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日本に稲作が導入され始め地域ごとの格差が開き始めました。そうして力を持った集落が他の集落を合併していきました。そのようなことが続くうちに日本で初めて統一政権が誕生し、そのリーダーを祀る古墳と呼ばれるものが建設され始めました。このように古墳が多数建設されるようになった時代を古墳時代と呼びます。日本で初めて統一政権が誕生した古墳時代を見ていきましょう。

古墳とは?

古墳は、日本の古墳時代(3世紀後半から7世紀まで)に築造された巨大な墳墓のことを指します。これらは、社会の支配層や権力者を葬るために作られたもので、その形状、規模、築造方法は時代や地域によって異なります。古墳の起源は、先行する古代墳丘墓文化に遡ることができ、これらの墳墓は次第に大規模化し、より複雑な構造を持つようになりました。

古墳は大きく分けて、円墳(まるぼり)、方墳(かたぼり)、そして最も特徴的な前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)に分類されます。円墳はその名の通り円形をしており、方墳は四角形、前方後円墳は前方部が広がった形状をしており、後円部に埋葬施設が置かれるのが一般的です。前方後円墳は古墳時代中期以降に多く見られ、古墳の大きさは権力の大きさを象徴していると考えられています。人々を統治していた豪族たちがその権力の強さを示すために古墳の大きさを競うようになり、巨大化していったと考えられています。
(画像引用: OSAKAINFO)

有名な古墳

古墳は日本全国に分布していますが、特に関西地方に大型の古墳が集中しています。全国には約20万基とも言われる古墳が存在し、その中でも特に大きなものは「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」に代表されるように、古墳時代の政治的中心地であった地域に近い現在でいう大阪府堺市に位置しています。この百舌鳥・古市古墳群にある古墳は当時、日本を初めて統一したヤマト政権のリーダー「大王(おおきみ)」の古墳です。またそれ以外の地域にある古墳はヤマト政権に仕えていた地方の豪族の古墳です。今回はそんな数多くの古墳の中でも特に有名な古墳として百舌鳥・古市古墳群にある大仙古墳と埼玉県にある稲荷山古墳です。

大仙古墳

大仙古墳(おおぜんこふん)、または大山古墳(だいせんこふん)とも呼ばれるこの古墳は、日本国内で最大規模を誇る前方後円墳であり、古墳時代の末期、5世紀後半に築造されたとされます。この古墳は、大阪府堺市に位置し、仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)として広く知られていますが、実際に仁徳天皇が埋葬されているかについては明確な証拠はありません。

全長は約486メートルとされ、日本の古墳の中で最大の規模を誇ります。後円部は 直径約249メートル、高さ約35メートル、前方部は幅約307メートル、高さ約33メートルととんでもない大きさです。また古墳の周囲は3重の堀に囲まれており、その壮大さは当時の技術力と権力の象徴と言えます。
(画像引用: ダイヤモンドオンライン)

稲荷山古墳

稲荷山古墳は、埼玉県行田市に位置し、古墳時代前期(4世紀中頃)に築造された全長約120メートルの前方後円墳です。この古墳は、古墳時代の政治権力や社会構造、文化的背景を理解する上で重要な遺跡の一つとされています。全長は約120メートルで、埼玉県内の古墳の中では大型の部類に入ります。円墳部分には主体部とされる石室があり、石室からは重要な出土品が発見されています。

稲荷山古墳の最も注目すべき発見は、石室内から出土した鉄製品です。特に有名なのが、「金錯銘鉄剣(きんさつめいてっけん)」で、この剣には古代日本の豪族に関する重要な銘文が刻まれており、日本古代史における貴重な歴史資料とされています。この銘文からは、当時の社会構造や豪族間の関係、政治的な動向などが読み取れるため、古代史研究において非常に重要な意味を持っています。
(画像引用: 古墳マップ)

埋葬文化と埴輪

古墳時代ではこのようにヤマト政権の大王や豪族を祀る古墳が建設されていったことから埋葬文化が一気に浸透していった時代でもあります。古墳時代の途中までは古墳の中の埋葬室として竪穴式石室が、中期以降では横穴式石室が多くなりました。前者は個人のためのものであり、後者は家族用で追葬が可能でした。横穴式石室は『古事記』に記されたイザナギノミコトとイザナミノミコトの神話にも見られるように、この世とあの世をつなぐ構造を持っています。副葬品は時期によって異なり、前期には宗教的な品が、中期には武器や馬具など実用的な品が増えていきました。

また古墳時代の埋葬品を語るうえで埴輪(はにわ)は欠かせません。埴輪とは古墳時代に日本で製作された粘土製の遺物であり、主に古墳の周囲や墳丘の上に配されました。これらは当初、円筒形の単純な形状から始まり、やがて人形や家、武器、動物など、多様な形態を持つようになりました。埴輪は、古代日本の宗教観や死後の世界に対する考え方、また社会や文化の様子を伝える貴重な手がかりとなっています。

