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飛鳥時代といえばだれもが知っている聖徳太子が活躍した時代です。「一度に10人の話を同時に聞き分ける」など様々な伝説を持っている聖徳太子ですが、実際はどんなことをした人物なのでしょうか。またこの時代にはいくつかの政治的争いも経て、法律を作って日本を統治していこうという律令国家へ本格的に歩み始めた時代でもあります。そんな飛鳥時代に起きた出来事を見ていきましょう。

飛鳥時代の始まり

飛鳥時代の始まりは、6世紀後半から7世紀にかけてです。この時期には、豪族である蘇我氏が権力を持ち始めていきました。蘇我氏は渡来人の影響を受け、仏教を積極的に導入しました。これにより、仏教に消極的だった物部氏との間で権力争いが発生し、最終的には蘇我馬子によって物部氏が滅ぼされます。これにより、蘇我氏は政治的に強大な力を持つようになります。

しかしながら、蘇我氏の勢力拡大に伴い、その横暴さが目立ち始めたことから、新たな政治的秩序が求められるようになります。このような状況の中で、聖徳太子が重要な役割を果たします。聖徳太子は推古天皇の摂政として登場し、中央集権国家の構築に着手します。彼は、中国の政治思想に深く影響を受け、仏教と儒教の理念を取り入れた政策を推進しました。これにより、聖徳太子は日本史上初の実質的な統治者として、国家の中心人物となります。

聖徳太子の政策とリーダーシップは、日本の政治体制を大きく変革し、飛鳥時代の基盤を築きました。彼の時代には、憲法十七条の制定、遣隋使の派遣、そして飛鳥文化の花開きなど、日本の歴史における重要な出来事が数多く起こります。これらの出来事は、飛鳥時代の特徴を形作り、後の奈良時代や平安時代に続く日本の古代文化と政治体制の基礎を築いたと言えるでしょう。

聖徳太子の活躍

聖徳太子は子供の時からその才能から神童と呼ばれていて、その才能を活かして政治を整えることに成功しました。聖徳太子が実施したいくつかの政策を紹介していきます。
(画像引用: 東洋経済)

冠位十二階の制定

冠位十二階は、聖徳太子によって603年に創設された日本初の官位制度です。この制度は、個人の実力や功績に基づき役人を選ぶことを目的としており、天皇を中心とした中央集権国家の構築に寄与しました。従来の氏姓制度に代わるもので、家系や名前ではなく、個人の能力を重視しています。冠位十二階は、冠の色によって地位を12段階に区分し、この制度により社会の平等性と人材の適正な評価が図られました。この制度の導入は、聖徳太子の先進的な政治理念を反映しており、日本の政治体制に大きな変革をもたらしました。

十七条の憲法

十七条の憲法は、聖徳太子によって604年に制定された、日本最初の道徳的及び政治的指針です。これは現代の憲法とは異なり、天皇の周りで働く朝廷の役人たちに向けた行動規範や心構えを定めたもので、絶対的な法律というよりは、倫理的な指針に近い性質を持っています。

十七条の中には、「和をもって貴しとなす」という精神が含まれており、役人たちにお互いを尊重し、平和を保つよう促しています。また、仏教の教えを重んじ、天皇の命令に絶対的に従うことが強調されています。この憲法の制定は、朝廷内での秩序の確立と、統治の基盤を固めることを目的としていました。また十七条の憲法の制定は、日本における「大王」から「天皇」という呼称への移行期にあたり、政治体制の変化を象徴する出来事でもあります。これにより、聖徳太子の政治哲学と、中央集権体制の強化への意志が表れています。

遣隋使の派遣

聖徳太子は607年、対等外交を目指して、小野妹子を遣隋使として中国の隋へ送りました。この行動は、中華思想を持つ隋に対して、日本が対等な立場で外交を行う姿勢を示すものでした。聖徳太子は小野妹子に、「日出づるところの天子、書を日没するところの天子にいたす」という内容の手紙を持たせ、日本が上位にあるかのような強い言葉で隋の皇帝にアプローチしました。隋の煬帝は当初無礼だと感じましたが、当時の政治情勢を考慮し、最終的には日本との関係を穏便に保つことを選びました。この遣隋使は、聖徳太子の対等外交の成功例として記され、日本の国際的地位の確立に寄与した重要な出来事です。

