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皆さん、出雲大社へ訪れたことはありますか?出雲大社は神々の国として知られる出雲の国、つまり島根県にあること神社は日本の国を開拓していき現在の日本の国づくりをしたことで有名な大国主大神(おおくにぬしのかみ)を祀っている由緒正しい神社で、日本では伊勢神宮と並ぶ歴史を持っています。そんな出雲大社ですが、実はその大国主大神が統治していた国を日本創設の紙であり太陽の神でもある天照大神(あまてらすおおかみ)に譲った代わりに建てられたものってご存じでしたか?また出雲大社の中にはなぜか無数のうさぎの石像があることご存じですか。今回はそんな以外と知られていない出雲大社の歴史と見どころと豆知識を紹介していきます。

出雲大社の歴史

出雲大社の歴史を語るうえで大国主大神の存在は欠かせません。大国主大神とは一体どんな神様だったのか、そして出雲大社との関係を見ていきましょう。

大国主大神と出雲大社の関係

出雲地方の豊かな自然と文化の象徴とされる大国主大神は、多くの兄弟の末っ子としてこの地に生まれました。彼は「だいこく様」としても知られ、大きな袋と打出の小槌を持ち、米俵の上に立つ姿で親しまれています。この姿は、豊穣と繁栄の神としての彼の性質を象徴しています。大国主大神の伝説には、彼が須佐之男命の娘である須勢理毘売命(すせりびめのみこと)と結婚し、その後スクナビコナと協力して国造りに励んだという話があります。彼らは禁厭(まじない)や医薬の道を教え、葦原中国(あしはらのなかつくに)と称される大地の平定と国作りを完成させました。また、大物主神(おおものぬしかみ)を祀ることによって、この地の治安と繁栄を確立しました。

大国主大神の歴史における最も重要な出来事の一つが、天照大御神(あまてらすおおみかみ)からの国譲りの要請です。高天原からの使者によってこの要請がなされた際、大国主大神は対話と武力を交えた交渉を経て、最終的には幽冥界の主宰者としての役割を受け入れることとなりました。国譲りの際の条件の一つとして、大国主大神は須佐之男命から賜った「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿、すなわち出雲大社を求めました。そうこれが、現在の出雲大社の建設のきっかけとなりました。

また出雲大社は縁結びがあるということでも有名ですが、これも大国主大神の伝説が関係しています。大国主大神は出雲王朝を繁栄させていく過程で、多くの女神との結婚を通じて数多くの子供をもうけていたのです。このような大国主大神は女性から圧倒的に人気であった逸話から、彼が縁結びの神として知られるようになった背景を形作っています。出雲大社の建設は、このような神話的背景と歴史的出来事が交錯する中で行われたものであり、大国主大神の力と影響力を今に伝える重要な証となっています。
(画像引用: ニュースイッチ)

建設の歴史

出雲大社の歴史的な建築についても、興味深い伝承が残されています。現在の本殿(国宝)は1744年に造営されたもので、約24mの高さを誇りますが、社伝によれば、太古の時代にはその高さが現在の4倍、約96mにも及んだといわれています。これは八雲山(約100m)の頂上付近に本殿の千木が見えていたことを想像させるほどの、現代においても圧倒的な高さです。また、平安時代には約48mあったとも伝えられ、その時代の建築技術の粋を集めた壮大な建造物であったことが窺えます。

2000年には、本殿の南側で鎌倉初期の造営と推定される巨大な柱根が発掘され、かつての巨大な神殿の存在を物語る重要な発見となりました。この発見は、出雲大社の歴史や建築に関する従来の見解を見直す契機となり、日本古代史の研究に新たな光を投げかけました。
(画像引用: 季刊大林)

出雲大社の見どころ

それでは続いて出雲大社の見どころを見ていきましょう。たくさん見どころがあるので、出雲大社へ行く予定がある人は必見です!

