいものを取り出さずに、飛んでいった懐紙を自ら取りに行くことで節約の重要性を示しました。この行動に対して家臣が笑ったところ、「わしはこれで天下を取ったのだ」と返答し、彼の節約がいかに戦略的であったかを強調しました。

徳川家康の倹約精神は、彼の政治手腕にも反映されています。直轄地から得た莫大な石高にも関わらず、家康は譜代の筆頭家臣に与えた領地を極めて控えめに抑え、これが江戸幕府の長期安定に寄与しました。彼の経済的な思慮深さと質素なライフスタイルは、幕府の財政基盤を固め、約260年間にわたる平和な時代を支える土台となったのです。

かなりの勉強家

徳川家康は、戦国時代の武将としてだけでなく、その深い学識と知識欲で知られています。彼の勉強熱心な姿勢は、多岐にわたる分野での学びを通じて、政治や戦略に役立てられました。

家康は、古典文学や歴史に深い関心を持ち、「論語」、「史記」、「吾妻鏡」などの古典を愛読していました。また、「源氏物語」の教授を受けるなど、文学に対する造詣も深かったことが知られています。これらの書物から、政治や人間関係の教訓を学び、自らの統治に活かしていたとされます。

科学技術に対する興味も人一倍で、特に時計や測定機器に関心が高かった家康は、洋時計や日時計、砂時計などを収集し、時の管理と記録に励みました。さらに、1551年に日本に伝来したばかりの眼鏡を愛用し、日本で初めて鉛筆を使用した人物としても知られています。

学問的な好奇心を持ち続けた家康は、外国の知識にも目を向け、「三浦按針」(ウィリアム・アダムス)から数学や幾何学を学んだと伝えられています。これらの学びは、家康が国内外の新しい技術や文化を受け入れ、それを自らの政治や戦略に取り入れる広い視野を持っていたことを示しています。

家康の歴史学への関心は、軍事・政治戦略においても顕著でした。特に源頼朝や武田信玄を研究し、彼らの成功や失敗から多くを学びました。また、武田氏滅亡後は武田遺臣を積極的に召し抱え、これが後の徳川家の基盤強化に繋がりました。

徳川家康の知的好奇心は、彼が築き上げた安定した統治基盤の土台となり、その知識欲は孫である徳川光圀にも受け継がれ、「大日本史」の編纂へと繋がっていきました。家康の学びへの姿勢は、単なる戦国大名を超えた、知的探求心旺盛なリーダーの姿を今に伝えています。

徳川家康三大危機の三河一向一揆

徳川家康は人生で三回の大きな危機に直面したと言われており、一番最初の危機が1563年の三河一向一揆でした。この一揆は、家康の家臣が寺院の不入権を侵害した事件が発端とされ、これがきっかけで「三河三カ寺」と呼ばれる本證寺(愛知県安城市)、上宮寺(岡崎市)、勝鬘寺(岡崎市)などの有力寺院が家康と敵対することになりました。

三河一向一揆は、単なる宗教的な反乱ではなく、政治的な深い背景がありました。一向宗の寺院と門徒たちは、家康の支配体制に不満を持っており、特に家康の家臣団内にも多くの一向宗の信者がおり、これが家臣団を二分するほどの大規模な争いに発展しました。この寺院と信者たちの連携は、彼らが持つ強力なネットワークによって支えられていました。一向宗のネットワークは農民だけでなく、商人、運輸業者、手工業者などを含む広範囲にわたっており、戦国大名に匹敵する力を持っていたのです。

永禄6年末から翌7年(1564年)3月頃まで続いたこの戦いは、家康にとって厳しいものでしたが、最終的には一向一揆を鎮圧し、一向宗の寺院を破却することに成功しました。この戦いを通じて、家康は一部の重臣や武将たちとの間に亀裂が生じたものの、後に彼らは許されて再び家康のもとで働くこととなります。その中には、のちに家康の元で重臣として活躍する本多正信や渡辺守綱、夏目吉信などが含まれていました。

三方ヶ原の戦いで負けそうになり脱糞!?