飛鳥文化と法隆寺

飛鳥文化は、6世紀後半から7世紀にかけての飛鳥時代に日本で花開いた国際色豊かな文化です。この時期には、仏教が中国経由で日本に伝来し、それと同時にインド、ギリシア、ペルシアなどの様々な外国の文化が日本にもたらされました。これらの文化の融合により、日本独自の芸術や建築様式が生まれ、飛鳥文化の基盤が形成されました。飛鳥文化の特徴は、仏教を中心とした宗教的な要素と、異文化の技術や芸術様式が融合した点にあります。この時期の仏教美術には、仏像や壁画などが含まれ、それらはしばしばインドや中央アジアの影響を受けたスタイルを反映しています。また、建築では、中国の影響を受けた寺院建築が多く見られ、木造建築の技術が高度に発展しました。

飛鳥文化を代表する建築物の一つが法隆寺です。法隆寺は、世界最古の木造建築物群として知られ、607年に聖徳太子の意志により建立されました。法隆寺は、仏教伝来とともに日本に導入された建築技術や芸術的要素を色濃く反映しており、特に金堂や五重塔は飛鳥文化の精華を今に伝える貴重な存在です。金堂に安置されている釈迦三尊像は、飛鳥時代の仏教美術の傑作とされ、仏教の深い精神性とともに、当時の技術や芸術水準の高さを示しています。

飛鳥文化は、日本が初めて大規模に外国の文化を取り入れ、それを独自の形で発展させた時期を象徴しています。法隆寺はその最も顕著な例の一つであり、日本の歴史や文化における重要な遺産として、今日でも多くの人々に親しまれ、学ばれています。
(画像引用: MYSTAYS)

大化の改新

見事な政治手腕を見せていた聖徳太子ですが、622年に病で死去してしまいました。するとそれまで聖徳太子によって抑えられていた蘇我氏一族が再び勢力を増やしていきました。蘇我氏の中でも権力を握っていたのは蘇我入鹿(そがのいるか)と蘇我蝦夷(そがのえみし)です。この二人は蘇我氏一族が聖徳太子に抑えられていたことを恨んでいたのか聖徳太子の子供である山背大兄王(やましろのおおえのおう)一族を全員殺してしまうくらい、朝廷でも手を付けられない存在になってしまいました。そんな状態をなんとか変えたいと思っていたのが中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。

中大兄皇子と中臣鎌足は、蹴鞠をしながら蘇我氏を政界から排除する計画について密談を重ねました。そして中大兄皇子と中臣鎌足は天皇からの儀式開催の偽の命令を利用して、蘇我入鹿を無防備な状態でおびき出し、中大兄皇子自らが蘇我入鹿を暗殺し、追い詰められた蘇我蝦夷を自害させることに成功しました。この出来事を大化の改新といいます。

大化の改新は豪族であった蘇我氏の力が終焉を迎え、政治体制が大きく変化する契機となりました。その後、中大兄皇子と中臣鎌足は一連の政治・社会・経済改革を実施し、日本は古墳時代からの豪族中心の政治体制から、天皇を中心とした中央集権的な体制へと移行する重要な一歩を踏み出したのです。

大化の改新後の政策

大化の改新後、中大兄皇子を中心とした新政権は、日本史上初の年号「大化」を制定し、飛鳥から難波(現在の大阪)へ都を移しました。この改新は、中央集権的な国家体制の確立を目指し、以下の主要な政策を実施しました。