御本殿

「御本殿」は、出雲大社で最も神聖な場所とされ、参拝者にとっては訪れるべき最大の見所の一つです。1744年に建てられた現在の御本殿は、「大社造」と呼ばれる日本最古の建築様式を採用しており、その歴史的価値と美しさから国宝にも指定されています。大社造様式は、古代の日本建築の特徴を色濃く反映しており、独特の屋根形状や柱の配置など、伝統的な美学を今に伝える重要な要素を持っています。御本殿は、その精緻な構造と美しい装飾で知られ、日本の建築技術がどのようにして神聖な空間を創り出してきたかを示す見事な例です。

ただし御本殿は最も神聖な場所であり、一般の参拝客が直接立ち入ることは許されていません。そのため、参拝者は「八足門」と呼ばれる門の手前から御本殿に向かって参拝を行います。八足門自体も、その重厚な造りと伝統的な美しさで見る者を魅了します。この門をくぐることで、参拝者は神聖な空間へと一歩足を踏み入れることになり、御本殿に向けての参拝は、深い敬意と静寂の中で行われます。八足門から御本殿へと続く参道は、参拝者にとって心を落ち着け、内省する時間を提供します。この道程を通じて、訪れる人々は出雲大社の厳かな雰囲気と、そこに宿る神聖な力を身近に感じることができます。
(画像引用: 出雲大社公式HP)

勢溜の大鳥居

出雲大社の入口を象徴する「勢溜の大鳥居」は、参拝者を迎える壮大な門として、その存在感と歴史的背景で注目を集めています。この大鳥居は高さ約8.8メートル、横幅約12メートルという大きな金属製の構造物で、その迫力ある姿は訪れる人々に深い印象を与えます。

勢溜の大鳥居の名称は、かつてこの周囲にあった大きな芝居小屋で多くの人々が集まり、賑わっていた様子に由来します。「(人の)勢いが溜まる」という意味から「勢溜」と名付けられたこの鳥居は、出雲大社の歴史の中で、人々が集い、交流し、祭りや芝居で楽しんだ文化的な背景を感じさせます。

2018年に立て替えられた現在の鳥居は、以前の木製から金属製に変わりましたが、その変遷は出雲大社が時代とともに進化し続ける様子を物語っています。現代の技術と伝統が融合した新しい鳥居は、出雲大社を訪れる人々にとって新たな歴史の始まりを告げるシンボルとなっています。
(画像引用: 奈良・大和八木ゲストハウスはじまり)

神楽殿

出雲大社の神楽殿は、その歴史的背景と独特の建築美で、参拝者にとって見逃せない見所の一つです。元々は千家國造家(出雲大社宮司家)の大広間として使われ、風調館(ふうちょうかん)と呼ばれていたこの建物は、明治時代の出雲大社教の設立以降、神殿としても機能し、様々な祭事や行事、御祈祷、結婚式などが執り行われています。

特に注目すべきは、昭和56年(1981年)に出雲大社教の特立100年を記念して拡張・建て替えられた現在の神楽殿です。この大広間は270畳の広さを誇り、その壮大さは参拝者を圧倒します。また、神社建築においては珍しい、正面破風の装飾に使われたステンドグラスが、伝統的な日本建築とモダンな要素が調和したユニークな美しさを生み出しています。神楽殿の前には、長さ約13メートル、重さ5.2トンにも及ぶ大注連縄が掛けられており、その迫力は訪れる人々を魅了します。この大注連縄は数年に一度新しいものに懸け替えられるため、その懸け替えの儀式もまた、見所の一つです。

さらに、神楽殿前庭には高さ47メートルの国旗掲揚塔が聳え立ち、そこに揚げられる国旗は75畳(縦8.7メートル・横13.6メートル)の大きさで、その壮観さは圧巻です。神楽殿の後方には、出雲大社宮司家の祖先神や天満宮を祀った鎮守社が並び、国旗掲揚塔の南には祓社、金刀比羅宮が鎮座しています。これらの神社群もまた、神楽殿を訪れた際にはぜひ訪れたいスポットです。
(画像引用: ニッポン旅マガジン)

拝殿

出雲大社の拝殿は、広大な境内に佇む存在感ある建築物で、1959年に建てられた現在の建物は、約13メートルの高さを誇ります。戦後の日本において本格的な木造建築としては屈指の規模を持つと言われ、その雄大さと美しさで多くの参拝者を魅了しています。拝殿の建設は、昭和28年5月に発生した火災によって古い拝殿・鑽火殿(さんかでん)・庁舎(ちょうのや)が焼失したことに伴う再興事業の一環として行われました。新拝殿の竣功は、高松宮宣仁親王を総裁に迎え、全国の崇敬者の方々の寄付によって賄われた1億1千万円の総工費をかけた大規模プロジェクトの成果です。この壮大な拝殿は、戦後の復興期における日本の木造建築技術の高さを示す象徴とも言えます。

