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偉人

大久保利通は何した人か簡単な年表、死因、性格やエピソードを紹介

日本の近代化に多大な貢献をした大久保利通は、維新三傑の一人として知られています。彼のリーダーシップと決断力は、動乱の時代を乗り越え、新しい日本を築くために不可欠でした。しかし、そんな彼の人生には、意外な一面や感動的なエピソードが隠されています。洋服を着て立派なヒゲをたくわえた写真の背後には、どのようなドラマがあったのでしょうか?寡黙で威厳あるリーダーが、家庭ではどのように家族と接していたのか。そして、彼の死がもたらした衝撃とは?この記事では、大久保利通の公私にわたる魅力とその偉大な足跡を紐解いていきます。

大久保利通は何がすごいの?何した人か紹介

大久保利通は、維新の三傑と呼ばれる日本の近代化を支えた政治家です。大久保利通は薩摩藩の下級藩士の家庭に生まれました。幕末には、殿様の信頼を得て、西郷隆盛とともに薩摩藩を導き、幕府打倒のために朝廷への働きかけを行いました。

明治時代になると、大久保は「版籍奉還」という大名の土地と人民を朝廷に返す政策や、「廃藩置県」という藩を廃止して府や県を設置する政策を次々と実施しました。明治4年には大蔵卿(現在の財務大臣)に就任し、後に日本初の内閣総理大臣となる伊藤博文らと共に「岩倉使節団」に参加し、アメリカやヨーロッパを視察しました。

帰国後、大久保は幼馴染の西郷隆盛が韓国を武力で開国させようとする「征韓論」を主張していることを知ります。しかし、外国を直接見てきた大久保はこれに反対し、西郷を説得しようと努めました。しかし、西郷は最終的に西南戦争を起こし、大久保も翌年、暗殺されるという結末を迎えました。志半ばで倒れた大久保利通は、日本の近代化に多大な貢献をした重要な人物でした。

大久保利通の簡単な年表

それでは大久保利通が具体的にどんな生涯を送ってきたのか簡単な年表形式で見ていきましょう。

お由羅騒動を乗り越え薩摩藩の改革に動き出す

(画像引用: 人物事典風雲伝)

大久保利通は、1830年に薩摩藩鹿児島城下高麗町(現在の鹿児島県鹿児島市高麗町)で、下級藩士の大久保利世の長男として生まれました。同郷には西郷隆盛や、後の日本海軍大将となる東郷平八郎があり、彼らとともに学問を学びました。

1846年に薩摩藩の記録所の書役助に登用され、文書の草案作成や記録の事務を補佐する役割を担います。しかし、1850年の「お由羅騒動」に巻き込まれることになります。これは、藩主島津斉興の後継を巡る対立で、斉彬擁立派と調所広郷派が争った事件です。

騒動の結果、大久保利通の父・大久保利世は職を罷免され、遠島刑に処されました。利通自身も職を追われ、謹慎処分を受けました。しかし、最終的には島津斉彬が11代薩摩藩主に就任し、大久保利通の謹慎も解除されます。

この後、大久保利通は西郷隆盛らとともに薩摩藩内組織「精忠組」を結成し、藩内の政治改革に乗り出します。彼らは、薩摩藩を新たな方向へ導くため、共に努力し奮闘しました。お由羅騒動を乗り越えた大久保利通は、同郷の仲間たちとともに薩摩藩の未来を切り開くために動き出したのです。

薩長同盟の締結から倒幕運動へ

(画像引用: ジャパンアーカイブス)

お由羅騒動の後、島津斉彬が藩主となり、大久保利通と西郷隆盛は斉彬に登用されました。1857年には徒目付に任命されますが、翌年斉彬が病死し、藩主は島津久光の長子・忠義に代わります。忠義を支持する藩内の反対派勢力が政権を握る中、大久保と西郷の立場は不利になっていきました。

しかし、尊王攘夷派の志士たちとの仲介役としての功績が評価され、1861年には勘定方小頭から小納戸役に昇進し、西郷も藩政に復帰しました。これにより、大久保と西郷は薩摩藩の政治の中枢を担い、公武合体運動を推進しました。

