皆さん、平等院鳳凰堂へ訪れたことはありますか?10円玉に描かれているということで昔から親しみのある歴史的建造物ですが、実際に訪れてみるとその豪華絢爛な建築美や池に映る本堂も併せた全体の美しさに圧倒されてしまうこと間違いなしです。そんな豪華な平等院鳳凰堂ですが、実は苦しい世の中へ希望の光を差し込むために建設されたことご存じでしょうか?そして平等院鳳凰堂自体が何かを現していることをご存じでしょうか。今回はそんな意外と知らない平等院鳳凰堂の歴史と見どころと豆知識を紹介していきます。
平等院鳳凰堂の歴史
まずは歴史から見ていきましょう。平等院鳳凰堂がある宇治は、京都の美しい郊外に位置し、平安時代には上流貴族の憩いの地として知られていました。この地には、後の光源氏のモデルとも言われる源融の別荘があり、歴代の皇族や貴族たちによって愛されてきました。特に藤原道長が所有した後、この場所は「宇治殿」と呼ばれ、息子の藤原頼通に引き継がれました。
藤原頼通が宇治殿を引き継いだ時代は、社会が大きな不安定さに見舞われていました。釈迦入滅後2000年を迎えると、仏の教えが廃れてしまうという末法思想が広まりました。ちょうどその2000年目にあたるころ、飢饉や疫病が流行し、盗賊が横行し、貴族の邸宅でさえも放火されるなど、荒れた世の中になっていました。また朝廷への強訴や直訴が頻発し、護衛兵士の存在も安心を与えるどころか、不信感を増す一因となっていました。このような世の中では人々は仏の念仏を唱えても何も役に立たず、世の終わりが来ていると考え、来世で救われたい、死後は極楽浄土へ行きたいという考え方が広まりました。
このような不穏な時代背景の中、藤原頼通は宇治殿を寺院へと変え、現世の極楽浄土を創造することを決意しました。その結果、平等院が創建され、続いてのちの鳳凰堂と呼ばれることにある阿弥陀堂が建立されました。阿弥陀堂は現世に映し出された極楽浄土でした。阿弥陀如来を祀ったこの堂は、念仏を唱えることでどんな人でも極楽浄土へと導かれるという信仰を打ち出すことで、貴族はもちろん、困難な時代を生きる人々にも希望を与える場所として設計されたのです。当時は阿弥陀等と呼ばれていて、江戸時代初期になり、阿弥陀堂が翼を広げた鳳凰に似ているということから鳳凰堂と呼ばれるようになりました。
宇治が歴史的に多くの戦乱に見舞われた地であることは、平等院鳳凰堂のその後の運命にも大きく影響を与えました。特に宇治橋の合戦や源平合戦などの大規模な衝突は、平等院にとっても大きな試練となりました。しかし、鳳凰堂はこれらの試練を乗り越え、今日に至るまでその姿を保ち続けています。
明治時代には仏教排斥の動きもありましたが、平等院鳳凰堂は地域社会の努力によって守られました。1990年代には、コンピューターグラフィックスを活用した修復作業が行われ、2001年には平等院ミュージアム鳳翔館がオープンし、より多くの人々にその歴史と美を伝える機会が提供されています。しかし現代の都市開発は新たな課題を平等院鳳凰堂にもたらしました。背後に建設された高層マンションが景観を損ねる事態が発生し、これを受けて「宇治市景観条例」が制定されるなど、歴史的価値を守るための努力が続けられています。
平等院鳳凰堂の見どころ
続いて平等院鳳凰堂の見どころを見ていきましょう。様々な見どころがあるのでしっかり確認していきましょう。
鳳凰堂
1053年に創建されたこの堂は、もともと阿弥陀堂、または御堂と称され、江戸時代に入って「鳳凰堂」と呼ばれるようになりました。藤原氏の華麗なる時代を今に伝える、貴重な遺構の一つです。鳳凰堂の魅力は、その建築様式にあります。池の中央に建てられたこの堂は、水面に映る姿がまるで極楽浄土の宮殿のように見えることで知られています。晴れた日には、その幻想的な姿が水面に映り込み、見る者を魅了します。
鳳凰堂内部には、中央に鎮座する阿弥陀如来坐像があります。浄土思想に基づき、この阿弥陀如来は往生する人々を迎えるとされています。この像は、平安時代後期の著名な仏師・定朝の作とされ、現存する定朝の作品としては唯一の確証があるものです。また、堂内には九品来迎図や極楽浄土図などの美しい絵画があり、透かし彫りの天蓋や、天人や楽器を奏でる童子の姿が描かれた柱など、極彩色で装飾された内装が、かつての平安貴族が想像した極楽の世界を彷彿とさせます。
