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花魁は華やかな印象の裏腹、実際の生活はかなり厳しいものであったことご存じでしょうか。仕事柄、ほとんど室内で食べて寝て性接待のみという生活であったため健康を維持すること自体がかなり難しかったのです。花魁を中心とする遊女の平均寿命はなんと22歳。ほとんどが年季を待たずして亡くなってしまうことが多かったのです。なぜなら花魁たちは非常に劣悪な環境で生活していたからです。そんな劣悪な環境での生活だったため病気が蔓延していたようです。そして亡くなると投げ込み寺へ投げられると言われていました。今回はそんな花魁の劣悪な生活環境とかかりやすかった病気、そして投げ込み寺について紹介していきます。

花魁の劣悪な生活環境

それでは花魁を中心とした遊女たちがどのような生活を送っていったのか見ていきましょう。当時は生活環境は非常に不衛生で劣悪でした。位の高い花魁となれば個室が与えられていましたが、大半の遊女は密閉された狭い部屋に集団で暮らしていたのです。また食事もかなり貧しいものでした。白米・味噌汁・漬物がほぼ全てで、お客の残り物をとっておき、後で遊女もいたといいます。このような食事だったので当然栄養が足りません。

また江戸時代では現代と比べて流通する水の質も悪く、浴室やトイレなどの衛生設備も整っていませんでした。そして彼女たちは日々性接待をします。ただでさえ感染病にかかりやすいのに、さらに狭い空間で共同生活をしている。そしてみずっ回りの環境も悪い。このように当時の花魁を中心とする遊女の生活は劣悪な環境だったのです。

花魁が罹りやすかった病気

このように花魁は非常に劣悪な生活環境だったので病気が蔓延していたようです。では花魁はどのような病気にかかりやすかったのでしょうか。花魁が感染しやすかった代表的な病気を見ていきます。

梅毒

江戸時代の遊女が最もかかりやすかった病気の一つが梅毒でした。遊女は仕事柄、不特定多数の男性客と性的な行為を行うことが多く、当時の避妊法や避妊具は効果が乏しく、また十分に普及していなかったため、性病のリスクは非常に高かったのです。

特に恐れられていたのが梅毒であり、この病気にかかる遊女は非常に多かったとされています。梅毒は進行すると非常に厳しい症状を引き起こし、当時は有効な治療法がなかったため、完治させることは困難でした。梅毒に感染すると、最初は無症状か軽微なものであることが多いですが、放置すると体全体に重大な影響を及ぼすようになります。

遊女にとって、梅毒に感染したことは一種の通過儀礼とも見なされることがあり、「一人前の遊女」とみなされることもありました。しかし、このような見方は病気の深刻さを軽視するものであり、実際には遊女の健康と生命に深刻な影響を与えていました。

梅毒が進行すると「ゴム腫」と呼ばれる弾力のある腫瘍が体に現れ、最終的には壊死してしまいます。特に恐ろしいのが、梅毒が顔面に影響を及ぼし、「鼻が落ちる」という症状が現れることです。これは遊女にとって致命的であり、容姿を大きく損なうだけでなく、命に関わる状況にもなり得ました。

このように、江戸時代の遊女は梅毒という深刻な性病のリスクに常に晒されており、その生活は遥かに苦しく、危険なものであったことが伺えます。遊郭の華やかな外観の裏で、遊女たちは身体的、精神的な大きな負担を背負っていたのです。

肺結核

江戸時代の日本では、肺結核(労咳)は社会のあらゆる階層に広がっており、遊女、特に地位の高い花魁もその例外ではありませんでした。肺結核は、新選組の沖田総司や幕末の志士・高杉晋作、さらには女性作家の樋口一葉の命を奪ったことで知られていますが、これは遊女に限った話ではなく、当時の日本社会全体で恐れられていた病気でした。

肺結核は感染力が非常に強く、患者の咳やくしゃみから飛散した微小な飛沫を通じて他の人々に広がります。病気が進行すると、患者は慢性的な咳、血痰、体重減少、疲労感などの症状に苦しみます。当時の医学では十分な治療法がなく、肺結核にかかるとほぼ治る見込みがない、というのが一般的な認識でした。

花魁が肺結核にかかりやすい環境にあった一因として、遊郭の生活環境が挙げられます。密閉された空間で多くの時間を過ごし、労働条件の厳しさからくるストレス、十分な栄養が取れない食生活などが、彼女たちの免疫力を低下させました。また、遊郭内では多くの人々が出入りし、それによって病気が容易に広がる環境が形成されていました。

投げ込み寺

このように花魁と中心とした遊女たちは梅毒や肺結核などの病気に感染しやすく、平均寿命は平均22歳と言われています。そんな遊女たちですが、実は亡くなった後は埋葬されず遺体をお寺に投げ込まれていたのです。きっかけは1855年に発生した安政大地震です。マグニチュード7で死者が1万人以上出たこの地震では遊女たちも大勢亡くなってしまいました。普通であれば亡くなったら遺体は親族のもとへ返され親族のお墓で供養されるのが一般的です。しかし遊女たちはもともと身売りされた身なのです。そんな身寄りがない遊女たちの遺体は台東区にある浄閑寺へ投げ込まれるようになりました。

それ以降病気などで亡くなった遊女たちは人目を避けて浄閑寺へ投げ込まれるようになり、「投げ込み寺」という異名がつきました。亡くなった遊女たちは素裸で文字通り投げ込まれるなど乱雑な扱いだったと言われています。投げ込み寺・浄閑寺の壁には「生きては苦界、死しては浄閑寺」と書いてありました。この句は川柳作家・花又花酔が浄閑寺を訪れては遊女たちの哀しい人生を偲んで詠んだと言われています。
(画像引用: 4 travel)

まとめ

いかがでしたでしょうか。花魁の厳しい生活環境とかかりやすい病気、そして投げ込み寺について紹介させていただきました。当時の不衛生な環境から梅毒が蔓延し、肺結核に罹る遊女も大勢いたのです。そして亡くなったら投げ込み寺へ投げ込まれてしまう。華やかな印象とは大きく乖離した花魁たちの実情がありました。

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