しかし、幕府と薩摩藩の対立により、公武合体策は頓挫します。この状況を受け、大久保は「幕府を倒して新しい政府を樹立しなければ日本の未来はない」と考え、西郷隆盛とともに討幕へと動き出します。坂本龍馬と中岡慎太郎の斡旋により、長州藩との「薩長同盟」を締結し、武力討幕に向けて進みました。

1867年12月、「王政復古の大号令」により明治新政府の閣僚となった大久保は、岩倉具視や三条実美ら公家出身の要人を説得し、決戦の準備を進めました。1868年1月3日に始まった「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに戊辰戦争が勃発し、明治新政府はこの戦争に勝利して新たな日本の中央政府となりました。

明治政府で同胞の西郷隆盛と対立

(画像引用: Jタウンネット)

その後、大久保利通は明治政府の参与に任命され、「版籍奉還」や「廃藩置県」を実施し、中央集権体制の確立に尽力しました。1871年には大蔵卿に就任し、「岩倉使節団」の副使として欧米諸国を視察しました。

帰国後、大久保は李氏朝鮮を武力で開国させようとする「征韓論」に反対し、盟友の西郷隆盛や板垣退助らと対立しました。この対立により、「明治六年政変」が起こり、西郷隆盛は失脚します。

その後、参議兼内務卿として地租改正や殖産興業を推進し、日本の近代化を進めました。しかし、明治政府に不満を抱く士族たちによる内乱が相次ぎ、1877年の「西南戦争」では反乱軍の指導者となった西郷隆盛と対立しました。最終的には西郷はこの戦いで自害しました。

大久保利通の死因

(画像引用: 産経新聞)

大久保利通は、1878年5月14日午前8時30分頃、不平士族によって紀尾井坂で暗殺されました。享年47歳。この事件は「紀尾井坂の変」として知られています。

当日、大久保は霞が関の自宅を出発し、2頭立ての馬車に乗り込みました。同行していたのは馬丁の芳松と馭者の中村太郎でした。赤坂仮御所での会議に向かう途中、紀尾井町清水谷に差しかかると、潜んでいた6人に襲撃されました。

芳松は背中を斬られながらも逃走しましたが、中村太郎は馬車から飛び降りたところで命を奪われました。大久保は無残にもメッタ刺しにされ、額に約15cmの深い切り傷、頭部右側面には約18cmの切り傷を負い、頭蓋骨が切断されました。さらに、後頭部にも18cmの切り傷が2カ所、頸部に約6cmの刺し傷、右肩には約20cmの刺し傷がありました。鼻の右側や下顎の左側にも斬りつけられ、全身で16カ所もの傷を負いました。

犯人は石川県の士族、島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一、浅井寿篤の6人でした。彼らは暗殺直後に動機を記した「斬奸状」を持って仮御所へ自首しました。

斬奸状には以下の動機が記されていました:

  1. 国会も憲法も開設せず、民の権利を抑圧している
  2. 法令の朝令暮改が多く、官吏の登用にはコネが使われている
  3. 土木事業や建築で国費を無駄遣いしている
  4. 国を憂いている志士を排して、内乱を起こしている
  5. 外国との不平等条約改正をせずにいる

しかし、これらの動機は的外れなものも多く、実際には「腹いせ」とも言われています。主犯の島田一郎は「第一次長州征伐」や「戊辰戦争」に参戦し、明治維新後は軍人として務めていました。島田は「征韓論」に賛成し、「明治六年の政変」で西郷隆盛が政府を辞めたことに激怒していました。他のメンバーも同様に征韓論に賛成しており、朝鮮と戦争をしない政府に不満を持っていました。

彼らの不満が爆発し、大久保利通の暗殺という凶行に走ったのです。断行社という組織名を掲げていましたが、実際には自分たちの「活躍の場」を奪われたことへの「腹いせ」であり、手っ取り早く「歴史に名を残そう」とした身勝手な行動でした。不平士族たちは大久保を待ち伏せし、襲撃。日本刀で馬の足を切断し、御者を殺害し、大久保を引きずり降ろして斬りつけるという残忍な犯行に及びました。

大久保利通の性格

(画像引用: 近代日本人の肖像)

