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文化

大奥とは一体何か?いつまで続いたのか簡単な歴史や床入りルールに美女三千人の伝説も紹介!

皆さん、大奥をご存じでしょうか?江戸時代に実際に存在した将軍様へご奉仕するための”美女三千人”が居住していたとされる秘密の花園「大奥」。将軍様以外は出入りできない男子禁制の世界だったと言われており、その実情は秘密のベールに包まれています。しかし実際には大奥での床入りにはかなり厳しいルールがあり、なんと聞き耳立てられながら夜の営みをしなければいけなかっただとか。今回はそんな意外と知らない秘密の花園「大奥」について徹底的に紹介してきます。

大奥とは何か

(画像引用: 和樂WEB)

大奥は、江戸城内に存在した江戸幕府将軍の妻子と彼らの身辺の世話をする女性たち「大奥女中」が住んでいた場所です。この大奥の概念は、もともと武家屋敷で政治が行われる場である「表」に対して、生活の場を指す「奥」に由来しています。江戸城では、特にこの生活空間を「大奥」と呼びました。

大奥が確立されたのは、江戸幕府第3代将軍である徳川家光の時代です。この時期、将軍家の血筋を絶やさないために、大奥には多くの女中たちが集められ、さまざまな役割を担いました。大奥女中の人数は最大で1,000人から3,000人とも言われていますが、正確な数は不明です。

江戸城は、本丸、二の丸、三の丸、西の丸の四つの主要な区画に分かれていました。大奥は本丸と西の丸に存在していました。本丸はさらに三つの区画に分けられ、表では将軍が政務を執り行い、中奥は官邸としての役割を果たしていました。そして大奥は、御殿、長局、御広敷の三つに分けられていました。

大奥の目的

大奥が設置された最大の目的は、「江戸幕府将軍の後継ぎとなる、血縁のある男子を確保すること」でした。当時、次期将軍は前任の将軍と血縁関係にある男子でなければならないという不文律が存在していました。

このため、一夫多妻制が当たり前の時代背景のもとで、将軍の正室(本妻)が男子を産むことが最も望ましいとされましたが、それが難しい場合でも、側室(本妻以外の妻)が男子を産むことが強く期待されていました。大奥という存在は、この目的を達成するために、多数の女性を一箇所に集めて生活させる仕組みを提供していました。

大奥には、将軍家の血筋を絶やさないためにさまざまな役割を担う女性たちが集められました。彼女たちは、正室や側室としての役割を果たし、将軍家の繁栄を支えるために重要な役割を果たしていました。このようにして、大奥は江戸幕府の安定と将軍家の継続を支える重要な施設として機能していたのです。

大奥の簡単な歴史

(画像引用: JAPAAAN MAGAZINE)

江戸城は、もともと戦国時代の武将である太田道灌によって築かれました。この城が将軍の居城として本格的に使用され始めたのは、2代将軍徳川秀忠の時代からです。本丸御殿の奥に女性専用の居住空間を初めて設けたのは、秀忠の妻であるお江与の方でした。お江与の方は、織田信長の姪であり、戦国時代の姫としても有名です。彼女のまたの名は「江(ごう)」で、大河ドラマの主人公にもなったことがあります。

秀忠は、お江与の方の嫉妬を恐れ、妊娠させた女性たちを江戸城から退去させ、出産を外で行わせていました。その後、誕生した子どもたちは家臣に預けられました。このようにして生まれた子どもには、後に会津藩主となり会津松平家の祖となった保科正之がいます。

大奥が本格的に形成され、女性たちが集められたのは3代将軍徳川家光の時代からです。家光は実は男色好きで知られており、このままでは将軍家の後継ぎが生まれないのではないかと心配されました。そこで、家光の乳母である春日局が、家光の気に入りそうな女性たちを集めたことが、大奥の始まりとなりました。大奥には、最大で”美女三千人”ともいわれる多くの女性たちが居住したとの伝説もあります。

家光が女嫌いだったわけではなく、その後も複数の側室を持ち、6人の子どもをもうけました。この中には、八百屋の娘から家光の側室となり、後に5代将軍となる綱吉を生んだお玉の方がいます。彼女の存在は、裕福な相手と結婚することを意味する「玉の輿」という言葉の由来にもなりました。

大奥には美女三千人がいた?