出雲大社の拝殿における参拝方法は、他の神社とは少し異なります。二礼四拍手一礼(二回お辞儀をしてから四回手を打ち、最後にもう一度お辞儀をする)という独特の作法があり、これは出雲大社特有の伝統的な参拝の作法とされています。この特別な参拝方法は、出雲大社の独自性と神聖さを象徴しており、参拝者にとってはこの地の神聖な空気をより深く感じることができる貴重な体験となります。また拝殿は出雲大社の重要な儀式や行事が執り行われる中心的な場所でもあります。ここでの神聖な儀式や祭事を通じて、出雲大社の神々と参拝者との間の絆が深まり、多くの人々に精神的な平和と癒しをもたらしています。
(画像引用: しまね観光ナビ)

祓社(はらえのやしろ)

出雲大社の境内に一歩足を踏み入れると、訪れる者を厳かな雰囲気が迎えます。勢溜の大鳥居をくぐり、参道を進むと、右手に位置する「祓社(はらえのやしろ)」は、出雲大社に参拝する前に訪れるべき重要なお社の一つです。この祓社は、心身のけがれを祓い清めるための四柱の祓戸神(はらえどのかみ)を祀っています。

祓社の役割は、参拝者が神前に進む前に、心身を清め、純粋な状態で神々に祈りを捧げることができるようにすることにあります。この小さなお社は、出雲大社の境内での参拝の流れの中で重要な位置を占めており、その静かで落ち着いた雰囲気は訪れる人々に穏やかな安らぎを提供します。

祓社にお参りすることで、日常生活で積もった煩わしさや心のもやもやを一掃し、新たな気持ちで神々との対話を始めることができるでしょう。参道の初めに位置するこのお社は、出雲大社の参拝をより深いものにしてくれるはじめの一歩とも言えます。
(画像引用: 出雲大社が好きになる!)

十九社(じゅうくしゃ)

出雲大社の境内には、御本殿を中心に配置された独特な形状のお社、十九社(じゅうくしゃ)が東西に存在します。これらの細長いお社は出雲大社独自のものであり、その名称の「十九社」には、出雲大社の深い歴史と伝統が込められています。

特に興味深いのは、毎年旧暦の10月に行われる出雲地方の習わしです。一般的にこの時期は「神無月」と呼ばれ、全国の神々が出雲に集まるため、他の地方では神が留守になるとされています。しかし、出雲ではこれを「神在月」と称し、神々が集う特別な時期として祝います。十九社は、この神在月に出雲に集まる神々をお迎えし、宿泊の場として用意されるのです。

神在月には、全国の神々にお参りできるとあって、多くの参拝者が十九社を訪れ、ここに行列ができることも珍しくありません。参拝者は、各地から集まった神々に一度にお参りすることができるため、この時期の十九社は特に大きな意義を持ちます。
(画像引用: 出雲大社の歩き方)

出雲大社の豆知識

それでは最後に出雲大社の豆知識を見ていきましょう。意外と知らないことが多いかもなので、必見です!

出雲大社と呼ばれだしたのは最近?

実は出雲大社は、古くは「杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)」と呼ばれていました。この名前は、神社が位置する地域の名称や神話に由来するものであったと考えられます。しかし、1871年(明治4年)に、明治政府による神社制度の改革の一環として、この神社の名称が「出雲大社」に変更されました。この改称は、明治維新に伴う社格制度の導入と、全国的な神社の体系化、組織化の動きの中で行われました。

明治時代の初期に導入された近代社格制度のもとでは、神社はその重要度や歴史的背景に基づき、官幣大社や官幣中社などといった階級に分けられました。この際、杵築大社はその重要性から官幣大社の一つとされ、さらにこの機会を利用して名称が「出雲大社」と改称されたのです。この改称は、神社の全国的な知名度を高め、その歴史的・宗教的な重要性をより明確にする目的があったと考えられます。

現在、出雲大社の正式名称は「いづもおおやしろ」とされており、これは神社公式サイトなどでも確認することができます。この名称の変更は、神社のアイデンティティを新たに定義し、明治政府による近代化政策の一環としての神社改革を反映しています。このように、出雲大社の名称変更は、日本の神道や神社に対する政策の変化と密接に関連していることがわかります。
(画像引用: カラデル)

無数のうさぎの石像

出雲大社の中にはたくさんのうさぎの石像があって驚かれる方も多いかと思います。神社で狐の石像があることはありますが、うさぎは出雲大社以外あまり見かけないと思います。一体何故なのでしょう。