大久保利通は、動乱と激動の時代に臨機応変に対応できる頭脳を持ち、目的のためには強硬な手段をも辞さない強固な意志を持った人物でした。維新三傑と評価されるのは、その実績と強烈なカリスマ性、リーダーシップが際立っていたからです。大久保のような人物を得たことで、日本は明治維新を成功させ、西洋列強の植民地化を免れたのでしょう。

幼少期から自分の頭脳で勝負すると考えていた大久保は、薩摩藩の苛烈な藩士教育の中で体が弱いと評されていたこともあり、早くから頭脳を磨く決断をしました。その結果、彼は冷静沈着で思慮深く、洞察力の高い性格となりました。

江戸幕府の討幕活動の中でも、大久保は目的達成のために必要とあれば強硬手段を取る揺るぎない意志を示しました。この意志の強さと頭脳の回転の速さは、敵対者から見れば非常に冷酷で怜悧な性格と映ることもありました。しかし、それは彼の本質が冷酷であることを意味しているわけではありません。幕末の動乱の中で、ただ人が良いだけの人間がリーダーシップを発揮することは不可能だったのです。大久保の強固な意志と頭脳は、その時代の日本を導くために不可欠なものでした。

大久保利通のエピソード

それでは最後に大久保利通のエピソードを見ていきましょう。大久保利通も様々なエピソードがあるので必見です!

唯一の趣味は囲碁で、以後を使って薩摩藩藩主に近づいた!?

大久保利通の唯一の趣味と言われていたのが囲碁です。次男の牧野伸顕は、父が「退屈したり、頭を使い過ぎたりした時に碁を囲んでいた」と語っており、当時愛用していた碁盤と碁石は国の重要文化財に指定されています。

しかし、囲碁は大久保が単なる趣味として楽しんでいただけではありませんでした。若い頃、大久保はこの趣味を藩主に近づくための手段としても利用していました。当時、薩摩藩主であった島津斉彬は、名君として知られ、殖産興業や洋学研究に力を入れていました。大久保は謹慎が解けた後、斉彬の事業を手伝いながら「開国派」として目覚めていきましたが、まだ藩政の中枢には入っていませんでした。

斉彬の急死後、弟の久光が藩のトップに就きました。大久保は久光に近づくため、囲碁を利用することを考えました。囲碁好きの久光が吉祥院というお寺の住職のところで碁を打っていることを知った大久保は、この住職に囲碁を教えてもらうよう頼みました。さらに、久光が読みたがっていた国学者・平田篤胤の『古史伝』を友人から借りて住職に渡しました。

この努力が実を結び、「面白い男がいる」として久光に紹介されることになります。こうして大久保は久光に認められ、勘定方小頭格という大出世を果たしました。これを機に、久光を説得しながら薩摩藩の改革を進めることができるようになったのです。

大久保利通の活躍は、囲碁を通じて得た信頼関係から始まったと言えるでしょう。西郷隆盛なら決して取らないであろう手段を使ってでも、目的を達成する大久保の柔軟さと決断力がここに表れています。

大久保利通と殖産興業施策

(画像引用: 絹のヒロイン)

岩倉使節団の帰国後、大久保利通が内務卿を務める内務省の指揮のもと、殖産興業が推し進められました。当時、日本は列強諸国に匹敵する独立国家としての地盤を固めるため、国家基盤の整備を急いでいました。この時期のスローガン「富国強兵」は、経済力を発展させて軍事力を増強する政策を意味し、その達成のためには殖産興業が不可欠でした。大久保は西洋の先進技術を積極的に導入し、経済発展を目指しました。

大久保利通の殖産興業施策では、資本を必要とする事業は官業として開始し、その後民間に払い下げる方針が取られました。特に造船、鉱山、港湾、鉄道、製糸、紡績などの分野へ優先的に投資が行われました。また、輸出産業の基幹となる生糸や茶の生産も積極的に推進されました。

殖産興業の代表的な事例として、富岡製糸場、八幡製鉄所(福岡県北九州市)、札幌農学校(北海道札幌市)などが挙げられます。これらの産業は、現在の日本の産業基盤の礎となり、その発展に大きく寄与しました。大久保利通のリーダーシップと先見の明は、日本の近代化と経済発展において重要な役割を果たしました。

大久保利通は禿を気にしていた!?