  1. 公地公民制:土地と人民は国家のものであり、個々の豪族の私有ではないという原則を打ち出しました。これにより、天皇を中心とした国家の権威が強化されました。
  2. 班田収授法:戸籍に基づいて、成年男性に口分田として土地を割り当てる制度を導入しました。この土地は一定期間ごとに再分配され、収穫の一部を国への税として納めることが義務付けられました。
  3. 租庸調制:税制の改革として、収穫物の一定割合を租税として納めること、布や特産物を庸として、さらに絹や糸などの物品を調として納める制度を確立しました。これらの制度は、中国の律令制に触発されたものでした。
  4. 国郡里制:日本を国、郡、里に分け、それぞれにリーダーを置く行政区分を導入しました。この制度により、中央集権体制を支える地方行政の基盤が整えられました。

これらの政策は、日本における中央集権的な国家体制の確立と、統治機構の近代化を大きく進めるものでした。大化の改新は、日本の政治、社会、経済における大きな転換点となり、その後の日本の発展に深い影響を与えました。

白村江の戦い

国内での改革だけではなく、外交でも大きな変化を経験したのが飛鳥時代です。当時、中国を収めていた唐が力をつけ、新羅を従えて日本と密接な関係にあった百済を武力侵攻しました。日本は百済を救うために斉明天皇が外征を決断し、朝鮮半島に軍を派遣しました。こうして日本の歴史上初となる外国との戦争である白村江の戦いが始まったのです。

白村江の戦いでは中大兄皇子が日本軍を率いましたが、唐・新羅連合軍の戦略と自然条件の不利さにより、日本軍は大敗を喫しました。この敗北で唐の勢力に恐れを感じた中大兄皇子は戦後日本へ帰り、天智天皇として天皇の座へ着き、国を守る様々な施策に着手し始めました。

天智天皇は、唐の潜在的な侵攻に備えて、全国規模の戸籍「庚午年籍」を作成し、九州沿岸に水城を築いて兵士を配置するなどの防衛策を講じました。また、自然の要塞である近江・大津宮に遷都し、国の防衛体制を強化しました。

最終的に、唐と新羅の関係が悪化し、彼らが互いに戦争を始めたため、日本への侵攻は実現しませんでしたが白村江の戦いでの敗北は、日本の国防意識を高め様々な施策が実施されることに繋がっていったのです。
(画像引用: Japaaan magazine)

壬申の乱

大化の改新や様々な国防施策を実施してきた天智天皇ですが、その次の天皇は誰がつくのか後継者争いが勃発しました。天智天皇は息子の大友皇子に皇位を継がせたいと考えていましたが、伝統的な継承ルールによれば、弟の大海人皇子が正当な後継者でした。この状況から、大海人皇子は自らの安全を守るため、皇位継承を辞退し、目立たないように奈良の吉野に隠棲しました。

天智天皇の死に伴い、大海人皇子を排除しようとする動きが朝廷内で強まりましたが、大海人皇子は事態を打開するため、各地の豪族を味方につけて挙兵し、壬申の乱と呼ばれる争いが勃発しました。この内乱は、大海人皇子の圧倒的な勝利に終わり、大友皇子は自害に追い込まれました。

こうして大海人皇子は天武天皇として即位し、皇親政治を確立することで、中央集権的な政治構造を強化しました。この乱を通じて、天武天皇に対抗できる大きな豪族勢力が排除され、地方の豪族も天皇の権威に服従することとなりました。

大宝律令

天武天皇は大化の改新で施行された施策に沿って政治を進めていきました。特に民衆や土地を収める方法として唐の支配体制と律令制を持ち込み、日本で導入していきました。天武天皇が亡くなると、妻であった持統天皇(じとうてんのう)が天皇に即位し、夫である天武天皇のときから計画していた日本で初めての本格的な都である藤原京を現在でいう奈良県橿原市と明日香村にかかる地域に遷都しました。この藤原京は東西南北に張り巡らされた道路が碁盤目状に街を区切る形式をとっており、唐の都である長安の街の造りを真似ていました。

そして701年に天武天皇の子である刑部親王の主導のもと、日本における初の包括的な国家法典である大宝律令が制定されました。この大宝律令の制定は日本が律令国家となったことを告げる重要な出来事でした。律令制度は、律(刑罰の規定)と令(行政の規則)によって構成され、国の法と行政の体系を整えることを目的としていました。