大奥には「美女三千人」という伝説がありますが、実際には誇張されています。この伝説は、中国の「後宮佳麗三千人」という言葉に倣ったもので、多くの女性が集まっていたことを象徴的に示す表現です。実際のところ、大奥には奥女中と呼ばれる奉公人が約400人前後おり、上級の奥女中が個人的に雇っていた使用人(部屋子)などを含めても、住んでいた人数は700~800人程度だったと考えられます。それでもかなり多いですが。

大奥に必要な使用人の数は、時代や状況によって変動しました。側室や子どもの数によっても異なり、ある時期には多くの人々が集まることもあれば、少ない時期もありました。例えば、享保の改革を行った8代将軍徳川吉宗は、大奥の中から特に美しい女性だけを集め、「他に適した嫁ぎ先があるだろう」として彼女たちをリストラするという独特の改革を行いました。

大奥には、本丸御殿だけでなく、二の丸や西の丸にも大奥が設けられ、次期将軍や先代将軍の御台所(正妻)が住むこともありました。このように、大奥は時代や状況に応じて柔軟に変化していました。

大奥の組織

(画像引用: Nippon.com)

大奥には、キャリア組とノンキャリア組の2種類の女性たちが存在していました。将軍に直接謁見できることから、キャリア組は「お目見え以上」と呼ばれ、逆に将軍に謁見できないノンキャリア組は「お目見え以下」と呼ばれていました。この大奥女中たちは、身の回りの世話や掃除などの雑務を担う者から、大奥全体を統括する重要な役職まで、さまざまな役割を持っていました。

大奥の女性たちのトップは「上臈御年寄(じょうろうおとしより)」で、特に家光以降、公家から迎えられることが多かった御台所に付き添ってきた女性たちがこの役職に就きました。彼女たちは、御台所の話し相手や相談役として重要な役割を果たしていました。

次に位置するのが「御年寄」または「老女」と呼ばれる役職で、幕府の家臣団でいえば老中に匹敵する地位です。実質的に大奥の指揮や監督を行っており、30~40代の女性が多くこの役職に就いていました。当時の感覚では、今とは異なり、30~40代でも「老女」と呼ばれていたのです。

「御中臈(おちゅうろう)」は、将軍や御台所の身の回りの世話をする役職で、特に寝室で将軍の相手を務める御伽(おとぎ)役は、将軍付きの御中臈の中から選ばれるのがしきたりでした。将軍が特定の御伽役を指名しない場合、御年寄が選ぶことが一般的でした。

大奥で出世するには「一引き、二運、三女」と言われ、有力な御年寄に引き立てられることや、運よくポストに空きが出ることが、美人であることよりも重要でした。このように、大奥の組織構成は複雑で、多くの女性たちがそれぞれの役割を果たしながら、将軍家の生活を支えていたのです。

大奥は、その時代において女性たちが重要な役割を果たし、組織的に運営されていたことがわかります。それぞれの役職には明確な職務があり、大奥全体が秩序と規律を保ちながら運営されていたのです。このようにして、大奥は将軍家の繁栄と安定を支える重要な役割を果たしていました。

大奥は男子禁制だった?

(画像引用: 和樂WEB)

大奥は基本的に将軍以外の男性の立ち入りを禁じていました。この厳格なルールは、DNA鑑定が存在しなかった当時、将軍の世継ぎが確実に将軍の血を引く子供であることを保証するためのものでした。奥女中の親族であっても、面会できるのは9歳までの男子に限られていました。実は奥女中の親族ということであの勝海舟が大奥にしばらく住んでいたこともあるのです。

しかし、実際には大奥には将軍以外の大人の男性も出入りしていました。まず、大名家に養子に出された将軍の子供たちは、実家に帰省するような形で大奥に戻ることができました。また、御三卿(田安家、一橋家、清水家)の当主も大奥に立ち入ることが許されていました。これらの家々は徳川家の一部であり、将軍の身内として扱われていたためです。

さらに、大奥に関わる仕事のために出入りする男性もいました。幕府の政務を取り仕切る老中は、将軍の正妻である御台所に呼ばれた際や、奥女中の任免の伝達や情報交換のために大奥に足を運びました。また、将軍の診察を行う奥医師や、屋敷の修理を行う大工、襖絵を描くための奥絵師も大奥に出入りしていました。

職場が大奥そのものである者たちも存在しました。その筆頭が留守居役です。元々は将軍が戦に出て江戸城を不在にする際に城を守る臨時の役目でしたが、後には常設され、大奥の取り締まりなどを行う役割に変わりました。この留守居役の配下には、広敷向の役人たちがいました。広敷向とは大奥の事務や警備を担当する男性たちが詰める場所で、広敷用人、広敷用達、広敷侍、広敷御用部屋書役などが働いていました。

さらに、広敷番のトップである広敷番之頭の配下には、広敷添番、広敷番並、広敷伊賀者、広敷下男などがいました。広敷下男は奥女中たちの用を請け負う代わりに食べ物や物品を受け取ることがあり、奥女中たちが彼らを部屋に引き込むという噂もありました。江戸城内で荷物の運搬や土木工事、堀の掃除を行う黒鍬之者も大奥に出入りしていました。彼らはゴミ箱の中身を回収する際に奥女中たちから心づけを受け取ることが多く、裕福な生活を送る者もいたようです。

このように、大奥は確かに女性たちの世界でしたが、その運営と維持を支えるために、多くの男性がさまざまな役割で関わっていたのです。

大奥の厳格な床入りルール

大奥における将軍の床入りは、厳格なルールと儀式に従って行われていました。将軍が大奥へ行くことを望む日には、まず御伽(おとぎ)坊主にその旨を伝えました。この際、将軍は相手の女中を指名することが一般的でした。大奥の門限は夜6時と定められており、将軍はその時間までに大奥に入る必要がありました。