(画像引用: 中高生のための幕末・明治の日本の歴史辞典)

大久保利通は、その頭頂部に大きなハゲがあり、これを非常に気にしていました。常に髪で隠すよう心がけており、早朝に客人が自宅を訪れても、髪をきちんとセットするまでは応接しなかったと言われています。この慎重さは、大久保が常に完璧な姿を保ちたいという強い意識の表れでもあります。

大久保利通は自分の死を予知していて前島密に打ち明けていた?

(画像引用: 事業構想)

大久保利通の暗殺現場には、側近の前島密が急報を受けて駆けつけました。凄惨な光景に茫然自失しながらも、何とか平静を取り戻して大久保の遺体を検分したと言われています。前島はそのむごたらしい遺体の状況をこう語っています。

「肉が飛び、骨は砕け、頭蓋骨が裂けて、脳がまだ微動しているのを見た。何たることだろうか」

そのとき、前島は大久保が見たという不吉な夢を思い出していました。大久保は凶行のわずか数日前に、西郷と格闘して崖から落下し、頭蓋骨が割れて自分の脳が微動するのを見た夢を前島に語っていたのです。その夢が現実となったことに前島は驚愕しました。

さらに奇妙なことがありました。暗殺された当日の早朝6時、福島県令の山吉盛典が大久保を訪ねていました。大久保は全国の府県令に対して大規模な公共事業を奨励しており、山吉も福島県の安積での大事業について決意を表明しに来たのです。大久保は熱く激励し、開墾の必要性を力説しました。

「海外諸国の状況を見てきたが、わが国ほど肥沃な土地は他にない」

続いて大久保が語ったのは「明治維新30年構想」でした。普段は寡黙な大久保がこの日に限って多弁であったことが、まるで自分の死を予見していたかのようでした。その数時間後に大久保はこの世を去り、彼が語った日本の未来のビジョンが実質的な遺言となってしまいました。

ヘビースモーカーであった!?

大久保利通は、ヘビースモーカーとしても知られており、日本で初めて栽培された指宿煙草を愛用していました。そのヘビースモーカーぶりは、子ども達が朝と晩にパイプの掃除をしなければ、すぐに目詰まりを起こしてしまうほどだったと言われています。指宿煙草は大正4年から終戦までの期間、皇室の御料用として指定されていた良品であり、大久保の愛煙家としての一面を物語っています。彼はこの高品質な煙草を楽しみながら、激務をこなしていたのです。

大久保利通と西郷隆盛は幼馴染も最後は仲違い!?

(画像引用: Japaaan magazine)

人生を賭して幾度も渡り合った大久保利通と西郷隆盛には、多くの逸話が残されています。幼少期、二人は鹿児島県鹿児島市加治屋町の藩校「造士館」でともに学んだ同志でした。その後、薩摩藩の藩政改革派「精忠組」として共闘し、薩摩藩の改革に尽力しました。

しかし、1873年に岩倉使節団の外遊から帰国した大久保は、征韓論を巡って西郷と対立します。征韓論賛成派の西郷を失脚させたことで、大久保は政権を握ることになりました。

さらに、1877年の西南戦争では、明治政府軍を指揮する大久保と反乱軍を率いる西郷が再び対立。戦争に敗れた西郷が自害したことを聞いた大久保は、大変嘆き悲しんだと言われています。

その後、西郷というリーダーを失った士族たちの不満は一層高まり、1878年に大久保は暗殺されます。この時、大久保が乗っていた馬車の中で、彼は亡き西郷の生前の手紙を読んでいたと言われています。幼馴染であり同志であった二人の絆は、最後には悲しい形で幕を閉じました。

実は日本産の紅茶栽培を提案した

日本の主な輸出品はお茶と生糸でしたが、海外では緑茶よりも紅茶の需要が高まりつつありました。この状況を見た大久保利通は、新しい輸出品として紅茶に着目しました。彼は日本産の紅茶を栽培しようと考え、栽培方法と製造過程を詳細に記した『紅茶製法書』を作成しました。当時は中国の製法を模倣したものでしたが、最初に出来上がった紅茶は品質が低く、紅茶とは言い難いものでした。しかし、大久保の試みは日本の紅茶産業の礎を築く第一歩となりました。

大久保利通はビスマルクのスタイルを真似て写真を撮って西郷隆盛へ送って自慢した?