埴輪は大きく分けて、無彩色の円筒形埴輪と、人や動物、家屋などを模した形象埴輪に分類されます。円筒形埴輪は古墳の周りに列をなして配置され、境界を示す役割を果たしたと考えられています。一方、形象埴輪は古墳時代中期以降に登場し、被葬者の社会的地位や職業、日常生活や信仰などを反映しているとされます。
(画像引用: ライフハックアナライザー)

ヤマト政権による国家統一

このように古墳がたくさん作られるようになったのもそもそもヤマト政権が日本を初めて統一し、その権力を民衆へ見せつけるためです。それではヤマト政権とはどのような政権だったのか見ていきましょう。

弥生時代に中国の後漢や魏と交流するなど栄華を極めた邪馬台国が卑弥呼の死とともに衰退し、その後吉備や出雲、畿内の国々などが勢力を強めていき結果としてヤマト政権と呼ばれる畿内の国が最大勢力への仕上がり日本を統治することになりました。そしてこのヤマト政権のリーダーを大王(おうきみ)と呼ぶようになり、それを支える畿内の重役たち、そしてヤマト政権を支える地方の豪族たちという構図が明確に構築されたのです。

とはいえヤマト王権の誕生に関する詳細は「空白の4世紀」と呼ばれる時期に属し、信憑性ある記録は5世紀以降のものとされています。この時期に関する主な情報源は、「古事記」と「日本書紀」であり、後者にはヤマト王権を強化した10代天皇である崇神天皇の治世に関する記述が含まれています。崇神天皇の時代には日本初の戸口調査が行われ、賦役が課され、灌漑用池の増築や船舶の建造、四道将軍の派遣などによって外交と勢力拡大が図られました。このような政策により、ヤマト王権は地方王権から抜きん出て中央集権的な政権へと発展し、その権威を示すために巨大な古墳が築かれるようになりました。

ヤマト王権は、弥生時代からの祭祀文化を宮廷儀式として取り入れ、神に対する畏敬の念を政治に反映させることで人々の統治を行っていました。古墳時代前期には、神の意志として正しい信仰を広める名目として他国への侵攻を正当化していました。しかし古墳時代後期には豪族の権力が増してきたことで、ヤマト王権は神霊に依存するだけでなく、制度的な統治へと移行しました。この過程で、大臣や大連といった国政の要職に就く者や、地方を治める国造、技能集団の伴造を設置し、氏姓制度を確立しました。氏姓制度とは身分階級の秩序を保ち反乱などを抑え統治しやすくすることが目的にありました。このように状況によって方針を上手に変えていきながらヤマト政権は統治を続けていったのです。

朝鮮との外交と渡来人が日本へもたらしたもの

古墳時代の日本は、特に百済と親密な関係にあり、朝鮮半島の諸国とも積極的に外交を行っていました。朝鮮半島では南下を狙っていた高句麗が新羅と手を組みが百済と勢力を争っていました。そんな高句麗と新羅の連携に対抗するため、倭国は百済と同盟し、技術や文化の交流を深めていました。この交流を通じて、須恵器の製法、漢字や仏教、騎馬文化、鉄器や製鉄技術などが倭国にもたらされました。

倭国は朝鮮半島での戦争にも関与し、百済や新羅と連携して高句麗に対抗していましたが、次第に劣勢となり、宋と良好な関係を築き、高句麗への圧力を求めました。とはいえ古墳時代には中国との直接的な交易は少なく、飛鳥時代に遣隋使が派遣されるまで、本格的な交流は限られていたとされます。
(画像引用: 趣味悠遊・古代を訪ねて)

古墳時代の終焉

古墳時代の終焉は、7世紀中盤以降の政治的、文化的変化によってもたらされました。聖徳太子が摂政として活躍した時代には、仏教の導入と普及に力が注がれ、これまでの古墳に代わって、飛鳥寺や法隆寺などの仏教建築が新たな宗教的中心となりました。この変化は、社会の価値観や精神性の転換を示しています。

710年には、元明天皇が平城京を建設し、都を移転しました。この都の建設は、唐の影響を受けたものであり、日本の都市計画や国家運営における新たな時代の始まりを告げています。この頃までには、古墳の建造もほぼ終了し、貴族社会における地位や権力の象徴としての役割は終わりを迎えました。

さらに、701年に制定された大宝律令により、律令国家が確立され、法律に基づいた身分制度や中央集権的な政治機構が整備されました。これにより、古墳時代に特徴的だった地方豪族の力は低下し、中央政府による統制が強化されました。

こうした一連の変化は、古墳時代から奈良時代への移行期において、社会構造、政治体制、宗教観の大きな変貌を伴い、古墳時代の終焉と日本史における新たな章の始まりを象徴しています。
(画像引用: なら旅ネット)