「伽」の文字は「寝所に侍る」という意味を持ち、御伽坊主は将軍の子作りの世話役を務めるベテランの女中でした。彼女たちは剃髪していたため、「坊主」と呼ばれていました。将軍にどれだけ気に入られていても、女中は30歳になると寝室での相手を辞退する「御褥御免(おしとねごめん)」というルールがありました。これは高齢出産のリスクを避けるためで、もともとは体の弱い御台所を気遣ってのものでしたが、側室や御中臈にも適用されました。引退した御中臈には、驚きの役目が待っていました。

召された女中は、白無垢に着替え、簪は使わず髪を櫛で巻き上げました。数人の御中臈に付き添われて寝所の次の間に入り、徹底的な身体検査を受けました。髪の中まで念入りにチェックされ、その後、再度櫛で髪を巻き上げました。

将軍と女中が床入りし、夜の営みが始まると、御年寄や御中臈、御伽坊主がその様子を厳しく監視しました。これは、女中が将軍に対して「男児が生まれたら次期将軍にしてほしい」といった要求をすることを防ぐためでした。御添寝役は一晩中眠らずに聞き耳を立て、翌朝に寝室での出来事を御年寄に報告する役目を担っていました。この役職には、将軍のお相手を引退した女性が務めることもあったといいます。

翌朝には、大奥の最高幹部である御年寄に詳細な報告が行われました。この一連の過程はまさに儀式といえるもので、子作りは厳格な監視下で行われていたのです。

なお、相手が御台所(正室)の場合は、ここまで厳しくはなかったとされていますが、それでも監視役が存在していたというのが一般的な説です。

大奥は本当にハーレムだったのか?

大奥と聞くと、夜ごとに将軍の「酒池肉林の世界」が繰り広げられていたというイメージが浮かびがちですが、実際には全く異なります。大奥では厳しいルールが敷かれ、床入りの際も先ほど説明したように常に監視役がいるなど、将軍の夜の営みにはプライバシーがほとんどありませんでした。

将軍が毎晩大奥に通うこともできませんでした。将軍の公務の一つに、徳川歴代将軍の月命日の墓参りがありました。上野寛永寺や芝増上寺などへ参拝に訪れる前日は、身を清めるために大奥での宿泊が禁止されていました。このため、江戸後期の将軍は公務の都合で日程が窮屈になり、大奥に泊まれるのは月のうち半分程度だったのです。

また、将軍が相手の女性を自由に選べるわけでもありませんでした。大奥には何百人もの女性がいましたが、将軍が行き来できる範囲は限られていました。日常的に接触する女性は、主に将軍付きの「御中臈」であり、夜の添い寝役もその中から選ばれることが一般的でした。

さらに、将軍の床入りは非常に形式的で、召された女中は白無垢に着替え、厳密な身体検査を受けました。将軍との夜の営みが始まると、御年寄や御中臈、御伽坊主がその様子を監視し、翌朝には詳細な報告が行われました。これにより、女中が将軍に対して無理な要求をすることを防いでいました。

大奥は、将軍にとっても自由な空間ではなく、多くの制約と規則の中で過ごさなければならない場所でした。将軍の私生活は極めて管理されており、毎晩の床入りも厳しい監視下で行われていました。将軍の公務や規則により、大奥での生活は決して自由気ままなものではなく、その現実は一般の人々が想像するような豪華絢爛なものではなかったのです。

大奥はお金がかかる?

江戸時代、幕府は財政再建のためにたびたび倹約令を発しましたが、その中でも実は大奥の維持費は大きな問題となっていました。将軍が代を重ねるごとに、大奥の維持費は膨れ上がり、幕府の財政を圧迫する要因の一つとなっていました。

8代将軍・徳川吉宗の時代には、財政改革の一環として大奥の縮小が行われました。吉宗は大奥から選りすぐりの美女50人を「嫁のもらい手に困らない」という理由で一斉にリストラしました。この大胆なリストラ策は、大奥の膨張を抑えるためのものでしたが、同時に財政圧迫を軽減する目的もありました。

さらに、14代将軍・徳川家茂の時代にも大奥の改革が進められました。家茂の妻である和宮のたばこ代は、1カ月当たり約105両(現在の価値で約1260万円)に達していましたが、これを10分の1にまで減額し、10両2分(約126万円)に抑える措置が取られました。こうした断続的な改革にもかかわらず、大奥の維持費は依然として幕府の財政を圧迫し続けました。

最終的に、これらの改革の成果が現れる前に明治維新が起こり、幕府は終焉を迎えました。それとともに大奥も幕を閉じることとなりました。

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回大奥について概要や簡単な歴史、厳格なルールについてみてきました。大奥は徳川家光の男色もあって江戸幕府将軍の後継ぎとなる血縁のある男子を確保するためにできた組織でした。床入りや日数、門限など想像以上に厳しいルールが敷かれていました。そんな大奥が幕府の財政をひっ迫していたというのもまた皮肉でした。

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