鳳凰堂の名の由来となった屋根の鳳凰像は、現在はレプリカが設置されており、オリジナルは平等院ミュージアム鳳翔館で見ることができます。この鳳凰像は、現行の一万円札の裏面にもデザインされており、鳳凰堂の象徴としても広く認知されています。
観音堂
宇治にある平等院の敷地内に位置する観音堂は、平安時代に平等院が創建された当初の本堂があった場所に建てられています。この歴史的な場所には、鎌倉時代前期に再建された観音堂が今も静かに佇んでおり、重要文化財としてその価値を認められています。ただし、観音堂内部は一般には公開されておらず、その神聖な雰囲気は外から想像するしかありません。
観音堂の名は、その内部に安置されていた平安時代後期に造られた本尊、十一面観音立像に由来しています。この立像は、観音菩薩の慈悲深い姿を象徴し、かつては信者たちの信仰の対象として観音堂の中心に鎮座していました。現在では、この貴重な仏像は平等院ミュージアム鳳翔館に移され、より多くの人々がその美しさと歴史的価値を間近で見ることができるようになりました。
(画像引用: 平等院公式HP)
鐘楼
平等院鳳凰堂の静謐な庭園に佇む鐘楼は、その歴史的な価値と美しさで訪れる人々を魅了してやみません。特にこの鐘楼には、日本国内でも特別な存在である国宝指定の梵鐘(ぼんしょう)が設置されています。この梵鐘は、その高さ約2メートル、底部の円の内径が1.24メートルにも及ぶ大きさで、重量は約3トンにものぼると言われています。
梵鐘とは、一般に「釣鐘」とも呼ばれる仏教寺院における鐘の一種です。この鐘の響きは、仏教徒にとって重要な意味を持ち、礼拝や儀式の際に用いられます。平等院の梵鐘は、その美しい響きと共に、長い歴史の中で数多くの人々に親しまれてきました。かつてこの梵鐘は、その文化的価値を讃えて60円切手のデザインにも採用されました。昭和時代を生きた多くの人々にとっては、この切手を通じて梵鐘の存在を知り、その歴史的重要性を学ぶ機会となりました。
しかし、時の経過と共に梵鐘の保存状態に配慮する必要が生じ、本物の梵鐘は錆防止などの理由から平等院ミュージアム鳳翔館に収蔵展示されることとなりました。現在鐘楼にあるのは、本物の梵鐘を忠実に再現した複製品ですが、その姿は訪れる人々に古の響きを想像させ、歴史の一片を伝えています。
(画像引用: Nippon.com)
庭園
平等院鳳凰堂の庭園は、1922年に国の史跡および名勝として指定された、浄土式庭園の傑作です。この庭園は、極楽浄土を地上に再現したかのような美しい風景を提供し、訪れる人々に平安時代の精神性と美の世界を伝えています。庭園の中心となるのは、極楽浄土にあるとされる宝池を模した阿字池です。この池の存在は、平安時代の歌人・橘俊綱によって「当代きってのもの」と謳われたほど、その美しさと意義は古くから高く評価されていました。庭園の構成は、極楽浄土をこの世に表すことを目指しており、その姿はまさに浄土思想を地上に具現化したものと言えます。
阿弥陀堂は、池の西岸に位置しています。この配置は、東岸から池を渡って阿弥陀如来を拝むという、極楽往生を願う信仰心を表しています。朝日が池に反射し、阿弥陀如来を照らす様子は、まるで浄土から衆生を迎えに来る仏の姿のように見え、訪れる人々に深い感動を与えてきました。また1990年から行われた発掘調査では、平安時代の州浜が発見されました。この発見により、庭園は創建当初の姿に復元され、訪れる人々にはまさに藤原頼通が見た景色が今も目の前に広がっています。
(画像引用: 平等院公式HP)
源頼政の墓地
平等院鳳凰堂の静かな境内には、歴史に名を残す武人であり、名高い歌人でもある源頼政の墓があります。その墓は、宝篋印塔(ほうきょういんとう)として知られ、最勝院の建物を正面にして左手奥の一角にひっそりと佇んでいます。源頼政は、保元・平治の乱で武勲を挙げたことで知られ、また、その優れた和歌を数多く残しています。
源頼政は、治承4年(1180年)5月26日に平家討伐の兵を挙げましたが、平知盛の手によって撃退されます。その後、平等院境内で自らの最期を選び、76歳の生涯を閉じました。彼が最後に残した自生の句は、その武勇と文才の両面から頼政の人となりを偲ばせるものです。頼政の命日である5月26日には、彼の遺徳を偲んで「関白頼政忌」という法要が行われます。この法要では、僧団が境内を巡り、鳳凰堂で経を読み上げることで頼政の霊を慰めます。この儀式は、彼の武勲と文化への貢献を今に伝える重要な行事となっています。
