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皆さん、清水寺についてどれくらい知っていますでしょうか?清水寺は古くから多くの日本人から愛され、数多くの人が参拝に来ていましたが、そもそもどんな経緯で建設されたお寺か知っている方は多くはないかと思います。また「清水の舞台」で有名な本堂以外にも様々な見どころがありますが、あまり有名ではありません。さらに「清水の舞台から飛び降りる」という有名な諺の意味や誕生のきっかけも意外と知らない方が多いと思います。清水寺は日本でも有数の観光地として、そして現在では毎年数多くの海外からの観光客が訪れていますが、まだまだ知らない部分も多い清水寺。そこで今回はそんな意外と知らない清水寺の歴史と見どころを紹介していきます。清水寺へ行く予定がある人もない人も必見の内容です!
清水寺の歴史
昔、奈良時代の778年、賢心という名のお坊さんがいました。ある夜、彼は夢の中で不思議なお告げを受け、「木津川をたどり聖なる水を求めよ」との指示を得ました。賢心は現在の京都、音羽山に踏み入ると、黄金に輝く湧水を発見しました。源を辿ると、神秘的な輝きを放つ老人、行叡居士に出会いました。この輝きは、単なる反射ではなく、彼のオーラから放たれているものでした。行叡はこの山で滝行を続け、驚くべきことに200歳になっていました。
行叡は賢心にこう告げました。「長い間、あなたの到来を待っていた。どうかこの霊地を守り、千手観音像をこの地に安置してほしい」と。そして、彼はどこかへ姿を消しました。この霊的な出会いに深く感銘を受けた賢心は、霊木で観音像を彫り、行叡の庵にそれを安置しました。そして、彼は自らの名を延鎮と改めました。こうして、清水寺の起源が語られます。当初は庵に過ぎず、まだ寺院ではありませんでした。
賢心が夢のお告げを受けてから2年後の780年、強健な男、坂上田村麻呂が音羽山を訪れました。彼は妻の健康を願い、鹿狩りをしていましたが、音羽の滝で延鎮と出会い、生き物を殺す罪を悟り、鹿狩りを止めて山を下りました。後に田村麻呂は東北地方の平定に大いに貢献し、征夷大将軍となりました。彼は自らの邸宅を寄進し、音羽山にお寺を建立しました。これが今日まで続く清水寺の始まりです。清水寺には行叡が元祖、延鎮が開山、そして坂上田村麻呂が本願として記されています。これらの複雑な背景が清水寺の歴史を形成しています。
清水寺はその後、朝廷から正式に認められ、多額の予算を得て、初めは小さな庵から次第に大きな本堂や舞台を持つ荘厳な寺院へと発展していったのです。ですが木造建築ということもあり、清水寺は創建から1240年以上の長い歴史で9回焼失するなど何度も大きな被害を受けました。特に1469年の応仁の乱では、京都市街だけでなく清水寺も大きな被害を受けました。しかし当時の朝廷には再建の財力がなく、願阿弥という僧侶が必死に人々に再建のために費用を寄付してもらい、数十年かけて寺院を再興しました。1629年にも火災がありましたが、1633年に徳川家光の寄進により本堂が再建され、これが現在の本堂となっています。
清水寺の歴史は、単に建物の古さや美しさだけでなく、長年にわたって日本人に大切にされ続けてきた「歴史と文化」が評価され、清水寺は1994年12月14日に「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されました。