飛鳥時代といえばだれもが知っている聖徳太子が活躍した時代です。「一度に10人の話を同時に聞き分ける」など様々な伝説を持っている聖徳太子ですが、実際はどんなことをした人物なのでしょうか。またこの時代にはいくつかの政治的争いも経て、法律を作って日本を統治していこうという律令国家へ本格的に歩み始めた時代でもあります。そんな飛鳥時代に起きた出来事を見ていきましょう。
飛鳥時代の始まり
飛鳥文化と法隆寺
大化の改新
見事な政治手腕を見せていた聖徳太子ですが、622年に病で死去してしまいました。するとそれまで聖徳太子によって抑えられていた蘇我氏一族が再び勢力を増やしていきました。蘇我氏の中でも権力を握っていたのは蘇我入鹿(そがのいるか)と蘇我蝦夷(そがのえみし)です。この二人は蘇我氏一族が聖徳太子に抑えられていたことを恨んでいたのか聖徳太子の子供である山背大兄王(やましろのおおえのおう)一族を全員殺してしまうくらい、朝廷でも手を付けられない存在になってしまいました。そんな状態をなんとか変えたいと思っていたのが中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。
大化の改新後の政策
白村江の戦い
国内での改革だけではなく、外交でも大きな変化を経験したのが飛鳥時代です。当時、中国を収めていた唐が力をつけ、新羅を従えて日本と密接な関係にあった百済を武力侵攻しました。日本は百済を救うために斉明天皇が外征を決断し、朝鮮半島に軍を派遣しました。こうして日本の歴史上初となる外国との戦争である白村江の戦いが始まったのです。
白村江の戦いでは中大兄皇子が日本軍を率いましたが、唐・新羅連合軍の戦略と自然条件の不利さにより、日本軍は大敗を喫しました。この敗北で唐の勢力に恐れを感じた中大兄皇子は戦後日本へ帰り、天智天皇として天皇の座へ着き、国を守る様々な施策に着手し始めました。
天智天皇は、唐の潜在的な侵攻に備えて、全国規模の戸籍「庚午年籍」を作成し、九州沿岸に水城を築いて兵士を配置するなどの防衛策を講じました。また、自然の要塞である近江・大津宮に遷都し、国の防衛体制を強化しました。
最終的に、唐と新羅の関係が悪化し、彼らが互いに戦争を始めたため、日本への侵攻は実現しませんでしたが白村江の戦いでの敗北は、日本の国防意識を高め様々な施策が実施されることに繋がっていったのです。
(画像引用: Japaaan magazine)
壬申の乱
大化の改新や様々な国防施策を実施してきた天智天皇ですが、その次の天皇は誰がつくのか後継者争いが勃発しました。天智天皇は息子の大友皇子に皇位を継がせたいと考えていましたが、伝統的な継承ルールによれば、弟の大海人皇子が正当な後継者でした。この状況から、大海人皇子は自らの安全を守るため、皇位継承を辞退し、目立たないように奈良の吉野に隠棲しました。
天智天皇の死に伴い、大海人皇子を排除しようとする動きが朝廷内で強まりましたが、大海人皇子は事態を打開するため、各地の豪族を味方につけて挙兵し、壬申の乱と呼ばれる争いが勃発しました。この内乱は、大海人皇子の圧倒的な勝利に終わり、大友皇子は自害に追い込まれました。
こうして大海人皇子は天武天皇として即位し、皇親政治を確立することで、中央集権的な政治構造を強化しました。この乱を通じて、天武天皇に対抗できる大きな豪族勢力が排除され、地方の豪族も天皇の権威に服従することとなりました。
大宝律令
天武天皇は大化の改新で施行された施策に沿って政治を進めていきました。特に民衆や土地を収める方法として唐の支配体制と律令制を持ち込み、日本で導入していきました。天武天皇が亡くなると、妻であった持統天皇(じとうてんのう)が天皇に即位し、夫である天武天皇のときから計画していた日本で初めての本格的な都である藤原京を現在でいう奈良県橿原市と明日香村にかかる地域に遷都しました。この藤原京は東西南北に張り巡らされた道路が碁盤目状に街を区切る形式をとっており、唐の都である長安の街の造りを真似ていました。
そして701年に天武天皇の子である刑部親王の主導のもと、日本における初の包括的な国家法典である大宝律令が制定されました。この大宝律令の制定は日本が律令国家となったことを告げる重要な出来事でした。律令制度は、律(刑罰の規定)と令(行政の規則)によって構成され、国の法と行政の体系を整えることを目的としていました。