(画像引用: 家庭教師のアルファ)

1572年、徳川家康が31歳の時、再び人生の危機を迎えました。徳川家康三大危機の2つ目である三方ヶ原の戦いです。この年、都の足利義昭が織田信長から離反し、武田信玄と手を組むことを決めた事件が起こります。信玄はこの動きを天下取りの大チャンスと捉え、遠江国を通って京都へ進軍することを決断しました。この進軍の途中、家康の領地である浜松城が経路上に位置していました。

家康の重臣たちは浜松城での籠城を進言しましたが、家康はこれを退け、敵を迎撃する決断を下しました。その背景には、「敵に城下を通過されることは武門の恥」という認識がありました。重臣たちの読みによれば、信玄軍は春には田植えのため帰国する必要があり、長期戦は避けると考えられていました。しかし、家康は信玄が意表をついて攻めてくることを想定し、出陣しました。

ところが、信玄も家康の出陣を予想しており、彼を三方ヶ原におびき出し、決戦を挑む計画を立てていました。結果として、この戦いで家康軍は大敗し、家康自身も危うく命を落とすところでした。そして武田軍のあまりの恐ろしさに徳川家康は思わず脱糞してしまったと言われています。敗戦の悔しさと反省から、家康は戦いの直後に鎧を脱ぎ捨て、絵師に自身の苦渋を含んだ表情を描かせたのです。これは「しかみの像」として知られ、家康の敗北をいつまでも忘れないための一助となりました。

ちなみに徳川家康三大危機の最後が本能寺の変の後の神君伊賀越えなのです。

徳川家康のあだ名は狸親父?

徳川家康のあだ名はなんと狸親父と言われています。天下統一を果たした日本の偉人のあだ名にしては少しダサいような感じもしますが、それにはいくつか理由があります。まず徳川家康自身がどっぷりとした太った体型であったため狸親父という言葉がぴったり当てはまっていたと言われています。

また狸親父とは年老いてずるがしこい男をののしっていう言葉です。徳川家康が天下を取ったのは60歳近くでした。また徳川家康はかなりずる賢く腹黒く陰湿だったと言われています。徳川家康のずる賢い性格が世に広まったのは大阪冬の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件です。

豊臣家を滅ぼしたいけどその口実がなくしびれを切らしていた徳川家康が、方広寺鐘銘に「国家が安泰でありますように」という祈願文が記されていましたが、その中に「国家安康」という文言が含まれていました。徳川家康は、この「国家安康」の文言が自身の名前「家康」を連想させ、さらにその名前を分断して滅ぼす意味があるとイチャモンをつけ、豊臣家へ進軍することを宣言したのです。なんという腹黒さ

徳川家康と日光東照宮

(画像引用: kkday)

徳川家康は栃木県の日光にある日光東照宮に祀られています。江戸からは程遠く、徳川家康の生涯を振り返っても縁もゆかりもない日光でなぜ祀られているのでしょうか。

一つの理由として、日光が江戸から見て北辰(北極星)の方角に位置していたことが挙げられます。北極星は古来より安定と不変の象徴とされ、家康がこの方角に墓所を設けることで、永続する安定と徳川家の恒久的な支配を象徴していたと考えられます。

また、日光は山岳信仰の中心地としても知られ、歴史的に霊場とされていました。源頼朝もこの地に寄進を行っており、家康自身が源氏の末裔を自称していたことから、頼朝の遺志を継ぎ、「日光再興」を目指した可能性があります。これにより、家康は自らを歴史的な英雄と同列に位置づけ、自身の地位と徳川家の権威を高めることを意図していたと言われています。

日光東照宮は元々「東照社」と呼ばれていましたが、正保2年(1645年)に宮号を受けて「東照宮」と改称されました。この名称は「東から照らす神社」を意味し、家康が神となって日本列島の東側から全国を照らし守護する役割を果たすとされています。

家康の崇拝者であり孫でもある第3代将軍徳川家光は、寛永11年(1634年)から寛永13年(1636年)にかけて、東照宮の全面建て替えを行い、その規模を拡大しました。この「寛永の大造替」と呼ばれる工事により、東照宮はさらに壮大で豪華な施設へと変貌を遂げ、徳川家の権威と繁栄を象徴する場所となりました。

徳川家康と日光東照宮の関係は、単なる信仰心以上のものであり、家康の政治的野心、歴史への敬意、そして彼の遺志が色濃く反映されたものです。家康の意志が今もなおこの神聖な地に息づいていることは、数多くの訪問者がその場所の重厚な歴史を感じ取る理由の一つと言えるでしょう。

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回徳川家康がどんなことをした人物だったのか、簡単な年表とともに性格や死因、エピソードも紹介してきました。幼少期の人質だった経験からかとにかく我慢強い性格で、織田信長があと一歩まで迫った天下統一を果たした豊臣秀吉の天下をあっさり奪い取り、江戸幕府を開き、約260年も安定した時代を作ることを成功しています。かなりの健康オタクで倹約家なことも我慢強い性格から来ていそうですね。

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