これは出雲大社が祀っている大国主大神の因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)という逸話が由来になっているのです。知らない方のために因幡の白兎について簡単に紹介していきましょう。

因幡の白兎

かつて出雲の国には大国主大神として知られる心優しき神様がおられました。彼には多くの兄弟がいましたが、その中でも大国主大神は特に慈悲深い存在でした。ある日、兄弟たちは美しい姫、八上比売が因幡の国にいるという噂を耳にし、彼女に会いに行くことを決めました。大国主大神は、兄弟たちの後をついていくことになり、大きな袋を背負って家来のように行動しました。

因幡の国に向かう途中、気多の岬で兄弟たちは皮を剥がれて泣いている白いうさぎに出会いました。兄弟たちはうさぎに意地悪をして、海水に浸かり風に当たるとよいと嘘をつきました。うさぎはその言葉を信じて海に飛び込み、風に吹かれることで傷がさらに悪化してしまいました。

しかし、その後を追ってきた大国主大神は、傷つき苦しむうさぎに声をかけ、その事情を聞きました。うさぎは隠岐の島から因幡の国へ渡ろうとした際、ワニをだまして渡ろうとしましたが、そのことがバレて皮を剥がれる刑罰を受けたのだと語りました。大国主大神はうさぎに対し、真水で体を洗い、蒲の花の上で休むよう助言しました。うさぎはその通りにし、やがて美しい白い毛が再び生え揃い、元の姿に戻りました。

因幡の国に到着した大国主大神は、多くの兄弟たちが八上比売に求婚しましたが、最終的に八上比売が選んだのは、他ならぬ大国主大神でした。この物語は、大国主大神の優しさと慈悲の心を示すものであり、出雲大社で祀られている彼の神性を象徴しています。

こうした大国主大神の心優しさを後世への伝えていくために出雲大社ではうさぎの石像がたくさん作られたのです。
(画像引用: 出雲大社公式HP)

しめ縄の向き

出雲大社におけるしめ縄は、神聖な領域と人間の住む世界を隔てる重要な「結界」としての役割を担っています。このしめ縄は、出雲大社の拝殿(はいでん)と神楽殿(かぐらでん)の2か所に設置されており、特に神楽殿に飾られている大しめ縄は非常に有名です。

出雲大社のしめ縄は、一般的な神社に見られる張り方とは異なります。通常、神社ではしめ縄を張る際に右側を上位とし、左側を下位とする配置が採用されます。これは、神に向かって右側が始点で左側が終点になるように綯い(な)われるためです。しかし、出雲大社では古くから異なる慣習があり、「左方を上位」「右方を下位」とする考え方が根強く残っています。このため、出雲大社ではしめ縄が左右逆の配置で張られています。つまり、左側が綯い始めで右側が綯い終りとなります。

この独特の配置は、出雲大社の神々の位置付けにも反映されています。御本殿内には「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」をはじめとする五柱の神が祀られており、天之御中主神が一番左に位置しています。これは「左方が上位」という考えを物理的に示しています。また、江戸時代の記録には、上位へのお供え物を左側に、下位のものを右側に進める作法が記されており、出雲大社独自の「左方を上位」とする伝統が確認できます。

以上のように、出雲大社におけるしめ縄は、一般的な神社とは異なる独特の張り方がされており、その背後には出雲大社特有の伝統と信仰が存在しています。

天皇は出雲大社へ入れない?

出雲大社は国造りの神である大国主命(おおくにぬしのみこと)を主祭神としていて、宮司は、天穂日命(あまのほひのみこと)を祖とする出雲国造家によって代々務められてきました。天穂日命は、日本神話において天照大神(あまてらすおおみかみ)の子とされ、出雲国造家はその直系の子孫であると伝えられています。

出雲国造家が天照大神の直系の子孫という特別な血統により、彼らのみが祭祀を行うという伝統は長い歴史を通じて継承されてきました。この伝統により、この家系外の者、たとえ天皇であっても、直接的に祭祀に関与することは避けられているのです。

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回は出雲大社の歴史や見どころ、豆知識を紹介していきました。元々国譲りがきっかけで建設された神社で明治時代までは杵築大社と呼ばれていたことが意外でしたね。また境内至る所にあるうさぎの石像も因幡の白兎が由来であることが面白いですね。それにしてもうさぎの石像が多くてびっくりしますが。このように歴史や豆知識を事前に知ってから出雲大社を訪れるとまた違った角度から楽しめるはずです。興味持った方はぜひ出雲大社へ足を運んでみてください!

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