(画像引用: 歴史上の人物.com)

大久保利通の有名な写真は、洋服を着て立派なヒゲをたくわえた明治期のもので、これは明治政府が手本としたドイツの首相ビスマルクをマネたスタイルと言われています。欧米視察中、利通は現地で撮った自分の写真を西郷隆盛に送りました。利通としては「西洋人に負けていないだろう?」という自慢のつもりだったのでしょう。しかし、それを見た西郷の返事は氷のように冷たいものでした。「みっともなさの極みです。もう写真はおやめください。まことにお気の毒千万でございます」というものでした。

実は西郷は大の写真嫌いであり、西洋人のマネをして浮かれている親友を情けなく思ったのでしょう。このエピソードは、二人の関係とそれぞれの考え方の違いをよく表しています。

子煩悩だった!?

大久保利通は、寡黙で他を寄せ付けない威厳をもって仕事に臨む一方、家庭では子煩悩な優しい父親であったと言われています。仕事が多忙を極めている時でも、出勤前の10分程度の時間を娘をあやすことに充てていました。普段は家族とゆっくりと夕食を取ることも難しかった大久保ですが、土曜日には妹も招き、家族との夕食を楽しんでいました。このように、公の場では厳格なリーダーでありながら、家庭では愛情深い父親としての一面を持っていたのです。

大久保利通は西郷隆盛と心中しようとしたことがある?

(画像引用: 毎日新聞)

まだ二人が仲違いする前の出来事です。1862年、島津久光は尊王攘夷派を抑え込むために上洛する計画を立てました。その際、西郷隆盛は「下関で待て」という命を受けていましたが、尊王攘夷派の志士たちが久光の上洛計画を討幕と誤解し、武力蜂起を計画していることを知ってしまいます。西郷は居ても立っても居られず、久光の命を無視して武力蜂起を抑えるために大坂へ向かいました。この行動に久光は大激怒しました。

西郷を心配した大久保利通は、事実を久光に報告しましたが、久光はこれを受け入れませんでした。西郷はなおも久光に意見をしに行くつもりでしたが、大久保は二人の前途を悲観し、西郷を浜辺に呼び出し、刺し違えて死のうと提案します。しかし、西郷はこれを拒否し、罪人として生きることを誓いました。

その結果、西郷は徳之島への流刑を受けることになりました。実は、これは大久保が一芝居打っただけで、本当に死ぬつもりはなく、西郷に罰を受け入れさせるための策略だったようです。

大久保利通は借金1億円!?

大久保利通の暗殺理由の一つとして「国の金を無駄遣いしている」という糾弾がありました。しかし、死後の調査で大久保利通の銀行口座にはほとんど預金がなく、逆に現在の価値で1億円以上の債務を負っていたことが判明しました。

実は、大久保は改革を進める中で、必要な資金が足りない場合に自分の資金を使って賄っていたのです。そのため、大久保の死後も彼の債権を取り立てる者は現れませんでした。これは、大久保利通が私利私欲のために国のお金を無駄使いすることなく、新しい日本のために尽くしていたのです。

まとめ

いかがでしたでしょうか?大久保利通は、日本の近代化における重要な役割を果たした偉大なリーダーでした。彼の強固な意志と卓越したリーダーシップは、動乱の幕末から明治の新時代へと日本を導きました。維新三傑としての功績だけでなく、家庭では子煩悩な父親としての一面も持ち合わせていた彼の人間味あふれる姿は、多くの人々に感動を与えます。ビスマルクを模範とした立派な姿勢や、西郷隆盛との複雑な友情、そして最後まで国のために尽くした彼の人生は、現代に生きる私たちにとっても多くの教訓を残しています。大久保利通の軌跡をたどることで、彼が成し遂げた偉業と、その裏に秘められた人間性に改めて敬意を抱かざるを得ません。

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