現在、頼政が自刃したとされる場所は「扇の芝」と呼ばれ、平等院鳳凰堂の見学スポットとして訪れる人々にその歴史を伝えています。この場所は、源頼政の壮絶な最期と、彼の生きた時代の物語を感じさせる特別な空間です。
(画像引用: Amazing Trip)
鳳凰堂ミュージアム
平等院の敷地内には鳳凰堂ミュージアムという世界遺産である平等院の極楽浄土の精神を現代に伝える場所があります。このミュージアムは、周囲の自然環境との調和を重視し、大部分が地下構造になっています。しかし、自然光を巧みに取り入れた設計と照明の工夫により、地下空間とは思えない明るくドラマティックな展示空間が実現されています。
鳳凰堂ミュージアムでは、国宝の「梵鐘」や「雲中供養菩薩像26躯」、「鳳凰1対」をはじめとする貴重な寺宝が展示されており、これらの文化財を通じて平安時代の芸術と精神性に触れることができます。また、重要文化財である「十一面観音菩薩立像」など、平等院の歴史と文化を物語る数々の展示品が、訪れる人々に深い感動を与えます。平等院創建当初の軒瓦や土器など、発掘調査で見つかった出土品も展示されており、平等院の歴史を具体的に感じることができます。これらの展示品は、平等院とその周辺地域の歴史を深く理解するための貴重な資料です。
鳳凰堂ミュージアムの特徴として最新のデジタル技術を活用して、鳳凰堂内部の彩色復元映像を展示しています。この映像を通じて、平安時代の鳳凰堂が持っていた色彩の鮮やかさや装飾の美しさを、現代の技術を通じて再現し、訪れる人々にその魅力を伝えています。また国内最大級のガラスウォールケースを用いることで、展示物それぞれの特性を活かした展示が行われています。この工夫により、文化財が持つ歴史的価値と美しさを、より多くの人々に伝えることが可能になっています。
(画像引用: 京都府ミュージアムフォーラム)
平等院鳳凰堂の豆知識
最後に平等院鳳凰堂の豆知識を見ていきましょう。平等院鳳凰堂にも様々な豆知識があるので、見ていきましょう。
平等院の「平等」の意味は左右対称の造りだから?
平等院鳳凰堂の「平等」とは一体どういう意味でしょうか。建物が左右対称であるから平等と勘違いされる方もいらっしゃいますが、正しくは「仏の救済は平等」というところから来ています。社会全体が荒廃していたときに世の全ての人々へ現世の極楽浄土を見せるために建てられたので、平等なのです。ちなみに平等院は仏の平等を光で表している光のお寺なのです。
平等院鳳凰堂はなぜ10円玉に採用されたのか
多くの日本人になじみ深い10円玉に平等院鳳凰堂は描かれています。10円玉に描かれる建築物として選ばれた理由として日本を代表する文化財であり、かつ建物に特徴があり、さらに無宗派であることが挙げられます。インパクトがあり、さらに全員が使う10円玉なので特定の宗教に寄った建物は避けたいということで白羽の矢が立ったのが平等院鳳凰堂でした。
(画像引用: S-Blog)
平等院鳳凰堂には階段がなくて人が通れないくらい屋根が低い?
平等院鳳凰堂は2階建てですが、よく見ると階段がありません。しかも屋根が低くて人が通れるとは到底考えられません。しかしこれには理由があります。平等院鳳凰堂は阿弥陀如来がいる極楽浄土を再現したものなので、人が入る建物ではないのです。仏をたたえるための建物なので実用面はあまり重視されず建築美が優先されました。また仏は階段がなくても2階へ上がれて、屋根の低さという物理的制約にも影響されないと考えられていたから階段がなくて屋根が低いという説もあります。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は平等院鳳凰堂の歴史と見どころと豆知識を見ていきました。争いや飢饉が続く苦しい世の中において仏教を唱えるだけではどうにもならないと感じ絶望している世の人々へ極楽浄土を見せるために建設されたのが平等院鳳凰堂でした。現世における極楽浄土ということで、豪華絢爛なのは当然として池も活用し全体が美しく映るように設計されたのです。このような知識を知ってから実際に平等院鳳凰堂へ足を運ぶとまた違った角度から楽しめそうですね。
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